麻薬

 言うまでもなく、アキが目を覚ました時は大変な騒ぎだった。

「つまりだな、ここは俺たちがいた2016年の日本とは違うんだ。それどころか地球でもない。全くの異世界だ。『異世界転移』とかって、見たり聞いたりしたことあるだろ?」

「いやいやいやいや、そりゃありますよ? よおく知ってますよ? だからこそこんなのおかしいって言ってるんですけどっ?」

 目覚めてすぐに恐慌状態を来し、破れた麻袋を縫い合わせた毛布もどきで身をくるんで部屋の隅に逃避したアキは、若者らしい溌剌さでそう訴えた。俺にはそれがひどく眩しかった。同時に、この元気がいつまで続くだろうかと少し意地の悪いことも考えた。

「やだ……帰りたい……やり直したい」

「この状況が不本意なのは俺も同じだ。他の転移者もそうだろう。だが残念なことに、日本へ帰還する方法は見つかっていない。それでも今後のことはわからない。いつか何かが明らかになるかもしれない。しかしその時に死んでいては話にならない。それまで生き延びることが肝要だ。取り乱す気持ちもわかるが落ち着いてくれ」

「嘘だ嘘だ……こんな……悪徳令嬢……攻略対象……」

 アキに俺の声は響かないようだった。意味の判然としない言葉を口の中で発しながらふらふらと立ち上がり、突如火がついたような勢いで出入り口のドアに向かった。

「おい。不用意に外を出歩いて……」

 力づくで引き留めようとした俺を、オーダが仕草で制止した。俺が戸惑っているうちにアキは脇目も振らずに閂を外して表へ飛び出していってしまう。

「ひいっ、なにこれっ」

 と悲鳴を上げながらも粗末な外階段を駆け下りていく乱暴な足音が聞こえる。外へ出るにはそこから屈強な男たちの住まう雑居部屋を通り抜けなければならないが、今の彼女ならば臆せずにつっきるだろう、と思う。何の準備も知識もないアキを行かせたオーダの意図を測りかねて俺は抗議したが、彼女は余裕の笑みさえ浮かべて歌うように言う。

「なぁに。この街の生きにくさを思い知ればすぐに舞い戻ってくるさ」

「そうでしょうか……それを思い知る頃には取り返しの付かないことになっている気がしますが……」

「まあまあ、彼女を信じて待とうじゃないか」

 俺としても恩人の言うことを蔑ろにはできず、アキを追うことはしなかった。


 その夜アキは帰らなかった。


 一夜が明け、俺がやはり引き止めるかすぐに探しに行けばよかったと後悔し始めた頃、屋根裏部屋のドアを叩く者があった。オーダが戸を開けると小柄だが筋肉質で頭部に角を持つ小鬼族の男が立っていた。下の階に住む雇われのタイという老職人だ。

 誰かが屋根裏まで尋ねてくること自体が珍しかったが、タイが人間を肩に担いでいたので俺はすぐに駆け寄ってその人間を引き取り、床に寝かせた。もちろんそれはアキだった。衣服は着て出た例の薄衣のままだったが、全身に擦過傷や打撲の跡があり衣服の尻のあたりには手のひら大の赤黒い血の跡が残っていた。

「これは?」

 と鋭い視線を向けたのはオーダで、タイは慌てて手を降った。

「違うぞ。やったのは俺じゃあない。裏のごみ置き場に捨て……倒れてたんだ。親方が見つけた。もしやと思ったがやはりあんたの連れか」

 俺は二人のやり取りを聞き流しつつアキに駆け寄った。地面に直に倒れていたらしく顔も髪も土まみれで、涙の跡が茶色く頬に固着していた。呼びかけても反応はない。しかし顔を近づけると弱々しいが呼吸を感じ取ることができた。大きな外傷もなく、気を失っているだけのようだった。

「それじゃあな。確かに連れてきたぞ。俺の用はそれだけだ。邪魔をしたな」

 と小鬼族の男は別れの言葉のようなことを述べながら、それに反して何かを待つようにドアの前から動こうとしなかった。俺は何かあるのかと訝しんだが、

「やれやれ」

 とオーダがため息と供に小さな硬貨を指で弾いて飛ばすと小さな体躯で背伸びをするようにそれを捕まえ、「毎度」とニヤついて去っていった。


「あの駄賃は本当なら君に出してほしかったところだけど」

「あぁ……すみません。何から何まで」

「まあ、いいけれどね」

 本当にどうでもいい、という様子のオーダに頭を下げて、アキをベッドに運んだ。今この瞬間は安らかそうに寝息を立てる少女を見下ろしながら、俺がこの子を守らねばと強く思った。オーダは恩人であり、何らかの力か権力かを持っているようだが、アキがこのような目にあっても涼しい顔で飄々としているあたり、どうも素直に信用をおけない。彼女に任せきり、言われるがままではいけない。俺たちを救ったのは当人が言うようにやはり気まぐれなのだろうと思う。

 考えてみれば当然のことだが日本的な感覚ではこの町の住人のことは理解できないと再認識した。しかしその勉強代としては、アキの受難はいかにも高すぎる代償だった。




 再び目を覚ましたアキはもう逆上して逃げ出すようなことはしなかったが、そのかわりにベッドから全く出ようとしなくなってしまった。寝床の周りを衝立で囲い、麻布の薄汚れたブランケットを頭までかぶって、日に数度の便所と一日置きの行水以外は寝ているか、目覚めていてもぼんやりと天井の梁を眺めたり、かと思うと急に泣き出したりして不安定に過ごしていた。


