第21話 バラの香りにいやされて。

21バラの香りにいやされて


 ぼくはニオイにすごく敏感だ。嗅覚過敏といってもいい。そのぼくの、このところの悩みは、隣家の一階から『お焦げ』のニオイがすることだ。すごく焦臭いにおいだ。小さな換気扇からにおいはただよってくる。換気扇のまわりの壁には黒い油脂がこびりついている。銀蠅が群れをなしてうるさくとんでいた。

 火事にでもなったらたいへんだ。ぼくは三階建の隣家をみあげる。隣家の玄関はこの裏口の一階にはない。ぼくの家と同じだ。道路に面した三階にある。だから、道路を歩くひとには、このニオイはとどかないのだ。ぼくはこの焦げ臭いニオイに、異常にこだわる。

 学校のカウンセラーの先生にいわせれば、精神的なものらしい。ぼくは幼稚園のときに母に死なれている。それも目の前に母が三階から落ちてきたのだ。父の遺影をしっかりと胸にだいていた。きゅうに、こんなふうに語りだされてもとまどってしまうでしょうね。

 すこし説明します。わたしの住む街は舟形盆地にある。したがって、斜面に建っている家が多い。道路に面した玄関が三階だったりする家がある。隣の家もそうだ。

 吉野地方にそうした家があることから『吉野建て』というらしいですね。

 ぼくの近所には、そういった家が立ち並んでいる。父はぼくがまだ小さなときに交通事故で死んでしまった。だからぼくは、母が焼失するのを必死で守った、たった一枚の写真でしか父の面影をしらない。

 あの火事のとき「お父さんの写真とってくる」とぼくをのこして、玄関から三階にかけもどった母。煙に巻かれて裏側の三階の窓から転落死した母。道路側の玄関から入った。一階だ。裏口は三階の高さがある。

 あのときからぼくは火事のにおい。

 ものの焼け焦げるにおいになやまされている。

 運動部にもはいれない。だって、汗のにおいがコゲクサク感じられる。吐き気がしてしまうのだ。というわけで、嗅覚過敏症のぼくは隣家からにおってくるお焦げのにおいに恐怖すらかんじている。もし……ぼくが学校からもどったときに、まわりが、焼け野が原になっていたらどうしよう。どうしょう。

 もう……こうなるとまちがいなく病気ですよね。

 相手にされないとは思ったが、ぼくは学校の帰りに、交番によってみた。

 ぼくの心配をお巡りさんにはなしてみた。

 親切なおまわりさんは、ぼくのいうことに耳を傾けてくれた。

 耳をかたむけただけではなく、ぼくについてきてくれた。

「これは焦げくさいにおいじやないぞ。腐臭だ。ものの腐ったにおいだ」

 隣のオバサンはたすかった。老夫婦だった。オジサンの腐乱死体のかたわらで添い寝して、オバサンはまだ虫の息で……死なずにいた。女の人の愛の深さってすごいなとおもった。くさくて、ぼくだったら逃げだしていたろう。衰弱死した夫の傍らでオバサンは生きていたのだ。

 ぼくは母のことを思い出していた。いつも父の遺影にはなしかけていた母。

 そしてバラの花をまいにち仏前に供えていた母。

「バラの花は仏前にそなえてはいけない」

 と、いうひともいるのよ、とつぶやいていた母。

 おもうに母も父も匂いには敏感だったのではないだろうか。

 それとも、バラの花に特別なふたりだけのおもいでがあったのかもしれない。

 ぼくは、母の残してくれたプチバラ園のアイスパークやゴールド・バニーにジョウロで水をやっていた。

 隣の家からはもう、焦げくさいにおいはしていない。

 いや、ぼくの嗅覚はバラの匂いで満たされている。

 ふりかえると、そこからもバラの匂いがしていた。

「救急車がタカシクンの家のほうにいったっていうから。心配で……」

 バラの匂いがする。クラスメイトの女の子がいった。

 お焦げの臭いはしなくなった。

バラの匂いのする女の子がいまは、ぼくのそばにいてくれる。


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