46話 横穴壕

46 横穴壕


 『鍵屋』という屋号の麹屋さん所有の山だった。ぼくらは『かぎやま』と呼んでいた。いまどき、麹屋などといっても知らないひとがほとんどだろう。

 え、麹そのものをしらない。そっか。こういう時代までぼくは生きてこられたんだな。

 だってね、これから話そうとしているのは、62年も前のことなんだ。まず、麹。糀ともかく。麹は米、麦、豆を蒸し、麹かびを繁殖させたもの。

 インターネットで調べれば細かく書いてあるよ。現物は大手のスーパーなら売っていると思う。でも、それは白いものだ。麹花の咲いた淡黄色になったものは見たことがないんじゃないかな。母は麹を買ってきて、ドブロクや味噌をその麹を使って作っていた。出来るモノは、なんでも自分の家で作っていた。

 すぐに使わないで古くなると黄色いカビが繁殖した。それを麹花と言っていたようだ。

 まあ、いいか。鍵山のことにもどろう。                       

「ピカドンが落ちた。ピカっと光ってドンと音がして。広島が全滅なんだってよ」

 大人たちの密やかな話がきこえてくる。

 ぼくらは不安におののいていた。

 そして、鍵山の山腹に穿たれた横穴壕に集合した。

 奥のほうまでいくと、昼でも暗かった。ぼくらはそこを秘密基地にしていた。建具屋の一郎ちゃん。洗濯屋のタダシちゃん。とび職の和やん。それに集団疎開の太田君たちもいた。

 ぼくの家はロープ屋。麻縄を作っていた。

 ぼくらは家からいろいろなものを持ち寄った。

 一郎ちゃんは建具に使う板をもってきた。

 基地の入り口が人目にふれないように板で扉をつくった。その板に泥をなすりつけた。ほかのものがきても横穴の土壁にしか見えないように工夫したのだ。

 ぼくらはいつも、その壕の最深部に作った基地で遊ぶのだった。

 ぼくはその日まだ完成していないドブロクを一升瓶につめて持参した。

 食糧難の時代だった。食べ物がない。飢えの悲しさ、苦しさ、とりわけ飢え死にするかもしれないという不安。食べられるものだったらなんでも口にした。

 絵の具まで食べた。

 白い絵の具が一番おしかった。

 学校帰りに麦の穂を摘んで食べて農家の人に追われた。

 ぼくの家はありがたいことに、風船爆弾を吊るす細引きを軍に納めていたので、特別配給品があった。飢えるようなことはなかったが、友だちと同じようにお腹をすかしているふりをしていた。そうしないと、仲間はずれにされてしまう。

「正ちゃん、このドブロクおいしいよ。初めてこんなおいしいもの飲んだよ」

「トウキョウにも無かったんけ?  そんなにうまいんなら、ぼくの分も飲みなよ」

 ぼくは大田君にぼくの茶碗のドブロクを空けてやった。ぼくはドブロクがお酒で、飲めば酔うということを知っていた。

 座繰(ざぐり)式のロープ職人は、月に二度くらいはドブロクを飲ませないと働かなくなる。

 酔うと、ぼくには意味のわからない、猥褻な歌を大声で喚き散らした。

 ぼくらは酒盛りをした。ぼくは、麹を団子のようにまるめて持ってきていた。ただ疎開の子に麹を見せたかっただけだ。でも、それを口にしたものがいた。太田君も「すごくうまいね」といって食べてしまった。

 ぼくは食べるふりをしただけだった。

 ぼくにはおいしくはなかった。

 むあっとした、カビ臭いにおいが口の中に広がって飲み込むことができなかった。そっと手に吐き出した。後ろ手に背後の土の上に捨てた。

「見よ東海の空明けて」

 一郎ちゃんが歌いだした。みんな酔ってしまった。ぼくらの歌声は横穴の中にひびいた。薄闇にこだました。大勢の仲間がいるようだった。薄暗い横穴壕の中に反響した。

「父よあなたは強かった」

 ぼくらは、軍歌を斉唱しながら壕から出た。規律正しく二列横隊の行列をつくり歩き出した。ともかく、はじめてお酒を飲んだので酔っていた。酔っているということすらわかっていなかった。楽しかった。楽しくて、舞い上がるような気分で住宅街に練りこんだ。 

 一郎ちゃんの家の前に人だかりがしていた。

「南京芝居だ。建具やの美代ちゃんが、南京芝居しちまった」 

 美代ちゃんというのは、一郎ちゃんのお母さんだ。ぼくは大人の脇から開け放たれた一間だけの家をのぞきこんだ。鴨居から綱が吊るされていた。綱を首に巻いて人がぶら下がっていた。風もないのにかすかに揺れていた。そのロープはぼくが一郎ちゃんにあげたものだった。父ちゃんが問屋に建具届けに行く時、大八車で使う綱が古くなっちまったんだ。

 そう言われてあげたばかりの真新しいロープだった。路地のむこうから、がらがらと車の轍の音が聞こえできた。大八車の梶棒のところに、古びたロープが束ねて下げられていた。ああ、まだ倹約して古いのを使っているのだ。およそその場の雰囲気とは場違いなことをぼくは考えていた。この騒ぎがあったので、ほくらの酒に酔った行進は、誰にも見とがめられなかった。気づかれなかった。

 その夜は、ピカドン騒ぎはどこかにふっとんでしまった。確かに操り人形のようだった。

 南京芝居のようだった。ロープからぶらさがった一郎ちゃんのお母さんは、揺れていた。

 いたずらされたんだべゃ。

 だれがやっただ。

 学校に駐屯している兵隊だんべか。

 若さもてあましてっからな。

 馬鹿、兵隊さんのこと犯人だなんていったら、殺されっぞ。

 そんなこと口に出したらだめだべな。

 めったなこと、言っちゃいけねえぞ。

 ぼくの周囲の大人たちの会話は、いつになく難解なものになっていた。

 なにを話しているのか、いたずら、なんて意味はとくに判りにくかった。

 そして、悲しみはそれだけではすまなかった。

 一郎ちゃんが家出したのだ。

 こんども、大人たちはひそひそと噂していた。

 ぼくの耳に入ってくるのは、一郎ちゃんが母親にいたずらした犯人の顔を見ているのではないか。ということだった。そんなことはない。だってあんなにたのしそうにぼくらと基地で遊んでいたのだ。不安があれば態度に出ていたはずだ。3日たっても一郎ちゃんは行方不明のままだった。ぼくは知らなかったのだが、この間にピカドンを避けるにはもっと深い横穴壕を掘らなければならない、ということが町内

会で決められた。

 ぼくを、お巡りさんが呼びに来た。

 サーベルのガチャガチャいう音を恐れながらついていくと、ぼくらの秘密基地に導かれた。そこにはタダシちゃんも和ちゃんも疎開児童も全員、すで集まっていた。もちろん、町内会の大人たちも、父もいた。ぼくは、おずおずと基地の中に入った。

 異臭が鼻をついた。

 淡黄色のカビが人型に盛り上がっていた。

 鱗のようなカビで覆われた人型。

「なんだべ。どうしてこんなになにったんだ」

 口ぐちに大人たちは囁き合っていた。

 ぼくには、それがぼくらが食べ残した麹が増殖したものだと解った。

 そして黄色の鱗を剥がせば、一郎ちゃんが潜んでいる……。

 だってここは、ぼくらだけの秘密基地なのだから――。


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