アキとオーダ

 アキと出会ったのは……というのはつまり、オーダと出会ったのは、という意味でもあるが、それはこちらの暦で半年ほど前のことだ。

 当時の俺はなんとかこちらで死なずに生きる方法を覚えたばかりで、冒険者や騎士団が狩ってきたドラゴンとか巨獣の解体作業員が募集されるたびに赴いて日銭を稼いでいた。

 解体は下級市民の仕事とされていて、ドラゴンや大型のモンスターが持ち込まれると貧民街の外れの城門の外に集積される。募集に応じた作業員は役人から木の札を渡され城壁の外に出ることを許される。ちなみにこの札を失くすと決して再び城門をくぐることはできない。

 ドラゴンの中にはシロナガスクジラよりもでかいのもいるが、すべて手作業で解体される。作業員は獲物の硬い皮膚に杭を打ち込み、ロープをかけてよじ登り、皆全身血と脂まみれになりながら巨大な鋸やナイフで肉を削り取っていく。骨と脂と希少部位は役人が回収していくものの、大部分の肉は放置されるため解体した者の分け前になる。これは作業員の役得だ。味は別として、これにはかなり助かった。


 しかし正直に言えばこの仕事を始めた最初の頃は発狂しそうだった。

 重労働なのはもちろんだが、肉の山に分け入っているとかぶった血が凝固して髪も服もガビガビになるし、その血も脂肪も腐ったイカを肥溜めにぶち込んだようなひどい臭いがする。死んだばかりの獲物だってそうで、腐敗が進んでいれば尚更だ。作業しながら肉の上で嘔吐しそうになって何度役人に鞭打たれたかわからない。さらにその血や体液が目にも鼻にも耳の穴にも入って何日もこびりつく。溜まっていたガスで獲物の内臓が破裂して人死にが出ることも度々あった。稼ぎがいいわけでもないのに命がけなのだからたまらない。まともな人間種ならば何年も続けられるような仕事ではない。


 しかし俺がそんな無茶な日雇い仕事でボロボロになりながら食いつないでいたことが、結果的にアキにとっては幸いしたと言えるだろう。


 その日俺は解体の仕事を終えて、文字どおり血生臭い悪臭を放ちながらねぐらにしている礼拝堂に向かって貧民街の裏道をふらふらと歩いていた。その途中人々が大店の屋根を見上げてざわついているのに、気づいていながら一度はスルーしようとした。厄介ごとに巻き込まれたくはなかったからだ。しかし、裸の女が屋根に引っかかっている、しかも気を失っているようだと聞いて足を止めた。俺もこの世界で目覚めた時、全裸で城壁の突起に引っかかっていたからだ。人集りに割り込んで見てみれば、この世界では珍しい、東洋系の容姿をした黒髪の女だった。これは日本からの「転移者」だろう、とすぐに見当がついた。


 俺の知り合いかもしれないと告げると、野次馬はひとりまた一人と散っていった。身元のしれない女などというのはこの貧民街ではちょうど良い慰みものか娼館に並べる商品としてしか見られない。それなのに荒くれ男たちが素直に引いたのは、解体作業者の縁者と思われるのを避けたかったからだ。モンスターやドラゴンの解体などというのは、知能の低い亜人か犯罪者、不可触民、戸籍を持たない「訳あり」がする仕事と相場が決まっているのだ。募集がかかった日に血まみれで歩いている人間種はつまり、この貧民街においても関わってはいけないやばい奴、というわけだ。俺がそうした事情を知るのはもっと後になってからだったが。

 店主に了承を取り受け、はしごを掛けて女を抱えおろした。着るものどころか巻いてやる布すら持っていなかった俺は、彼女をそのまま肩に担いでねぐらに向かった。


 貧民街のはずれに礼拝堂といって寺院のような施設があって、貧民街には珍しく広い庭がある。敷地面積としてはサッカーコートの半分もないくらいだが、礼拝堂敷地内での犯罪は親族まで処刑されるほどの重罪であるために、家を持たない社会的弱者が安全を求めて集まってねぐらにしている。

