47話 平成の雪女。

47 平成の雪女



 紙魚(しぎょ)の食った和紙の売上帳をもって老人はもどって来た。

 麻で編んだ座布団に座った。

 赤々と燃える囲炉裏の火に和綴の帳面をかざした。

 その綴じ紐も麻を細くないあげたものであることを、わたしは懐かしくみてとっていた。

 懐かしいだけではない。江戸時代からの農作物の売上帳が保存してある。もと庄屋の家系の律儀(りちぎ)さに感心した。

「栃木但馬屋和三郎と書いてありますな」

 墨痕鮮やかに王義之風の書体で、買い付けた繭と麻の代金に添えて署名と花押(かおう)が書かれていた。

 わが家の三代前の、祖々父の筆跡だった。井桁(いげた)に三の商標もさらに懐かしさを誘うものであった。

 終戦からは、数年が過ぎていた。だが、ビニロンやナイロンといった合成繊維の開発以前のことだ。郷里の栃木から鹿沼周辺ではまだまだ野州麻の栽培が盛んだった。オートバイでその日、最後に乗りつけた小来川の奥の〈山窪〉という地名の部落の農家でのことだった。

「麻買いさまは、どこからきなさったね」

 と言う問いにわたしが応えた。老人が「但馬屋」という名を聞いたことがあるという。

 先祖代々の屋号がここででてくるとは思ってもみなかった。先祖の功徳もあり、初めて訪れた農家なのに商談が成立した。わたしは矢立をとりだし先程の帳面に署名した。終戦後のことで、万年筆はまだでまわっていなかった。なにか、懐かしさに混入して、時間が止まってしまっているような……奇妙な感覚があった。

 外はすっかり夕暮れいた。

 雪化粧をした日光の峰々が薄暮のなかに霞んでいた。

 薄墨色の水墨画のような遠景。

 男体山、女峰、太郎、赤薙の峰が消えていく。窪地にある部落だ。目前の雪の山肌だけが見上げられた。

「麻買いさまは嫁さんはまだかね」

 と夕食をよばれている席できかれた。まだ学生だとこたえると……あまり落着いているから、もう嫁さんがいると思っていた、と老人が真面目な顔でいった。

「いいひとがいたら紹介してくださいよ、昔だったら兄さんくらいで、嫁とってもあたりまえだったんだがな……。この子の父が硫黄島で戦死してる。婚期がおくれてるのだが、ひとに頼むことをわしがしないもので……やはり、里まで出ておっくうがらずに頼まなければ……」と、くどき話しになった。

 娘さんは、麻(あさ)剥(は)ぎにもどっていった。土間に筵(むしろ)をすき、麻の茎から繊維を剥ぐ仕事をしていた。冬だというのに一重ものの着物を着ていた。膝を立てて麻剥ぎをしていた。

 どきっとするような白い太腿が囲炉裏の火をあびてちらちらしていた。陸中地方の雪晒しとおなじでな、雪にひたして剥ぐと強い繊維がとれるものでな……寒くてかわいそうなのだが……。老人がわたしの視線が娘さんに向いているのに気づいてなにげなく説明してくれた。

 あの皮麻(ひま)も春になったら是非買いにきてくだされや、と軒下まで送ってくれた。

 雑木林に止めておいたオートバイはキックスターターをなんどもふみさげてもかからなかった。傘をさしかけてくれた、娘さんは心配そうにそばに立っていた。降り出した雪の中を一本の傘で送られてきたので、なんどか手が触れ合いわたしは動悸がたかまっていた。

 先にもどってくださいとはいえないでいた。

 長い黒髪に雪が降りかかっていた。頭の真ん中でわけられた髪は両肩にながれていた。

 寒いでしょう……と声をかけると、なれてますから、とはずかしそうに絶え入る ような声で応じた。その一言だけ、わたしは彼女と言葉を交わした。

 雑木林には雪が舞っていた。幻想的な白い世界。小来川の宿場を通過するころは、雪は横殴りに吹き荒び、ライトのなかで舞い狂っていた。

 林の中の道にはいった。

 葉の落ち尽くした楢(なら)やクヌギの繊枝に雪がまといついている。

 白い枝に白い花が咲いている。冷ややか雪の花だった。枝の先の虚空で月はかげりがちだった。

 音もなく雪がしんしんと舞い落ちていた。

 あまりの幽玄な美しさにわたしはバイクをとめた。するといままで音もなくと思っていた雪が……なにかささやいている。無人の林にひとのささやくような声がしていた。わたしは震えていた。

