こんな異世界転移はいやだ

ふぐりたつお

異世界

 曲がりくねった未舗装の路地は狭く、石と泥と木材からなる危なっかしい中層建築が道の両端に迫っていて暗い。真上を見上げればまだ空は茜色。日没まではまだ半刻以上あるはずだが、この貧民街にだけは夜が一足飛びでやってくるようだ。

 一見してならず者とわかる風体の人間、亜人、獣人が辻ごとにたむろし、あるいは単独で獲物を狙うように目を光らせている。とうに見慣れてしまった、しかし警戒は解くことができないその景色の中を早足に進む。弾む息が白くなって消えていく。ここはいま真冬だが、東北出身の俺にとっては初冬並みの印象で刺すほどの寒さは感じない。


 袋小路の突き当りの、間口の狭い酒場の前に立ってその建物を見上げる。朽ちかけた4階建ての木造で補修の跡だらけだ。それでも開け放された正面の引き戸の奥には、蝋燭の灯の下で安酒を飲んで騒ぐ荒くれ者たちの喧騒がある。しかし俺は酒場には用はない。というか酒を買う金も無い人間など向こうから願い下げだろう。店の側面に回って木戸とも呼べぬ板を立てかけただけの入り口を入った。入るとすぐに階段がある。暗く狭い木製の階段は古く傷んでいて一歩登るたびにギィギィと軋む。踊り場に明り取りの小さな窓が切ってあるが、ガラス代わりに質の悪い薄紙が貼ってあり換気性能はほぼ皆無。漂う空気もカビ臭いような、石灰のような埃っぽい臭いがする。


 四階まで登ってきて、やはり木製の、薄いドアをノックして返事を待たずに開ける。部屋の左右の壁に寄せられた二台の二段ベッドと、その間に架けられたハンモックから、色も種族も様々な顔が覗いてこちらに一瞥をくれ、すぐに引っ込んだ。床で8面のサイコロを振って賭けに興じていたらしい強面の人間とトカゲ系の獣人はこちらを見向きもしない。Fラン大学の寮みたいな雰囲気だが、実際ここは浮浪者よりも少しだけ金を持っている人間たちの下宿になっている。無論俺もそのお仲間というわけだ。


 彼らの脇を抜け、酒瓶や丸めた瓦版で散らかる部屋の奥へすすむ。奥の壁には粗末なドアがあり、そこを出るとベランダだ。背後で「無理無理、もう何も払うものがないぞ」と呻く声がする。トカゲ男が賭けに負けたようだった。人間の男が「銅貨がなければ、かわりにお前さんのウロコで許してやらんでもないが」と冗談を言い、部屋のあちこちから乾いた笑いが漏れた。それを無視して後ろ手にドアを閉める。


 ベランダと言ってもほんの数歩歩くだけのスペースしかなく、裏の建物の壁が間近に迫っているし左右を見ても隣家のベランダや張り出し窓で見通しは悪い。ベランダの端から壁沿いに外階段が伸びており、そこを進む。体の大きな種族ならば踏み抜いてしまいそうな粗末な後付けの階段で、手すりもない。危険だがこれにももう慣れた。登った先はかがまないとくぐれないような小さなドアだ。拳で叩くと誰何がある。

「俺です」

 答えるとすぐにゴトリと閂を外す音がしてドアが内側に開いた。姿勢を低くして入るとそこは屋根裏部屋だ。尖った三角屋根はこの地域の建築の特徴で、そのせいで屋根裏部屋の空間は縦に広い。梁と梁の間にハンモックが二層にわたっていくつも架かっているが無人だ。以前は身軽な小人族の一家が住んでいたというが、何か事情があったのか今では一人が残るのみだ。

「おかえり、キド」

 ドアを開けてくれた小人族のオーダは甲高い声で言い、そそくさと戸締まりをして自分のベッドに駆け戻った。

 小人族は子供の頃は人間と変わらないが見た目の年齢が10歳くらいで止まる。オーダもぱっと見小学生の女の子のようだが40歳は超えているらしい。なるほど所作には貫禄がある。

「借りていたよ、これ。この……」

「ああ、ギター」

「そうそう、ギター」

 オーダは部屋の奥のベッドの上に胡座をかいて、俺が自作したお粗末な楽器をポロポロと爪弾いていた。空き箱を使った弦が2本しかない音痴な弦楽器だがギターということにしている。ストリートミュージシャンよろしく物乞いをするためにつくったのだがだれにも見向きをされず、今では俺よりも彼女が弾いている時間のほうが長い。


