29話 悲しきストーカー

29 悲しいきストーカー


 受験のための大学見学の帰りだった。

 ぼくはたまたまW大学前のK書店に入った。

 ぼくの憧れの女性がそこにいた。

 まだ少女だ。女子高生のパート店員だろうか。

「ありがとうございました。またどうぞ」

 きまりきったマニアルを暗唱する声もういういしい。

 首をすこしかしげた。ポニーテールがかすかにゆれた。

 襟足がすんなりとしてすごくきれいだ。

 胸キューンのカワイ八重歯。

 下唇がプクントふくれあがっている。

 オチョボコ口。

 あまりにととのいすぎた整形美人より魅力がある。

 ぼくは夢中になった。

 受験大学の赤本と参考書をもってカウンターにいそいだ。

「わぁ、W大の受験生なのね。合格してね。また、会いたいもの」

 ぼくのこころは天国までまいあがった。

 マニアルにはないリアルな話しかけの言葉。

 それも澄んだハイトーンの声だ。

 初めて会ったさえない受験生のぼくに声をかけてくれた。

 ぼくは彼女に夢中になった。

 ぼくは即、インスタントに彼女のオッカケになった。

 いったん家に戻った。

 私服に着替えた。

 K書店の従業員の出入り口を見張った。

 期待と不安で鼓動が高まっていた。

 こんなことをするのはもちろんはじめてだ。

 ぼくは熱に浮かされたようについふらふらと、ここまできてしまった。

 彼女こそ、ぼくのファムファタール。

 運命の女。

 だ。

「いいわよ。お茶するくらいなら」

 おもいがけない、うれしい言葉。

 肩を並べて歩き出した。

 だがなにかぎこちない。

 彼女の肩がビミョウニ上下動している。

 彼女がぐいとぼくの腕に手をまわした。

 腕をくんだ。

「ああ、このほうが歩きやすいわ」

 ぼくはこのとき、彼女は足が不自由なのに気づいた。

「わたし、ロクサーヌっていうのよ。でもともだちはみんな〈ハネ足Betty〉っていうの」

 工学部の受験生なのに、文学青年のぼくには、それが〈バネ足ジャック〉のモジリだと

 いうことは、すぐにわかった。

 こんなきれいな女の子に――。

 ヴィクトリア朝末期のロンドンに現れた。都市伝説の怪人バネ足ジャックの名に似せたニックネームをつけるなんて。許せない。

 ロクサーヌの足がおもうように動かないなんてことは――。

 ぼくの恋心にはなんの影響もない。そんなことはぜんぜん気にならない。いくら彼女を説得しても、おつきあいするのはムリだ。と……ロクサーヌはいいはった。

「あなたは、W大に入るエリート、とてもわたしでは……つりあいがとれない。工学部をめざしているのに、本を読むのが好きだなんてすばらしいわ。わたしそういうひと、すきよ。だから、よけいに、こんなビッコの女、好きになってはいけないのよ」

「ビッコだなんて……じぶんのことをそんな蔑称でよばないでくれ。ぼくは気にならないから」

「それにわたしにはひとと交際できない秘密があるの。あきらめてチョウダイ」

そして、その日をさかいに、彼女はぼくの前から消えた。転勤したのかと、K書店できいても、彼女の所在はわからなかった。

 それどころか、彼女がカウンターにいたことすらみとめてくれなかった。

 彼女の存在そのものがあやふやなものとなってしまった。ぼくには、いまならその秘密がわかる。わかっている。


 ぼくは雑誌売り場にいた。「日本工学」の雑誌をよんでいた。澄んだハイトーンの声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。けっして、忘れることができないでいたぼくのLa Femme Fatale 運命の女。カウンターのほうからだ。探し当てたぞ。まさかこんな近くにいるとは。

 だから、カウンターに注意をはらわなかった。雑誌売り場をひやかして帰るつもりだった。

 探し当てた。ぼくの憧れの人はやはり、いまは大型店となったK書店の新宿本店のカウンターにいた。

 彼女はニッコリとほほえんでいる。あのころとすんぶんかわりのないやさしい笑顔。マックスかわいい。

「ありがとうございました。またどうぞ」

 澄んだハイトーンの声。どうみても、人間のほほえみだ。人間の女の子はこんなやさしい笑顔はしなくなった。名前はけっしてわすれていない。ロクサーヌ。

 なんてロマンチックな名前なんだ。フランス人との混血なのか。とあのころは思っていた。いまならわかっている。

 とうじは、ロボット工学の先進国フランスから密輸入された無給料でつかえる従業員。

 ぼくはその彼女に恋をしたのだ。ずっと探しつづけていたのだ。会いたかった。会いたかった。でも、デートにさそうことはできなかった。ひそかにみているだけで満足しなければ。これからは、あまり彼女のまえには姿をあらわせないな。

 顔をおぼえられて、つきまとっていると思われたら、いやだもの。恥ずかしいもの。でも、ぼくは学校帰りにどうしても、そのK書店の本店に寄ってしまうのだった。

 いつも学校帰りに通る広い新宿駅のコンコース。壁にずらっと同じポスターが横長に貼ってあった。数十枚も連結している。本店新装開店。読書の秋。そしてK書店の名前が。ずいぶんと大型店になった。いまでは、日本有数の大型店だ。キャッチコピーのしたにニコヤカニほほ笑む、どこかの雑誌のカバーガールだろうか。

 いや、おどろいた。ロクサーヌだ。本をよんでいる知性美人。ポスターにつられてはいる学生もおおいだろう。K書店のCASHカウンターにまさに知性美までそなえた彼女がいる。ぼくはとおくから彼女をみつめている。


「ロボット法が改正されたわ。いまでは、サイボークと人間の結婚はみとめられているの。ずいぶんまたせたわね。いまでもわたしをアイシテくれているのね」

「ぼくは、ずっときみを愛していた。探したよ。いとしのロクサーヌ」

「ロクサーヌのタンゴでも踊りましょうか」

 ぼくは、そうした会話のできる日を夢見ている。

 いまのところは遠くから彼女を眺めている。

 これって、ストーカー行為だろう。

 学校の帰りにひそかに彼女を眺めている。

 ロクサーヌの不完全な足をいまのぼくなら直すことができる。

 その日を夢見て。

 彼女と再会したら。

 そうしてあげたいとおもい専攻したロボット工学だ。

 悲しいストーカーはスッカリ年老いてしまった。

 来年はW大工学部の教授も定年退職だ。

 もう、学校の帰りにこの書店に寄ることはできない。

 愛をうちあけたら、ロクサーヌは承諾してくれるだろうか。


 でも、いまのぼくでは、タンゴは踊れそうにない。


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