第7話 わたしもう死ぬから

7 わたしもう死ぬから


「わたし……もう生きていられないから。死ぬから。武ちゃん。ご飯もってきてくれなくていいよ」

「だめだ。ヒロコちゃん。死ぬなんていわないでくれ。なんでももってくるから、食事はこんでくるから」

「もういいよ。わたし……死んだら猫になるから。野良猫みたら餌をあげてね」

 広大な屋敷林をぬけた。板塀の外にヒロコの家はあった。栄養失調でヒロコは死んだ。

 ありていにいえば、飢え死にだ。

 当時は戦時中だから餓死などという言葉は使えなかった。あれから半世紀以上も過ぎている。むかし両親と住んでいた屋敷はそのままのこしておいた。武は鬱蒼と茂る屋敷林をぬける。ヒロコの家のあったあたりにでてみた。懐かしかった。板塀はとうに朽ち果てていた。ヒロコの家と、武の家を隔てる境界は消えていた。ヒロコの家のあとも、土台とわずかかりの廃材が、ころがっているだけだった。

 荒れ果てていた。風景はかわってしまった。だがこのあたりだけは住宅地になっていたので農地解放をまぬがれた。田地田畑を政府にまきあげられ武の父は狂い死にした。

「これからは、文化国家だ。武。帝国大学へ進学するんだ」

 父の遺言どおりT大に合格した。そのあとも順風満帆。だが、結婚だけはしなかった。

 このツキはヒロコが守ってくれているからだ。ぼくがほかの女の人を愛したら、ヒロコが悲しむだろう。

 ヒロコの家の狭い庭の隅に手押しポンプの井戸があった。すっかり赤錆びていた。呼び水をいれて、取手をもってガチャンと水をくみあげた。赤さび色の水がでたのにはおどろいた。まだこのポンプは機能していたのだ。ガチャガチャ取っ手を上下にを動かした。干からびて地割れしてしいた大地に水がしみ込んでいく。

 ポンプ井戸の水をくみあげる喘ぐような音。そして、大地に滲みこんでいく水の描く地図。その幻想の地図の世界にヒロコはいた。女たちが炊事の準備をしている井戸端。ヒロコが水を飲んでいる。白くかぼそい喉が水をノンデいる。白い幼い手が武の手につながった。ヒロコが幼いままそこにいた。

「サイゴニミズガノメテヨカッタ。オイシイ」

干からびて枯れ木のようになったわたしの手にヒロコの手が重なった。

「いっしょに暮したかったな」

「わたしはズット、あれからズウッと武ちゃんといっしょだったよ」

 迷い猫が武の足にスリすりしている。

「これからも、ずっといっしょだからね」


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