遠景

 もう何度目かわからない逢瀬を屋根の上のちっぽけな幌の下で果たした後、俺とアキは疲れてしばらく横になっていた。

 すこし前まで、アキは憔悴はしていても今よりもっと肉がついていて、いたずらっぽく、自分が満足するまで何度も挑んでくる積極性があった。それが最近では一度交わると息を切らしてやめてしまうし、疲れてそのまま眠ってしまうこともある。

 それは俺も同じで、仮に以前のように求められても応じる体力はないだろう。解体の仕事で筋力はついた気がするが、疲れやすくなっているし何もしないでいるとすぐに眠くなる。機転が利かずに小さな失敗を繰り返すことも増えた。


 理由は分りきっていて、俺もアキも碌なものを食べていないのでそもそも栄養価が足りていないのだ。しかしそれを補う術がない。いっそ盗みでも働こうかと思ったこともあるが、盗むべきものがある場所には暴力的な警戒があるのがこの貧民街だ。万が一アキを残して死ぬことを考えると、踏み出せないでいた。


「ねえキドさん」

 閉じていた目を開けるとアキが覗き込んでいた。

「何だ」

「あのさ。反対側はどうなっているんだろう」

「反対側?」

 俺も上体を起こして聞き返した。

「そう。このベランダから、こっち側はいつも見てるでしょ」

 そう言って彼女はテントの入り口のカーテンを開け放ち、まっすぐ前を指さした。夕暮れの黒い貧民街、運河、その向こうの上級市民区の明かり……。

 まだ全裸のアキは茜色の残光にその細い体を晒していた。今日はいくらか風もあるが、凍える様子でもない。こちらの世界にも春が訪れようとしていた。

「でも、こっち側は一度も見たことない」

 今度は反対側を指差すが、このバルコニー自体が急峻な屋根の側面に作られているのだから、そちらは屋根の板葺きが間近に見えるばかりだ。

「まあ、そりゃあそうだな」


 アキはほとんどこの家から出ていないのだから、それは見たことがないだろう……と思ったが、しかしよく考えてみれば、自分も同じだと気がついた。

 建物の裏の町並みは知っているし、その向こうにある小さな丘にも行ったことがある。けれどどこまで行っても高い城壁で阻まれてその先の景色を見ることは出来ないのだった。


「屋根に登ってみるか?」

 ロッククライミングみたいな要領でとんがり屋根によじ登れば、見たことのない景色が眺められるかも知れなかった。

「うんうん、見たい」

 アキも珍しくわずかだが目を輝かせて興味を示したので、俺たちは二人してどうにか屋根を登ろうとしたが、登れなかった。俺だけならまだしも、体力の弱ったアキにはとうてい無理だ。縄梯子でもかけられればと思うがそんな物は持っていないし買う金もない。

 ヤケクソになってアキを肩車してみたがもちろん全然高さが足りず、挙げ句にはバランスを崩して転んでしまった。

「あはは。やっぱり無理だ」

「半ばわかってたけどなあ」

 折り重なって倒れ込んだまま、意味もなく久しぶりに笑った。我ながら頭まで弱ってるなと思う。そうして転んだのと笑ったので疲れて息が切れて静かになった。

「……キドさん、好き」

 まだ起き上がれないまま、アキが吐息みたいな声で名前を呼びながら抱きついてきた。

「うん……俺も……」

「好き。本当だよ? 大好き。愛してる」

「ああ……」

 アキは額をぐりぐりと俺の胸に押し付けながら力いっぱい抱きしめてくる。その肩を抱きながら、アキの心の温度が伝わってくるような気がして、薄黒い靄みたいなものが思考を覆っていくのを感じた。

 よく考えなくてもアキが俺を慕うような要素はあまりない。俺が彼女に与えてきたものは最低限以下の粗末な食事くらいのもので、逆に俺の生きる精神的な糧として一方的に搾取し続けてきた感さえある。

 それでもアキは俺に恩義を感じているかも知れないが、それと恋愛感情はまた別だ。アキの「愛してる」は執着に近いと思う。他に選択肢が存在しないのだ。この世界においては。だったら今手にしているものを最上と思い込むのが健康的だ。それが不誠実だとはもはや思えない。俺だって同じことをしているのかも知れない。何が真実なのかという疑問は、次から次へと発現してくる眼前の肌触りや温度と比べてここではあまりに無力だった。

 そういう在り方が不自然だと感じる瞬間もある。自然かどうかなんて考えもしない日もある。けれど腕の中の肉体の暖かさは紛れもなく本物のはずだ。自分が生きている限りはアキを守りたいとたぶん心から俺は思った。