 俺は部屋の隅の、二枚の衝立で個室のように仕切られた一角に入る。小人族用の小さな机と、人間用のベッドが一台あるだけの、日本的な感覚で言えば3畳間といった空間。しかしもちろん天井はないからたくさんの梁とハンモックが見える。同居人のオーダがごく控えめな性格だからここを個室のように感じて使っていられるに過ぎないのだが、しかしそんなものでも俺たちにとってはかけがえのない安息の空間だ。


 俺たち、というのは俺と、ベッドに寝ているもう一人。

「帰ったよ、アキ」

 藁束のマットに粗末な布を敷いたベッドで寝ている女をに声をかけると、彼女はううんと唸って怠そうに目を開けた。

「キドさん」

 俺の本名は城戸章介というが、こちらの世界では単にキドと名乗っている。

「ただいま。具合はどうだ?」

「ん……よくない」

「そうか。飯、買ってきたけど食べられるか」

「うーん。少しでも食べないとね……」

「そうだぞ」

 今日はいつもより少しは前向きな気分らしいアキに気を良くして、俺は露店で仕入れてきた安いナッツ類やカチカチの黒パンを机に並べる。

 アキがのっそりと体を起こしてベッドの縁に腰掛け、アーモンドに似た乾燥ナッツを一つ口に含みゆっくりと時間を賭けて咀嚼する。コリコリという微かな音が、オーダのギターに混じって屋根裏部屋にこだまするような気がする。


 貫頭衣をちょっと縫い合わせただけの最低限の寝間着を着たアキの首元で、浮き出た鎖骨が際立っていた。出会った頃よりも随分と痩せてしまったなと思う。16歳だと言うから本来ならもっと生命力がみなぎっていていいはずだが、今の彼女は肌も荒れ果て、乾燥して白っぽく粉を吹いている。肩まである黒い髪も艶がなく箒みたいに広がっている。しかし顔立ち自体は整っていて、日本にいた頃はさぞ綺麗な娘だったのだろうと思うと、余計に不憫に思える。


 俺もアキも、ある日突然日本の東京からこの異世界に転移させられてきた。ネット上でそういう小説が人気を博しているという話は聞いた事があった。しかしもちろん、そんなことが自分の身に降りかかるなどとは予期どころか想像すらしようはずもない。

 フィクションの中では、神やら女神やらに特殊能力を授かって異世界で好き放題活躍するような「転移者」が多いというが、俺もアキも神様なんぞに謁見しはしなかったし、特別な力を持ってこちらの世界に降り立ったわけでもなかった。さらに言えば技術体系が違いすぎて現代日本の知識の殆どは役に立たない。一体どういう理屈なのか、口語としては日本語がほぼそのまま通じるのが救いだが……。


 言葉の件と関係があるのかどうか、どういうわけか日本からは少なくない人間がこの世界に転移してくるようだ。しかしこちらでうまくやっている人間は決して多くない。接触した日本出身者に話を聞く限り、城壁の外に「転移」してきた者の多くは野獣やモンスターに食われて死に、運良く街に辿り着いても戸籍がないので貧民街に送られることになる。ここと比べれば南米のスラムのほうがまだ治安がいい。貧しくても穏やかに暮らせれば……などとは望むべくもなく、ここでもまた多くの者が飢えや暴力によって命を落としている。


「ねえキドさん」

 ナッツをいくつかとパンをひと欠けだけなんとか飲み込んだアキに名を呼ばれて我に返る。

「展望台に行きたい」

「ああ俺も……でも寒いぞ。大丈夫か?」

 こちらの世界のこの地域は気温も湿度も安定していてほぼ常春と言っていいが、およそ480日の「一年」のうち60日ほど気温の下がる「冬」の期間がある。今は真冬だ。それでも東京の晩秋から初冬くらいの寒さでそれほど厳しくはないが、体の弱っているアキに寒風は厳しいように思えた。しかし彼女は展望台に行きたいと繰り返した。

「仕方ないな」

 俺は着ていた外套を脱いでアキに羽織らせ、手を貸して立たせた。


 衝立の「部屋」から出た俺とアキをオーダは不思議そうに見た。飽きたのかもうギターはやめて壁に立てかけてあり、何やらびっしりと書かれた紙の束を読んでいたようだ。

「ちょっと、上に行ってきます」

 視線に答えるように言うと彼女は「どうぞ」と仕草で示す。軽く会釈をして、上の方の梁まで続いている梯子を登る。いちいちオーダに断る必要はないのかもしれないが、屋根裏部屋の上の方は小人族たちの領域のような気がしてなんとなく毎度断ってしまう。

