43話 さらば母の故郷。さらばわたしの初恋。

43 さらば母の故郷。さらばわたしの初恋


 離婚した母の実家のある東北の田舎町に住むようになった。

 転校したときわたしはまだ小学生6年生。髪を後ろで束ねてピンクのシュシュをつけて登校した。出会いがしらに、担任となったS先生に叱責された。おずおずと引き戸を開けて入った教室。顔に皺のめだつ白髪頭のおばあさんというのが、わたしのS先生にたいする印象だった。あまり老けて見えるので母の同級生だったとは、信じられなかった。

「そんなハデな髪飾りしてはダメ」

 わたしは黒板を背に教壇で泣きだしてしまった。席に着いても泣きつづけた。転校生はやさしく迎えられる。母の知り合いだから、なおさらそう思ってしまっていたのだった。

 先入観はみごとに裏切られた。

「あんなこといわれても、気にすることねぇだべ」

 わたしが、家の裏庭でシュシュを燃やしていたら、少年がはいってきた。それが雅彦クンだった。

「気にすることないって。S先生はいつもああなんだ」

 東京から転校してきたわたしに、東北弁を気にしながらも、やさしく声をかけてくれた。

 近所の同級生だった。

 わたしの家の隣の長屋にタンス職人が住んでいた。そこの家の子どもだった。後になって知ったのだが、職人長屋と町ではよばれていて、貧しいひとたちのすむ区域だった。

「燃やすことなかんべ。だったら、おれにひとつくんろ」

 断るひまもなかった。緑のわたしがいちばん気にいっていたシュシュをポケットにねじこむと走り去った。わたしは顔を赤くして、胸の動悸を必死で押さえこもうとした。わたしが、身に着けていたモノが雅彦クンの手のなかにある。彼の肌にふれている。そうおもうと胸のドキドキはおさまるどころか、さらに高鳴った。思うに、わたしはませっ子だったのだ。

 雅彦クンのお父さんはタンス職人だった。それまでわたしはカンナというものを見たことがなかった。鋸、鉋、鑿、錐が板壁に整然とならんでいるのをみてわたしは驚嘆した。

 とりわけ、カンナにはキョウミをいだいた。わたしがしっているカンナは母が鰹節をケズルときのものだったから。それが木の板をけずる道具だとはしらなかった。雅彦クンのお父さんがそれを板の上にはしらせると薄いカンナくずができる。あっ。鰹節とわたしは心の中で叫んでいた。

 雅彦くんと郊外の田園地帯にいったことがあった。品川駅の海側の改札口に向かう広いコンコースなどを歩きつけていたアーバンガールのわたしが――人、ひとりがやっと通れるほどのあぜ道を歩かされた。見渡す限りの田植えがすんだばかりの水田。

 ああ、緑の風が吹いている。なんて、のんきなことを思っていたわたしは、足をすべらせて水田のなかに片足をつっこんでしまった。

「ごめんよ。こんなとこ、歩かせて」

「ううん、たのしいわよ」

「あぜ道なんて、歩いたことかったもの。たのしい」

 さしだされた雅彦クンの手で引き上げられた。わたしは顔があかくなった。胸がキュンとした。それをさとられまいとして、ますます赤くなった。

 その年の稲穂が秋風に揺れるころ、母が入水自殺をした。その唐突な母のとった行為。なぜだったのか、分からない。わたしが学校でイジメにあったように、いちどは捨てた故郷に戻った母にも辛いことがあったのだろう。

 母の棺桶は雅彦クンのお父さんが作ってくれた。

 なぜ、雅彦クンのお父さんが母のために手製の棺桶を作ってくれたのかわからなかった。

 深夜、板にカンナをかける音が隣家からひそやかにひびいてきた。

 わたしは、泣くことも忘れて、呼吸を合わせてその鉋の音に、ききいっていた。

 母を失ったわたしは結局、父にひきとられた。

 わたしは中学生になっていた。

 だからまるまる一年、あの町には住んでいたことになる。

 わたしが町を離れるとき、雅彦クンが見送りに来てくれた。

 雅彦クンはなにもいわなかった。

 駅のホームを離れる列車にただ黙って手を振っていた。

 そのとき、雅彦クンの手が緑色にみえた。

 わたしは瞬時にそれがなぜなのか理解した。

 雅彦クンの手にはわたしの緑のシュシュが握られていた。

 はじめて、雅彦クンに会ったとき、彼が持ち去ったものだ。

 そして、さらに想像した。

 雅彦クンのお父さんも、わたしの母が好きだったのではないか。

 こんなふうにして、東京に出る母を見送ったのではないか。

 だから、母の棺桶を追悼の心をこめて作ってくれたのだろう。

 東北地方の海岸沿いのあの鄙びた街は、東日本大震災で被災して跡かたもなくなってしまった。

 2011年3月11日。

 14時46分18秒に起きた東北地方太平洋沖地震――東日本大震災。

 雅彦クンも彼のお父さんも、いまはこの世の人ではない。


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