第12話 気弱な彼女。

12気弱な彼女


 ぼくは大森駅の山王口で夜の仕事をしていた。

 ひらたく言えば、見習いバーテンダー。本格的なバ―ではなかった。西洋居酒屋。いちおう、バーカウンターはあった。

 色のついた酒を飲ませてはいたが、ぼくのようなキャリヤのない男でもつとまったのだから、やはり二流だ。

 池上通りの歩道から一段低くなった飲み屋街の奥まったところにあった「天使の顔」が店名だ。そこで働いていた冴子というウエトレスをぼくは好きになった。お水系の女にはめずらしく口数の少ない、控え目なコだった。冴子を目当てに来る客がおおかった。

 冴子はそうした客をわけ隔てなく接待していた。バーなのに日本酒もおいてあった。冴子の客は、なぜか熱カンが好きだった。ぼくは、そうした中年の熱カンごのみの客に冴子がお酌をするのがきらいだった。

 客は冴子のからだによくふれた。

 冴子はいやがるそぶりもみせず、たえず笑顔でお酌をしていた。なにをいわれても断ることができないほど冴子はシャイなコだった。

 ぼくはそうした接客の場に冴子がいることに耐えられなくなっていた。いまならわかる。ぼくは客に嫉妬していたのだ。彼女をぼくだけのものにしたかった。

「冴子ちゃんこんどゴルフにいかないか」

 酔客がさそう。

「ありがとう。……でも、夜のお仕事しているでしょう。昼はよわいのよ……」

 また別の客。

「こんど……」

「――ごめんなさい。昼は寝床でぐう、ぐう、ぐうなの……」

「ごめんなさい……」

「ごめんなさい――」

 めったに、客にさからうようなことはしなかった。ただ、昼間のつきあいだけばことわっていた。冴子は彼女に適合した環境を選んで生きていたのだ。ぼくはそれなのに、なにもわかっていなかった。ぼくはその夜の環境からぬけだそうとしていた。そんなことがしたくなるのは、――恋だ。

 新しい世界で、彼女とふたりだけで生きていきたい。彼女を独占したい。灯にひきよせられる蛾のような危うい恋――。

 ぼくらはまだ暗闇のなかで恋をしているが、田舎にいけば明るい未来がある。

 すばらしいわね。いつも希望をもっているあなたのこと好きよ。

 引っ越そう。ぼくについてきてくれるか。

 いつも、いっしよにいたいわ。

 ああ、いつもいっしょだ。

 どこか影があり、はかなげな彼女は、ぼくにとって、ワン・アンド・オンリーといった存在だった。

 冴子は都会での生活を愛していた……。昼は寝ていて、夜だけのバイト。夜だけ働くことを彼女は誇りに思っていたのに。ぼくは彼女を誘い、故郷にもどってきた。夜だけ働くような仕事のない海沿いの田舎町。

 そして……。

 そして――。

 冴子は白昼の光のなかで、しだいに衰弱していつた。

 ぼくは気づけばよかった。それなのに、いままで不健康な都会での夜の生活をしていたからだ。太陽にあたって小麦色に日焼けすれば――。

 あっけなく、彼女は黄泉の人となってしまった。

 これから、のんびりと田舎でのスローライフをたのしめる。田舎暮しで、自然を満喫できると胸をおどらせていたのに。ふたりだけで、ひとと争わずに住めると、思っていたのに。愛をさらに確かめあって生きていけると信じていたのに。赤ちゃんを育てることが出来ると期待していたのに。


 彼女は青白い顔を傾けた。すこしためらっていた。か細いうなじをネオンの輝きのもとにさらしていた。そしてぼくの提案をうけいれた。

「都会での不健康な夜の仕事からぬけだそう。それには……ぼくの故郷へもどるのが一番だ」

 都会からの転居。なんてことを、彼女に勧めてしまつたのだ。ひとは常に最良の選択をしたと確信する。それがベストチョイスとはかぎらないのに。

 ぼくは仰向けに寝ている。

 背中に海岸の砂がざらざらしている。

 もうながいこと、そうしている。

 背中の骨が硬直している。

 なかなか起き上がれそうにない。

 静寂な海辺に潮の匂いが満ちてくる。

 ぼくがわるかったのだ。

 なにもしらなかった。

 なにもしらされていなかった。

 彼女もわるいのだ。

 あまりに素直すぎた。

 断ればよかったのだ。

 ぼくは彼女の残留思念に語りかけていた。

 断ってくれればよかったのに。

 ぼくは心の中の彼女……と話をしている。

 彼女を都会の夜から、田舎町の光の元へ連れてきたのは。

 ぼくだ。

 ぼくにすべての責任がある。

 ガラス細工のような彼女。

 色白だった。

 薄い、透明な壊れやすい彼女。

「外にでよう。光の中へでてみよう」

 ぼくが不用意にも、そう言って、彼女を誘ったからだ。

「昼の仕事を探しに行こう」

 あまりにも強烈な太陽のもとへ誘ったからだ。

「ごめん」

 ぼくは今宵も、心から彼女にわびている。

 素直すぎた彼女に、いくらあやまっても、彼女からは言葉はもどってこない。

 彼女は強い日光を浴びた。

 さらさらとした砂となった。

 広い浜辺だ。

 彼女はくだけ散った。

 砂となった。

 でも広い砂浜だ。

 彼女の遺体の砂はどこにあるのかわからない。

 だからこうして、ぼくは仰臥して背中で彼女を感じようとしている。

 彼女を待っているのだ。

 潮がみちてくるまで。


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