 アキを先に登らせると寝間着の下の下着が丸見えになるが、こちらの女性用下着はトランクスみたいなものであまり嬉しい見た目ではない。それよりも、握力が落ちている彼女が転落しないかと気が気でない。


 10メートル近く登ると天窓を開けて屋根の上に出ることができる。出たところで本来なら屋根は急峻すぎて腰掛けることすらできないが、木っ端を組み合わせてちょっとしたバルコニーが作られている。ここが俺たちの言う「展望台」だ。小人族たちはここで夜通し星を見て未来を占ったという。その際交代で休みを取るためのテントというか幌のようなものがバルコニーの隅に作られている。……オーダがそういう占いをしているのは、俺もアキも見たことがないが。


 この建物の屋根は貧民街のなかでもひときわ高く、展望台からはこの街……20Kmに渡る城壁の内部をかなり遠くまで見通すことができる。街の北の端にあるここ貧民街は暗くほぼシルエットにしかみえない。そんな陰気な町並みの向こうには墨を流したように見える運河が流れていて、そこを過ぎるとようやく都市らしい商業地区の灯りが灯りだす。南へ行くほど高級な店が並び客層も変わる。商業地区の先はまた暗くなるが、これは貴族たちの館の庭園だ。そしてその向こうに夜でも魔法で真っ白に照らされた領主の城が浮かび上がって見える。

 その先にはまた上級市民の区画があり、商業地区があり、その奥は農地で、農地は城門を出てもまだ続いている……というが最後のあたりは伝聞でしかない。何しろ俺たちは貧民街を出たことがないのだ。


 上空に目をやれば、夜景とはまた違った景観がある。

 こちらの世界には月が2つあって、いずれも地球の月の10倍以上は大きく見える。その白とオレンジの衛星は「転移者」にとってはわかりやすく異世界感を感じられる天体ショーになっている。もちろん見飽きるまでは、だが。


 アキは夜景にも天体にも興味を示さず、テントの中に敷かれた綿のマットに横になった。

「寒くないか?」

 言いながら俺も幌に入り、紐で巻いてあった布のカーテンを下ろすと一応のプライベート空間ができあがる。人間が二人並んで横になれるくらいのスペース。アキが展望台に行きたいというのは、まあ……そういうことだ。

「寒い。でもしたい。あれ買ってきてくれたんでしょ?」

「ああ……」

 俺はズボンのポケットから小さな紙の包みを取り出す。開くと濃紺色の丸薬が数粒見える。現代日本で言う殺精子剤のようなもので避妊用に広く使われている生薬の類いだ。一粒だけ取り出して残りはポケットに戻した。

「じゃあ、入れるぞ」

「うん」

 アキが寝たままで膝を立てる。俺は丸薬を人差し指と中指の先で挟み、アキの例のトランクスみたいなデカパンの裾から手を入れて局部の奥まで挿入する。アキは充分以上に濡れていたが、薬が体温で溶融し成分が広がるのを待って、俺たちは下半身だけ脱いで繋がった。

 性欲とは不思議なもので、どんなにアキの不調を心配していても、彼女との関係を続けていていいものかと悩んでいても、一度粘膜同士で接触してしまうと彼女の最奥に精を吐き出すまで劣情は止まらない。激しく腰をぶつけ合いながら彼女は愛してると言い、俺もだと答える。君は必ず俺が守ると心から言える。壊れそうなくらい強く抱きしめる。しかし俺が壊そうとしているのはアキの細い腕や肩や腰ではなく、自分自身の人生かもしれないという暗がりが頭から離れることはない。アキの中は熱い。その熱が思考能力を次第に灼いていく。闇を歩くような不安もエゴイスティックな庇護欲も約束も愛情の記憶も追い立てられて真っ白な灰になっていく。

 アキの求めるままに応じていると体力のない俺はいつも困憊してしまう。しかし俺が荒い息でマットに横たわっているときのアキが一番優しい。細い指先で俺の髪を梳き、耳元にキスをして大好きと囁く。俺たちの局部は溶け出した丸薬の成分で目の覚めるようなコバルトブルーに汚れている……。

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