 状況としては東京で言えば山谷地区の公園と大差ないが、規制がなく礼拝堂の聖職者も見て見ぬふりをしてくれるので皆盛大に自分の寝床を構えている。しっかりしたフェルトのテントや大型犬の犬小屋みたいなものから、それが2階建て3階建になったようなもの、礼拝堂の敷地を囲う石と泥の壁に沿って板を組んでカプセルホテルみたいに何十人も寝れる「蜂の巣」と呼ばれるスペースを確保し、金を取って貸している者までいる。貧民街で屋根のある場所で眠りたいと思ったらその「蜂の巣」が最安値だし実際カスみたいに安い。隣にいびきのでかい獣人でも入ると眠れない夜を過ごすことになるが、有志の自警団が寝ずの番をしているので寝ている間に殺されたり全財産を盗まれるということがないのは大きな価値だ。

 こちらの世界で目覚めて数週間というもの、俺はどこの店にも工房にも雇ってもらえず戸籍がないために貧民街からも出られず、どうしようもなくて物乞いをしてなんとか生き延びていた。その当時は強盗、追い剥ぎが怖くて雨水の流れる側溝の石の蓋の下に潜り込んで眠っていたものだ。雨の日はどうしていたかというと寝ずに歩いていた。そういう経験があったから蜂の巣などはまだ快適に思えていたのだが、日本から転移してきたばかりの年若い少女をそこに連れ込むのはさすがに憚られた。かと言って他に当てもない。悩んだ挙句に俺は礼拝堂、敷地の中央にある古いが荘厳な寺院の戸を叩いた。


 黙認されているだけで俺たち浮浪者は歓迎されているわけではなく、血糊だらけで悪臭を放つ俺に、対応した白ひげの老神官はあからさまに鼻をつまんで見せた。しかし小綺麗な裸の少女は見過ごせなかったらしく、すぐに浴衣に似た薄衣を持ってきて着せろと言ってくれた。お辞儀の代わりにこちら流にスクワットみたいに膝を曲げて謝意を表すと椅子を勧められた。話だけは聞く気になったようだった。俺はアキを長椅子に寝せ、傍らに座った。


「彼女は身元の分からない女で、恐らく記憶も混乱しているようです。ですがどうも私と同郷らしいから助けたいのですが、どうにかならないでしょうか」

 そう切り出すと神官はまず驚いて、それから渋い顔になった。驚いたのは俺が思いの外丁寧な言葉づかいをしたからだろう。そんな浮浪者はまずいない。渋い顔の方は「助けたいと言ってもなぁ」というところだろう。


「行き場のない女はいくらでもいる。もちろんお前も知っていようが」

 それはそのとおりで、この貧民街に辿り着くような余所者はみな困窮している。女ならば体でも何でも売って日銭を作るのが常識で、それができる健康な身体があるのに他人に縋るというのはもはや怠惰とみなされる。しかしそうだとしても、現代日本から右も左も知らぬ異世界の吹き溜まりのような貧民街に転移させられてきた少女をそう言って放り出せるだろうか。いや、放り出せばよかったのかもしれないが、その頃の俺はまだ自分が日本人のつもりでいたから、同じ日本人を放っておけないと思ってしまっていた。

 いや。それも方便で、俺は単に身内と話したかっただけかもしれない。


 ……せっかく東京で再就職できて新規のプロジェクトも抱えてたのになんの前触れもなくこんな妙な世界に転移させられて悪臭を放つ巨大な生肉のブロックと格闘しながら汚い露店で買ったカチカチの黒いパンとか得体の知れない豆を食って生活している。なぜだ? 酷いと思わないか? 俺が何をしたんだ? もう体力も限界だ。腰も肩も痛くて快適に過ごせる時間というものが皆無なんだよ。でもアレルギー性鼻炎は治ったな、多分腸に寄生虫が住み着いたからだろう。それよりもうすぐボーナスだったんだ。旅行券でも贈って親孝行しようと思ってた。それが今や宿無しだ。あんな棺みたいな箱の中で寝ても疲れなんて取れないんだよ。こんなのおかしいよな。同じ境遇の君ならわかってくれるだろう……?


