26話 ご近所トラブル
26 ご近所トラブル
「キャア。あなたぁ!!!」
交番からの電話を受けているとき、裏庭で妻の絶叫――。
おれは、どうやってその現場にかけつけたのか。
まったく覚えはない。
現場はそのまま保存されていた。
保存されていたというより、妻は目撃しただけで、動けないでいた。
腰をぬかしたのだ。妻が指さす先に――猫の死骸が横たわっていた。
塀越しにお向かいのババアがなげこんだのだ。
死骸のまわりを、チョークで、なぞりたくなった。
定年退職するまでの職業の記憶がよみがえった。
猫は絞殺されたらしい。おれたち夫婦は猫好きだ。げんにいまも野良猫をひろってきて飼っている。それを承知のいやがらせだ。
あのババアだ。もうながいことつづいている。おれが定年になってからだ。24年も。いやがらせはつづいている。
「あなた。こわい。こわいよ」
幼女のようにイヤイヤをしている。かなりのショックなのだ。肩をだきしめてやった。ふるえている。それでなくても、初期の痴呆症だ。つまり……、ボケがはじまっている。
肩をこきざみにふるわせて、泣いている。
「こわい。こわいわよ」
妻はががくがくふるえだした。発作がおきた。おれしにしがみついて離れない。翌日から妻の様態が激変した。炊事をしなくなった。
「死んだ猫どうした。庭に埋めてあげましょうね」
猫のことばかりつぶやいている。猫の死骸はクリーンセンターに持ち込んだ。別料金をはらった。火葬にしてもらった。そんなことは、彼女に細々と説明していない。彼女はまだ猫の死骸が裏庭にある。といいはる。
「どうして、見てきてくれないの」
「そんな……ことはない。いま見てくるからな」
「あなたは、いつも、わたしのいうこと聞いてくれない。死骸はまちがいなくあそこにある」
なんども裏庭を見に行かされた。妻の声はますます幼くなる。飼い猫のミュをだいてはなさない。
「ねらわれている。ねらわれているのよ。あなた、警察官でしょう。わたしの猫一匹、守れないの」
ついに、泣きだした。わたし殺される。ミュも殺される。わたしとミュを守れないの。あなたは、なにをする人なの。市民を守る警察官でしょう。どうして、わたしひとり守れないの。妻は、おれが、定年になったことすら忘れている。
相談をもちかけた交番からは冷たい返事がもどってきた。
「民事だからわたしたちは介入できません。よく話し合って解決してください」
話し合いが成立しないから、悩んでいる。みんな、かかわりあいになるのがいやだから。
沈黙している。というより、事の成り行きを興味津津と眺めている。聞き耳を立てている。
第三者の利己主義だ。妻はしかたなく、入院させた。
「わたしをすてる気なんだ。わたしをすてないで」
と、泣き叫んでいた。泣きたいのは、こちらだ。
「あなたには、わたしも、ミュも守る力がないの。たすけられないの」
こんな簡単な、ご近所トラブルひとつ解決できない。信じられなかった。婆さんは大きな音で軍歌をかけている。まるで街宣車だ。だれも文句はつけない。かかわりあいになるのが、こわいのだ。
「あのオバアサンはひとではない。悪魔よ。悪魔にイジメつづけられるくらいなら……」
妻はおれの顔をみると泣いた。泣き続けた。庭のバラが一斉に枯れてしまった。妻が丹精込めて育ててきたバラだ。妻がもどってくるまでは枯らすわけにはいかない。まいにち水やりは、欠かさなかったはずだ。除草剤をまかれたのだ。現行犯ならとりおさえられるのに。おれが、妻の看護に病院にいった留守を突かれたのだ。
クリスマスローズの鉢が無残にたたきわられていた。無言電話がかかってくる。病院にでかけようとしたら、自転車のタイヤがパンクしていた。玄関にレジ袋にいれた人糞がおかれていた。異臭は三日も消えなかった。身に覚えがないのに。ふいに、ご近所トラブルにまきこまれたらどうすればいいのか。
だれも、親身になってこちらの困惑を解決しょうとしてくれない。当事者同士で話し合ってください。話し合ってください。話し合って……。
妻が病院で自殺してしまった。
「猫が殺される。猫が殺される」
うわごとを言っていた。
「もう生きていけない。生きていけない」
まさか、じぶんから死を選ぶとはおもってもみなかった。
あの、ババアに殺されたようなものだ。飼い猫のミュが死骸でなげこまれた。
いまはやりのエチレングリコールいりの青いソーセージでもたべたのだろう。
犯人はわかっている。あのババアだ。いまも、オムカエノバアサンの家からは、 勝ち誇ったように軍歌がながれている。
「勝ってくるぞと勇ましく……」
あの婆に復讐してやる。
おれは日本刀を床の間から取り上げた。
刀掛が、ガタンと倒れた。
「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」
教会で牧師が説教していた。
そんなことは知っている。
この歳まで生きてきたのだ。
でも妻に死なれた。
これいじよう生きていようとはおもわない。
軍歌が高鳴る。「勝てくるぞと勇ましく――」
おれは、刀をひっさげて家をでた。
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