第5話 匿名性
彼との最初の会話は、それこそ他愛のないものだった。夢見がちな自分の話、子供っぽい自分の話。どちらも自分の話ではあるけれど、そんな会話をしたような気がする。
ろくな思い出じゃないのだろうか、記憶にはあんまり残っていない。ただ、喧嘩別れのような、いや、一方的に僕から逃げたような、そんな記憶がある。
「暑いんだけど」
僕がそう言うと、彼は静かに「我慢すればいい」と返す。
「ここは"そういう場所"だ。そうだって知ってるんだろ?」
「……"そういう場所"?」
「匿名性のある場所だっていうことさ」
彼はわざとらしく息を吐いた。こんなこともわからないのか、と呆れたように。
「窓を開ければ風が入る。風が入ればカーテンが靡く。カーテンが靡けば光が入る。そうしたらこの空間に存在意義はなくなる」
それくらいは、理解している。だから一瞬開けるのをためらった。匿名性のあるこの空き教室で光が差し込む可能性を考慮したからこそ、一瞬、息を吐くことも躊躇いながら開けようとしたのだから。
「わかってるよ、そんなことくらいは」
「だったら、きっと君は好奇心で開けようとしたんだ。人の秘密をひけらかすように」
皮肉を秘めた言葉を吐いて、彼はふんぞり返る。
やはり、彼にはどこか見透かされているような気がする。
否定したくなったけれど、彼の言葉は図星でしかない。否定する言葉も出てこなかった。
「子供っぽい性格なんだよ、僕は」
肯定するようにつぶやいた。
「いいや、前も言ったとおり、君ほど大人に近い人間もいない」
彼は続けた。
「君が夢見がちでいるのも、子供っぽくいるのも逆なんだ。大人に近いから、夢を見ていたいと思っている。子供でいたいと考えている。そういう人だ、君はね」
そう言うと、彼はいつの間にか、空き教室の引き戸の前に立っていた。
男にしては長い髪。廊下側の逆光で、やはりシルエットでしか姿を目視することはできない。
「また会おうか、環くん」
そうして彼は教室から颯爽と出ていく。
「……名前」
匿名性とは、なんなのだろうか。
なんで彼が僕の名前を知っているのか、彼がいったい誰なのか、疑問が残りながら、結局カーテンも開けないまま、窓も開けないままに席に着く。
不良ちゃんが空き教室に入ってきたのは、それから数分もなかった。
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