35話 異次元の愛
35 異次元の愛
愛してくれていることは、わかっていたのよ。
でも、わたしには父のきめた婚約者がいたの。
そのひとのことは、好きでも、きらいでもなかった。
しいていえば、すこしだけ好きだったのかな。
わざわざ、愛を拒むほどいやだ、ということはなかったの。
父の期待を裏切ってまで――。
ほかのひとを好きになるだけのエネルギーが、あのころのわたしにはなかったのよ。あなたが、わたしに関心をもっていてくれたことは、感じていた。
だって、あんな熱っぽい視線で受講中に、みつめられれば、わかるわよ。
父は、わたしに青山の医院をついでもらいたかった。
医学部に落ちたわたし。
もう、教え子のなかのKに婿にきてもらうほか。
つまりわたしがかれと結婚するいがいに。
医院を継続していく方法は残されていなかつたの。
あなたの、あの熱い視線にこたえられなくて、ゴメンナサイ。
わたしは、待合室のむこうがわにいる中年の女性をみつめていた。
喉のあたりに赤いマーキングもあらわな患者。
喉頭がんの末期らしい。
声もでない。
顔色も土気色。
あのマーキングの箇所に放射線をあててもらうのだ。
廊下の長椅子にすわったひとたちは。
そのおちこんだようすからみて。
末期患者がほとんどだった。
最後のほのかな希望の明かりをもとめてここにきている。
彼女なのだろうか。
名字もかわっていない。
もちろん名前も。
ほぼまちがいないとおもうのだが。
その初恋のひとが時空をこえて、いまわたしのまえにいるというのに――。
わたしはいまになっても、声をかけられないでいる。
もっとも話しかけても、彼女には声は出せないのだろう。
ふるびて、黄ばんだ原稿用紙を、もみくしやにするような声しかでないだろう。
その声をわたしは、放射線科の初診の時に聞いた。
たまたま、ケアルームでとなりのベッドに彼女がよこたわっていた。
こんな病気になって、父のいた大学病院で宣告されるのはいやだったの。
治療をうけるのは、いやだったの。
聞き取れないような乾いた声で、彼女が看護師にいっていた……。
それからなんどもこうして、地下の放射線科の治療室の廊下で彼女と会うことになった。わたしは、彼女をいまもじっと、みつめているだけだ。
万感の愛をこめて。
いまでもすきだ。
あれから、ずっと麗子さん。
あなたのことを、想わない日はなかった。
わかっていたわ。
わたしたちに声はひつようない。
わたしも、あなたが、次元のちがう、世界で生きだしたことをしっていた。
あなたが、小説家として生きていることをしっていた。
でもあなたの本は読まなかった。
読めなかった。
もし、わたしえの恨みごとでも書いてあったら、どうしょう。
それがこわかった。
あなたの愛をうけいれるべきだった。
ゴメンナサイ。
いまさらあやまっても、もう遅いかもしれないけど。
これからはいつもあなたの傍にいてあげる。
やっぱり、麗子さんなのだ。
目の光はむかしのままだ。
黒い瞳がじっと、わたしを見ている。
愛していたのよ。
きつと。
ことばにして、自覚できなかっただけよ。
昭和の古い女だから、それを口にだせなかったのよ。
ありがとう。これからはずっと一緒だ。
わたしたちは愛の絆でむすばれていたのね。
最後にこうして会えてよかった。
もう、死ぬことなんかこわくはない。
でも、あなたは生き続けて。
死ぬには早過ぎるわ。
いい小説、書いてね。
わたしのわずかだけど余命をあなたに捧げるわ。
わたしのぶんまでながく生きてくださいな。
一瞬にして理解しあった愛でも――。
生涯を共にした愛でも――。
愛にはかわりない。
むしろ、瞬間的に感じた愛の方が濃厚で、深いのかもしれない。
最後にあなたに会えてうれしかったわ。
わたしは、もう回復しない。
弱っていくばかりよ。
麗子はよろよろ放射線照射室にきえていった。
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