第19話 転落。

19 転落


ある年のクリスマスイブ。

友だちを訪ねたことがあった。

小学生のころから、仲のいい友だちだった。

千手山公園で共によく遊んだ。

わたしの記憶の奥のほうで、彼は走っていた。

二階から見下ろす校庭。

彼は校門にむかって走っていた。

彼が小さな点になるまで、わたしは見ていた。

校門からまっ直ぐに伸びる道。

彼はまだ走っていた。

そしてわたしの視野から消えた。

「Nクンのお父さんが、建築現場の足場から転落して亡くなった」

翌日担任の女教師からそう告げられた。

わたしの隣の彼の席はしばらく空席になっていた。


クリスマスイヴだった。

どうして彼に会いたくなったのか。

いまでも、わからない。

彼は『雀の宮』の駅まで迎えに来た。

足をひきずっていた。

「脳梗塞で倒れたんだ」

ペンキ屋をやっている――と、小声でつづけた。

旧制中学に入ってすぐの試験で不正行為があった。

それで退学処分にされた。

おもうに、彼の転落はあれからはじまったのだ。

転々と職業をかえた。

教師の厳罰がその後の彼の人生をきめてしまった。

絵筆を持つべき男だった。

絵筆のかわりにペンキの刷毛をもって暮らしていた。

『鬼ごろし』のパックからなみなみとコップに酒をついだ。

ウッと咽るほどつよかった。

「なかみは薩摩の芋焼酎だ」

彼は豪快に笑った心算だったろう。

が……。

「よく会いに来てくれた」

はじめて一別以来の挨拶の言葉が出た。

鴨居にクレヨン画がビョウでとめてあった。

千手山公園の裏の小道だった。

誰も歩いていない。

木漏れ日が道にまだらに差していた。

さびしい道だった。

じぶんのためだけに描いたクレヨン画だった。

わたしはその絵を譲ってくれと言おうと思った。

それなりのお金は用意して来た。

やめた。

そんなことをすれば、彼の苦境をわたしが認めたことになる。

誇り高い彼を貶めることになる。

翌年の同じ季節。

彼はもうそこには住んでいなかった。

屋根から転落して、即死だった。

日光颪の、寒風吹きすさぶ、小雪の舞う日に、N死んでいた。


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