 部屋を飛び出した日に何が起こったのか、アキは語ろうとしなかった。大体の想像がつくそれについては俺も質問したりはせず、害のない世間話や日本時代のくだらない思い出話を一方的に聞かせ、なんとか立ち直ってもらおうと心を砕いた。……もっとも、立ち直らせてどうしたいのかというと、そのビジョンは無いに等しかった。

 俺が養い続けるのか。オーダの気まぐれがいつまで続くかわからない。そうなれば俺の今の稼ぎでは若い娘を安全に生活させることは不可能だ。それとも自分の食い扶持を稼ぐ手段を身につけさせるか。しかし何の血縁もコネクションもない非力な人間族の女ができる仕事は限られている。……それを今のアキに勧めるのは酷というものだ。


 しかしそんな中でも、アキは次第に自分のことを話すようになっていった。そのほとんどは幼少時代の思い出だった。

 幼稚園のころ、園庭に穴を掘りすぎて叱られたこと。クリスマスイブにサンタクロースへの手紙を書いたこと。プレゼントに何がほしいかすぐには思いつかなかった。「欲しいものがなかったら、どこか行きたいところでも良いと思うよ? ディズニーランドとか」兄がそう言ってくれたので言うとおりに書いたら、その日の真夜中、ディズニーランドに行くぞと父に起こされて願いがなかったと喜んだ。しかしもちろんそれは両親と兄の差し金だったに違いない。学校帰り、探検と称して悪友たちと水田脇のトンネル状の用水路に忍び込んだこと。まだ行ける、まだ行けるとずんずん進んだが気がつくと真っ暗で帰れなくなり、消防が出動する事態にまでなってしまった。子供の頃は絵が得意で金賞を何度も取った。けれど中学に上がった頃からあまり褒められなくなった。アキはデッサンが嫌いだった。入った美術部もすぐに辞めてしまった。流行りの音楽が嫌いで古いジャズばかり聴いていた。それを知った幼馴染から吹奏楽部に誘われて応じたが、読譜の訓練が嫌でやめた。オタクっぽいゲームとか漫画には全然興味がなかったはずなのに、ノートパソコンを買ってもらってネットにハマり始めると一気に毒されて異世界転移というジャンルのことも知った。こんな風に都合よく行くなら自分も異世界に転移したいと望んだこともあった。それがいけなかったのだと言ってアキは泣いた。単純に共感したわけではないが俺も泣いた。アキが両親や兄や悪友たちや幼馴染とたぶん二度と会うことがないように、俺も親や同僚や級友たちと会うことはもう無いだろう。そして会社も田舎の水田も東京の街もディズニーランドも、この世界のどこにも存在しないのだ。


 一度胸襟を開いてしまうとアキとの距離が縮まっていくのに時間はかからなかった。日常会話に応じてくれるようになったし、俺が放つちょっとした冗談に笑顔を見せる事も多くなった。しかしそれは俺に対してだけで、オーダが話しかけると俯いて黙ってしまうし、相変わらず外出しようともしなかった。そこには激しい依存が見て取れた。俺が少しでも突き放すようなことをしたり言うと、途端に機嫌を悪くして荒れる。そうしてその揺り戻しでベッタリと甘えてくる。


 俺たちが男女の関係になったのは、そうやって必至に甘えてくるアキの不安定な精神を俺が利用したようなものだが、アキとの肉体的な繋がりが俺にとっても救いになっていたのは確かだった。

 アキの分の食料を確保するために俺は解体の仕事を増やしていた。底辺労働者は週に(こちらでも一週間は七日だ)五日は働かないと最低限の生活が維持できない。しかし大きな解体の仕事はそんなに招集がかからないから、解体のない日は裏の仕事にも手を出していた。

 戸籍のない住人は貧民街を出ることすらできないが、平民たちは貧民街まで来ることがある。連中は買い物に来るのだが、一般的な品物ならば城下町に行けば済むわけで、要するに違法薬物が目当てだ。こちらの世界でも麻薬の使用は通常禁じられていて本格的な製造は政府筋の正規ルートでしか行えないのだが、貧民街では粗製の麻薬に魔術をかけ合わせて擬似的に高度な麻薬を再現している。話を聞く限りヘロインに近い性質だと思われるが、これが貴族の婦人たちの間で流行しているのだ。既に支払いを済ませているバイヤーに商品を渡すのが俺達の仕事だが、もちろん憲兵にでも見つかればその場で処刑され墓も作られない。

 憲兵に見つかる確率がどのくらいかというと、まあ七割方見つかる。だからさっさとモノを渡して細い入り組んだ路地裏に逃げ込んでダッシュだ。解体と比べたら体力的な消耗はそれほどでもないが、やはり命がけであり、メンタルが削られる。


 その仕事もなければ道端で動物の糞を拾って燃料屋に売った。全身に悪臭が染み付くので同業者に倣って丘の湧き水で体を洗うのだが、この水が大量に鉄分を含んでいて今度は全身が錆の匂いになる。洗った服はしばらく置くと鉄が酸化して真っ茶色になる。糞か錆、いずれにしてもアキに顔をしかめられることになった。


 そんな調子で過酷な日々が続いたが、なんとかこなせていたのはアキがいたからだろう。彼女の保護者としての自覚が背筋を伸ばさせてくれたし、一方でベッドでアキと体を交える時間とその予感が、慢性的な不安と苦痛を麻痺させるモルヒネみたいに作用した。俺は四六時中アキのことを考えて生きていたとも言えるし、何も考えなくていいようにアキの表情や粘膜を無理やり頭いっぱいに詰め込んでいたとも言える。

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