37話 司馬遼太郎はお好きですか?

37 司馬遼太郎はお好きですか?


 その青年が質問しょうと手をあげたとき、老作家は逃げだそうと思った。

 ふいに、ぐっと上げられた手。自己顕示欲のかたまりみたいな挙措だった。

 三冊目の出版記念キャンペーンをかねたトークショーの会場だった。この歳になってやっと三冊。青年が発問しょうとしている。だが、彼がなにをきこうとしているのか。

 なにをいおうとしているのか。きかなくても、わかっていた。

 デジャブ。こんな場面はなんどもくりかえしてきた。そして、青年は推定通りのことをきいてきた。

「司馬遼太郎はおもしろくて、読むたびに感銘を受けます。大好きな作家です」

 そう応えればいいのだろう。だが、老作家はいつものように応える自分の声をきいてうんざりした。

「司馬遼太郎は国民的人気作家です。でも、わたしは読んでいません。いや、「梟の城」は読みました。おもしろかったです」

 会場が白けた。

「わたし個人としては山田風太郎のほうがすきです」

 もうよせ。口をきくな。だが、遅かった。さらに、辺りは氷のカーテンに閉ざされたように冷えこんだ。司馬遼太郎の作品は姉の文子がよく読んでいた。ほとんど全作品がわが家の書架に揃っている。

 姉は「遼太郎のような小説を書かなきゃだめよ。おまえのなんか、小説ではないわ」

 とよくいっていた。そういわれつづけたので、遼太郎をあまり読まなくなってしまったのだろう。

 小説を書くとはどういうことなのだろうか? この歳になっても、わからない。

青年はこちらを睨んでいる。そういえば、司馬遼太郎の好きだった姉の今日は命日なのだ。姉が死んでから、何年経ったのだろうか。姉のいうことをきいていれば、もつとましな作家になれたろうか。

 いまからでも、司馬遼太郎を読み始めるのは、遅くはないだろうか。


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