31話 聖痕/スティグマータ

31聖痕/スティグマータ


 深夜の飲み屋街をふらつくなどということは何十年振りだろう。それも、新宿はゴールデン街だ。このまえは、まだカミサンガ生きていていた。ジャズ喫茶「木馬」に降りる階段でころんだ。彼女が足をねんざしたときだったかな? いや、もっと遡り歌声喫茶「灯」。

 で。

 中上たちともりあがったときだったかな? 

 かな? 

 カナ? 

 ?????

 かなカナかな……と疑問符つきのモノローグが際限なく続く。かなかな蝉じゃあるまいし。わたしの頭も、黄昏れてきているようだ。誰かが耳元でささやきつづけている。  

 これはわたしの声ではない。

「木村。おまえさんも人がよすぎる。止めなければよかったのに」

 中上が樋口をなぐろうとしているのを止めた。人並み外れておおきなかれのゲンコツをわたしが押さえこんだことをいっている。カチューシャの唄をみんなで歌い終わったところだった。わたしは家業である〈大麻商〉の話をかつてふたりのいるところでしたことがあった。

 それを樋口が書いた。麻績部(おみべ)すなわち麻で衣を作ったり、綱をよりあわせたりする部族。その職業をさらに誇張して、嘘部シリーズを書くことになった。その経緯を中上はいっているのだった。

「おれのペンネームはイデスハンソンをもじったものだなんていいやがって」

「いいじやないか」

「わたしはむしろよろこんでいる。このままいけば、わたしは無名のままでおわりそうだ。みんなのような文才はないからな。木村正一という名前をモジツテくれてうれしいよ」

「なにいってる。おれだけは知っているぞ。それに久保書店の「抒情文芸」に短編連作を書いているじゃないか。あと一息だ。山村正夫と肩を並べて目次にでるなんて凄いことだぞ」

 彼の励ましがうれしかった。武骨におもわれているが、情のある男だった。おかしなビジョンばかり浮かぶ。おかしな声ばかり聞こえてくる。誰かが、わたしを呼んでいる。まるで、臨死体験みたいだ。パノラマ現象を見ているようだ。反吐(へど)と酒とタバコと小便の臭いが入り混じっている。狭い路地をさ迷っているからだろう。夭折した青木泰一郎の息子がN賞を受賞した。その――。パーティからぬけだしてきたからなのだろう。むかしの文学仲間のことばかりが脳裏に浮かぶ。彼らの声が耳元でひびく。

 ふと見上げると路地の上に無数の管が揺れている。いくつもの麻暖簾が客の出入りで揺れているようにも見える。あるいは手招きしているようだ。おいで、おいで、こっちへ、いらっしゃい。

「ほうらきた」

 目の前がきゅうに明るくなった。バー「魔子」には先客がいた。飲み屋だから客がいるのはあたりまえだ。でも、みんな黒のニット目だし帽をかぶっている。不気味だ。ハロウィーンの仮装じゃあるまいし。なんてオゾマシイ。そして怖い。カウンターのなかの女性がこちらをふりかえった。

 ママの魔子だ。真紅の唇から声が漏れた。

「あらぁ、ボウヤ、もどってきたのね」

 ゾクッとするようなハスキーな声。もどってきた。どこから? どこから、もどってきたというのか。

「どう、オシッコしてすっきりしたとこで、サインしない」

 客がニット帽をとった。うんうんと、そうしたら、というように頷いている。

「収穫の時期だけは向こうさんまかせだ」

 樋口だった。中上もいる。

「そうしろよ」

 泰一郎だった。サインすることを促している。お前、独身主義だったのじゃなかったのか。いつのまに子供しこんでおいたんだよ。と、食ってかかろうとして、おかしいことに気づいた。ゾウッとしてからだがふるえだした。青木は金魚を飼う水槽にウイスキーをいれておいて、マグカップで飲んでいた。肝臓ガンで何年も前に死んでいる。倅のN賞受賞パーティにだって姿をあらわさなかった。あたりまえだ。死んでいるのだから。だいいち彼に息子がいたなんて知らなかった。すると、ここはどこなのだ。今は……何年なのだ?

「さあ、ハヤクぅ」

 ママがウインクしている。カウンターにはふるびて反り返った羊皮紙が置かれている。

「そう、どうしてもいやなの。だったらこうしておいてあげるから……」

 ママはわたしの手に赤い唇をおしつけた。焼き鏝をあてられたように熱かった。唇の焼印をおされた。跡にはなにものこらなかった。

「ここが、熱くなったらわたしを村チャンが必要としているってことなの」

 いつまでもまっている。そういわれた。いま手の甲が熱い。熱い。わたしは薄暗い路地を歩くのにつかれはてていた。わたしはとある飲み屋の暖簾をくぐった。

「あらぁ、ボウヤ。よくもどってきたわね。サインする気になったのね」


注 サインでなく、しょめい【署名 signature】と書いたほうが重々しくて――。効果があるでしょうか。作品に実名をだしています。事実を改変するたのしみがあります。ごめいわくでも、モデルとなったみなさん、眉をさかだてないでください。そして、ごめんなさしい。これは小説です。元祖嘘部の嫡流としては、これからも。嘘の上にウソを重ねる作品。屋上屋を架すような、ムダナ迷作をつみあげていきます。ご愛読のほどおねがいします。


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