 しかし俺の思いとは裏腹に、転んだときに挫いた足首がなかなか良くならずにアキは寝込むことになった。はしゃいで馬鹿なことをしたなと悔やんだが後の祭りだ。


 足の怪我ならしばらく辛抱すれば良くなると高をくくっていたのだが、歩かなくなるとアキは急激に衰えてしまった。食も細くなりあきらかに口数も減っていった。


 貧民街にも非正規のヤブ医者らしきものは存在しているのだが、アキが部屋から出たがらないので誰に診せるわけにもいかなかった。もっともたとえ連れて行けても診て貰う金がない。

 次善策として贔屓の薬屋で万能だという丸薬を買ってきて飲ませたが効果はなかった。そもそもアキの症状がどういうものなのかも、原因も、なにもわからないのだ。足の腫れが本当に挫いたせいなのかもわからない。どんな効果の薬を求めればいいのかもわからない。普段は訳知り顔をしているオーダも、そうしたことについては全くの無知で祈祷を勧められる始末だった。

 しかし未開社会で病気に対して行われる祈祷やら呪術やらを、俺はもう笑えなくなっていた。不調のクリティカルな原因がすぐに判明する地球の現代医学のほうがむしろ異常なのだ。病も衰弱も本来ブラックボックスなのだ。そうであればざっくり包括的な救いを求めるのは自然な流れだ。


 その後も俺は亜人や獣人たちの風習を聞き出しては薬でも草でも虫でも、良いと言われればその都度探し出してはアキに与えた。どうにか元気を取り戻してほしい一心だったが、アキはたまったものではなかったに違いない。

 しかし俺が無理して解体や運び屋の仕事を増やして色々と調達しているのを知っているからか、しばらくは黙って俺に従って静養に努めていた。


 しかしある日を境に態度が変わった。

「もういいよキドさん」

 ムカデに似た虫の酒漬けを「絶対に無理」と拒否するアキに、口移しで噛み砕いたやつを与えた後だった。一応受け入れたもののやっぱりダメでけほけほと嘔吐した後、

「もう変な物買ってこないで」

 と静かに、しかし強固に訴えた。

「ああ……ごめん。でもな、そりゃ食いたくないものもあっただろうけど、すこしでもアキの体調が……」

「いやわかってるし感謝してるから。でも無駄だよ。自分でわかるんだ。どうせ私はもう死ぬよ」

「……そんな事、言わないでくれよ」

「なんで? なんで本当のこと言っちゃ駄目なの? ほら見てよ」

 アキはそう言うと寝間着の裾を太腿までたくし上げて見せた。

 俺は絶句した。足首の腫れは慢性化していて青黒く鬱血していたが、それは見慣れた様子でしかない。それよりも、ほんの数週間ですっかり脂肪が削げ落ち、骨と皮だけになってしまった脚に今更気がついたのだった。そう思ってみれば頬も痩けている気がするし、腕も骨が目立つようになっている。

「最近キドさん仕事ばっかでそばに居てくれないから。気づいてなかったでしょ」

 返す言葉がなかった。ましてやお前の薬を買うためだろう……などとはとても言えないし言おうとも思わない。彼女の言う通り、俺はその急激な変化に気がついていなかった。それでいて、目の前の不安から目をそらして独り善がりに奔走していただけだったのだ。それも全力疾走していたから、周りが何も見えていなかった。

「なんか、食欲も全然ないの。少し食べても夜中に気持ち悪くなって吐いちゃうし……」

「……そうなのか?」

「それも気づいてなかったでしょ。キドさんはいつもグーグーぐっすり寝てるから」

「ああ……すまん」

「まあいーけどさ。キドさんも大変なのわかるし……」

 不機嫌な時のアキの特性として責めるとなるとヒステリックに徹底的に責めてくるのだが、今はその元気さえないのかやけに大人しかった。

「はぁ、苦しい。ちょっと寝る」

 そう言い残してアキは眠ってしまった。


 その日以来アキは俺の与えるものには手を付けなくなった。そうして自分の言葉通り日に日に弱っていった。昼間でも眠っている時間が増え、起きていてもぼんやりと天井を見るばかりで、呼びかけてもどこか上の空なことが増えた。

 そのくせずっと側にいろとせがむので仕事量をセーブしてなるべく部屋にいるようにしたが、それでも自分の食い扶持は稼がなければならない。眠っている隙に逃げるように仕事に出なければならないのが後ろめたかった。


 そうやって結果的にアキのことばかり考えていたからだろうか。それとも、最近続いていた無理から疲れも溜まっていたのか。

 俺は取り返しのつかないミスを犯してしまったのだった。

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