 そんなふうに。おあつらえ向きのはけ口が降ってきて、俺は無意識に手放すまいとしていたのかもしれない。


「そこをなんとか、一晩だけでも泊めて頂けませんか。この土間にでも構いませんし。なんなら目覚めるまででも……」

 俺は自分でも自覚していない必死さで食い下がったが、

「そうは行かん」

 と取り付く島もなかった。しかしそれを責めるのもお門違いというものだ。こちらの世界の宗教がどういうものなのかまだ把握しきれていないのだが、基本的に様々な種族・民族が同一の神?のようなものを信仰している。少なくともここ貧民街ではそう見える。神官は多数派である人間種だから、同じ人間を特別扱いして優遇しては角が立つ、という事情は説明されずとも理解できる。一方でそれが寺院が市民から助けを請われた時、体よく門前払いする決まり文句であることもまた、浮浪者仲間から聞いたことがあった。だからもっと情に訴えるとか相手のメリットをちらつかせるとか、巧みに押せば折れてくれる可能性もあったが、生憎そんなことができる交渉術というかコミュニケーション能力は持ち合わせていなかった。

「話はそれだけかな」

 そう言って神官が立ち上がる素振りを見せた時、俺はもう蜂の巣の自分のボックスに連れ込んで寝かせるしかないと覚悟を決めていた。女連れなど周りからどんな白い目で見られるかわかったものではないし、彼女が棺桶みたいなボックスの中で、浮浪者と密着した状態で目覚めたときに生じるであろう混乱と騒動を思うと胃が痛くなる思いだったが、他に安全に夜を明かす方法は思いつかなかった。


 俺は異世界における自らの無力を呪ったが、今にして思えば日本でだって俺の存在などとるに足らないものだった。国家や組織に幾重にも高度に守られているだけで、自分だけの力では何もできないのは変わらない。それが集団の構成員というものなのかもしれないが。

「その衣は偉大なる***からのお恵みだ。持っていきなさい」

 と、何度聞いてもうまく聞き取れない神だかご本尊だかの名を出して神官が話を切り上げようとしたときだった。

「話が済んだなら、私が後を引き継ごうかな」

 そう言って礼拝堂の奥から姿を現したのがオーダだった。

「オーダよ、いかなるつもりかな」

「ただの気まぐれですよ、神官どの」

 神官は基本的に下々の者の名を呼ばない。お前、とか、そなた、とかだ。しかしオーダに対してはそうではなかった。後になってこの時のことを不思議に思ったりもしたが、小人族というのは占いの民であり、宗教的な何かしらの役を負っているのだろうと解釈している。本人が渋るので直接聞いたわけではないのだが。


 いずれにしてもオーダは俺とアキの救いの神も同然だった。まだ目を覚まさないアキを背におぶった俺を導いて、彼女は自分の住処まで案内してくれたのだから。

 ガラの悪い店が並ぶ目抜通りを抜けて酒場の脇の階段を上がっていくと、例によって荒くれ男たちの冷やかしや好奇の目に晒されることになったが、恩でも売ってあるのか皆オーダには強気に出にくいようで、先頭に立つ彼女が適当にいなしてくれた。危険な外階段を冷や汗をかきながら登り、あの縦に長い屋根裏部屋にたどり着いて、小作りなドアの閂をオーダがゴトリとかけた時、俺は半裸の少女を背負ったままその場で泣いてしまった。あんな風に泣いたことは後にも先にもない。悲しいとも嬉しいとも悔しいとも感じず、鼻の奥がツンとするでもないのに目から大量の涙がぼろぼろと流れて止まらないのだ。オーダに促され、床に膝をついてアキを藁のベッドに横たえるともう立てなくなった。腰が抜けるというのはああいうのを言うのだろう。体中のどこにも力が入らない。今思えば、数カ月ぶりに真っ当な室内、プライベートな空間に身を置いたことで限界まで張り詰めていた緊張の糸がふつと切れたのに違いない。コミュ力に乏しい超絶インドア派のおっさんが文字通り身一つで貧民窟を生き抜くにはそれくらい精神をすり減らす必要があったのだ。オーダは、突っ伏して無言で涙を流す俺が落ち着くまで辛抱強く待ってから、いたずらっぽい笑みを口の端に浮かべながら高らかに宣言した。

「ようこそ私の仮住まいへ。好きなだけゆっくりしていってくれたまえ。歓迎するよ、***に導かれし子らよ」

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