 女の声がした。むせび泣いている。

 雪明りに裸身の女が立っていた。

 長い髪は……風にたなびいていた。

 もりあがった胸は雪のそのものの白さであった。

 雪の着物をまとっているように見えた。

 白くやせた体は透きとおるようだった。

 背後に陰るはず木が幽にみえている。

 女のうしろに林は果てしなくひろがっていた。

 降りしきる雪。

 女の嗚咽(おえつ)はその白い視界からしていた。

 そして、その泣き声は……わたしにむけて怨嗟(えんさ)を吐きかけているようであった。

 わたしは見えない糸でたぐりよせられるように一歩前にでた……。

 さらに一歩……。

 女がこちらを見た。

 瞳が金色に輝いていた。

 黄金色のその光りは人間のものではなかった。

 白い世界を切り裂く金色の光りは、人間の眼光であるはずがなかった。

 眉には白く雪がついていた。

 キレイダ。

 美しい。

 わたしは声にならない声で詠嘆した。

 ありがとう。

 あたしをこわがらないの……あたしをこわがらないで、きれいだといってくれるのね。

 あたしはきれいなのね。

 あなたの目に美しく映るのね……。

 わたしの内密な声に対してこれまた頭に直接響いてくる声だった。

 凍てつくような雪のなかで、声には暖かなものがながれているようだった。

 いつしか雪も止み、月が林をこうこうと照らしていた。

 降り積もった雪に女の足跡はなかった。

 そのあたりは樹木が切り倒されていた。

 雪原がつらなっていた。

 凍えるように寒かった。

 雪原のはてに炭焼小屋があった。

 いくらさがしてもバイクのところにもどれなかった。

 あかあかと燃える囲炉裏や麻剥ぎをする娘さんの幻影をみたようにおもった。

 わたしは小屋の中に倒れこんだ。

 女が囲炉裏にすわっていた。

 囲炉裏には火はもえていなかった。

 火はなかったが、破れ窓から差込む月光に囲炉裏の周囲はほのかに明るかった。

 女の体を抱いた。不思議と冷たさはなかった。

 それどころか、冷えきった体が、じわっとあたたかくなる。

 氷のような女を抱いているのにあたたかなものが伝わってくる。

 あなたが、あなたの心が優しいからよ……女の声が頭にひびいてくる。                 

2


 その翌年、「倉敷レーヨン」が合成繊維のビニロンを開発した。

 わたしはついに「山窪」に春になっても麻買いにはいけなかった。

 農家で生産する大麻はビニロンに押されて売れなくなった。

 江戸時代からつづいていたわたしの家も倒産してしまった。

 約束した麻は買いにいけなかった。

 倒産した家業をなんとか復興させようと努力したが、はたせなかった。     

 東京に越し細々とサラリーマン生活をつづけ定年になった。

 子供たちもそれぞれ所帯をもって離れていった。

 見合いで郷里から嫁いできた妻はしかしいっこうに年をとらない。

 いまも、鏡にむかっている。

「ねえ……着物をきられるような生活になるとはおもわなかったわ」

 妻のながい耐乏にむくいるために、退職金をはたいて大島紡ぎを買ってやった。

 妻がえらんだのは六方晶系の雪の結晶を幾何学模様化したものだった。

「夜中になって、鏡にむかい着物をきだすなんておかしいわよね……」

「おまえのうれしそうな顔をみるのがすきだ……いつまでもきれいだな……」

「そんなこといってくれるの……あなだだけよ……もうお婆さんよ。……和服ってこんなにあたたかいとおもわなかった。足元からあたたまるのよ……スカートだとこのところ年のせいか……足が冷えるのよ」

「おまえも、やっぱり年なのかな」

「それはそうでしょう、あなたと一緒になって何年になると思うの」

 わたしは、寝床でうとうとしていた。

「どう、似合う……」

 いつになっても若々しい妻が立っていた。

 きれいだ。美しい。

 わたしは今宵こそ昔、雪の林で会った女の話しをしよう。

 もう疲れた。

 このまま明日がこなくてもいいと思う。

 さいわい外は音が途絶えている。

 わたしはこの気配をおぼえている。

 夜の通りに、粉雪が舞っているはずだ。

 都会にはめずらしい雪の夜になりそうだ。

 この汚濁した都会が、白銀色の世界になる。

 雪原に横たわる若者が幻を見上げた。

 若者は、わたしだった。

 妻の姿があの雪に裸身を晒した女に重なった。


3


「それでヤッパ最後の口づけをしたの」

「ヤダァ、ヤダァ。N3は、口づけだなんて死語つかって」

 冷凍冬眠室で最終処理台を見おろしながら、あたし、NIは応えていた。

 処理台には患者用のブルーの検査着身につけたまま一人の老人が冷凍冬眠にはいっていた。ひろびろとした処置室には医師の姿はなかった。N3とNIのふたりのナースだけがあわただしくコンピーター処理にかかっていた。

 NIが長年連れ添うように看護してきた老人が自然死ならぬ安楽死を願うキーワードーを口にしてから、まだ数分しかたっていない。「わたしは、みた。雪女をみた」キーワードは雪女だった。 

「じゃなんていえばいいの。おさしみ。せっぷん。口を吸う……」

「死語をつかって患者について話すなんて冒徳よ。あんた、ひまだから20世紀の古典の読みすぎよ」

「でもさぁ、こういうオールド・タイプの人間ってめずらしいのよね」

「でも……いがいとNIのことよく読みとってくれていたのね」

 モニターに文字化されていく彼の記憶を記録しながら、あたしはN3とおしゃべりしていた。

「ねえ、NI……おかしいよ……」

 N3のおしゃべりに応えながら、彼の最終処理をおこなうあたしの耳に、あわてふためいたN3の声がひびく。壁面のパネルでは赤いランプ点滅していた。

「NI――、蘇生ボタンを押しちゃったの?」


4


 ……時は流れ去った……わたしは……むかし雪女に出会った夜のことを……妻に今宵こそ打ち明けよう……つつましやかな物腰で……妻がわたしを上からのぞきこんでいる……わたしは……雪に埋もれて死にたい。いや……あのときわたしはすでに死んでいたのかもしれない……。


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