第3話 真紅の指

3 真紅の指


 それはまさしくbullet。銃弾だった。村木の心臓めがけてとんできた。このままでは死ぬ。とっさに、体をそらしていた。よく映像で見かける。45°上半身を後ろへ曲げる。リンボウダンス。あれをやっていた。よくこんなことができるものだ。体が柔軟なのは若さだった――。

 冷静に弾丸を観察した。いくら動体視力がいい。とはいっても、これは異常だ。秒間100万フレームという超高速度撮影でとらえた映像のようだ 。

 それは、弾丸ではなかった。ひとの指だった。それも真っ赤にマニキュアした指だった。

 たとえ指でも、心臓を貫かれれば、死は免れない。鼓動が高まっている。あまりの恐怖に村木は飛び起きていた。

「夢だったのか」

 それにしても、しばらくぶりで見た夢だった。

「あれは……あの赤い爪はわたしの心臓をつかみにきたミナの指だ」

 ミナが村木の英語塾に入ったのは半世紀も前だ。東京オリンピックのあった年だ。忘れるはずがない。もちろん、村木も若く、ひとり身だった。

 帰国子女を「ひきうけてくれないか」と恩師に頼まれた。

「むかしの教え子の子どもなのだ。きみが田舎にもどっていて幸いだった。彼女は日光のL大使館別邸にすんでいる。隣町のきみの塾だったら毎晩でも通えるから」

 ミナという名前だった。とうぜん、英語圏から帰国したものと村木は早合点した。いまさら英語の勉強を塾でやることもないだろう。ところがちがっていた。淡いプラチナブロンドの美少女の言葉がまったくわからなかった。東京ではオリンピックも終わっていた。

 神宮の公孫樹が黄葉を色濃くしている季節だった。

 村木は田舎町にもどって学習塾をはじめていた。恩師に紹介された少女と、英語でお互いに思っていることを伝えることができるようになった。そのころにはすでに冬になっていた。ミナは美菜と漢字の名前でみんなに呼ばれていた。そのころから、美菜は唇にルージュ、指には赤いマニキュアをして教室にあらわれるようになった。

 そしてバラの香りの香水もつけてきた。

「勉強に来るのにマニキュアや香水をつけてこないように」

 村木は強い口調で注意した。美菜は悲しそうに村木を見上げていた。真紅のマニキュアをした両手をスーツのポケットにかくしてしまった。赤い唇を噛み、いまにも泣きだしそうだった。いまであったら、それくらいのことで、叱咤することもない。

「あんたの塾では、うちの子の身なりのことまでうるさく干渉するのか」

 美菜の父親から電話がかかってきた。それも夜の授業中にながながと文句をいいだした。

 次の週から美菜は教室には現れなかった。

「ごめん。ゴメン。言い忘れたが、国の不穏な情勢を避けるために、ルーマニアからお父さんと一時帰国してきたのだ」

 村木は美菜が退塾にいたった事情を説明した。期待にそえなかったことを恩師に謝罪した。村木は恩師からそこで、はじめて美菜の家庭の事情をきかされた。

「高級官僚だから居丈高になって怒ったのだろう」

 年老いた恩師は電話の向こうでおおきなため息をもらした。

 翌年の春、美菜がセイシン女子大に進学できたと恩師から連絡がはいった。

「村木に受験勉強をみてもらったことを父親は感謝していた。照れ屋だから、イバリスギタことを反省しているのに、直接電話できないのだ」

 美菜とわかれてから、何年経ったろうか。

 村木もすっかり老いていた。あの頃の恩師の歳をはるかに超えている。

 この夏は特別、暑かった。そのために秋口になって夏の疲れがでた。村木はなつかしい美菜の夢をみた。ブタペストで日本からの女子大生が殺された。その女子大生は美菜があのとき進学したセイシン女子大の学生だった。女子大生の死。そのニュースが報じられたので美菜の夢をみたのだろう。

 実は、村木は美菜に会いにいったことがあった。新宿の西口で美菜がパブをやっていると卒業生に聞いたからだった。

 会って、美菜に謝りたい。

 美菜は昔とすこしもかわっていなかった。少女のようだった。あいかわらずの、真紅の唇とマニキュアで村木を迎えた。懐かしかった。会えてうれしかったが、すなおにあやまれなかった。

 店名は「ミナ」。ルーマニア・パブだった。

 なぜ、すなおに、うるさいことばかりいってゴメンな。とあやまれなかったのか。

 村木は塾をやめていた。小説を書きだしていた。だからこそ、理解できたのかもしれない。あの唇のルージュも赤いマニキュアも血の色をかくすためのものだった。いくら洗っても消えない血の色をかくすためのものだった。唇や指の血の色をカモフラージュするためのものだった。

 血の色は、いくら隠してもかくしきれるものではない。

 血のにおいは、バラの香水くらいではごまかせない。それを若い村木は、わからなかったのだ。美菜は気づかれたと誤解して塾を去ったのだろう。美菜は店の外まででてきた。送りだしてくれた。

「センセイ。懐かしかった。またいらっしゃって」

 巧みすぎる日本語だった。赤いマニキュアの手をひらひら肩のあたりでふっていた。それでも美菜の目は笑っていなかった。酔った村木は神宮をとおりぬけて昔、故郷の街に帰るまで住んでいたアパートに回ることにした。

「センセイ。センセイ。センセイ」

 美菜の呼び声が耳元でしていた。周囲は神宮の森。暗闇だった。

 首筋に痛みを感じた。だが――。人影はない。

 

 恨まれているだろうな。いまでも、恨んでいるだろうな。

 すっかり老いた村木は真紅の指の弾丸で貫かれたかった。夢の中で赤い爪をした指で心臓をとりだされれば――。リアル世界のわたしは死ぬことができるのだろうか。村木はすっかり老いているはずなのに――。人目にはまだ独身の若者としかうつっていない。    

 わたしは歳をとることはない。それは幻想だ。神宮の森であの夜、美菜に噛まれた――と思う幻想からきているのだ。

「ミナはいまでもまだ、あのパブをやっているだろうか」

 明日こそ覚悟を決めてミナに会いにいこう。

 まだ醒めきらぬ夢のつづきの中で、村木はつぶやいていた。


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