第3話

 翌朝、僕はゆうちゃんに連れられて奥村研究所の実験室へと足を踏み入れた。小さなビルの一階にある、日当たりの悪い奥のフロアだった。ゆうちゃんの雇い主である奥村所長は、ちょうど還暦を迎えたばかりの、細身で小ざっぱりとした温厚そうな老人だった。柔和な顔立ちと落ち着いた話し声。なるほど、信頼できる人というのも頷ける。研究所の実験室には僕のほかにも高額のバイト料に釣られたらしい二十代半ばの男女五人が、被験者番号の書かれたゼッケンを着て、パイプ椅子に座らされていた。奥村所長は丁寧に実験の方法について説明した上で、白衣姿のゆうちゃんに向かって後はよろしくと告げると、実験室と書かれた部屋に入ってしまった。


 実験は僕を含めた男三人女三人で行われた。初めのチラシに書いてあった通り、頭に脳波計の電極を付けられてモニターの前に座らされ、画面の上から流れ落ちてくるマークに合わせてボタンを押すリズムゲームのようなものをやらされるだけだった。ゲームは一回ごとに一時間。それを、明るい部屋や暗い部屋、赤い照明だけの部屋や青い照明だけの部屋で、ほぼまる一日、実験は続いた。


 最後の回を終えると僕ら被験者達はもうへとへとで、お互いに顔を見合わせて、嫌になりますね、と呟いた。ゆうちゃんが現れて僕らの前に立つと、例の事務的な調子で頭を深く下げると、ご協力ありがとうございました。こちらは謝礼です、と言って一人ずつお礼を言いながら封筒を渡した。時給一八〇〇円でおよそ七時間ほど実験が続いたから、一万円を越えているはずだ。無職の自分にとっては貴重な金額である。


 被験者達が帰った後、僕はゆうちゃんに呼び止められた。


「ひろくん、東京に戻ったらどうするの?」


「え、」


「仕事はしてないんでしょう。戻って仕事を探すの?」


 また僕は、見たくない未来に無理やり顔を向けさせられたような気がして、口篭った。そんな僕を見てゆうちゃんは、少し話がしたいと言うと、半ば強引に僕を「第一研究室」と書かれた扉の奥に押し込んだ。


 そこは薄暗くて不思議な部屋だった。整然としているのに、どこかが、何かが決定的に乱れているような、そんな気配がするのだ。本棚には分厚いファイルが色で分けて並べられていて、それぞれに番号が振ってある。おそらく研究の資料だろう。ガラス戸の棚へ視線をやれば、ステンレス製の頑丈そうな箱がいくつも重ねて置かれている。一体、何が入っているのだろうか。


 その時になって僕はようやく、この部屋の違和感に気が付いた。照明がないのだ。天井にあるはずの蛍光灯は外されていて、代わりに、まるで雑草のように、太い突起物がびっしり一面に生えている。その突起物は空調の風を受けてゆらゆらと揺れていた。ひょっとしたら蛍光灯は外されたわけではなく、あの柔らかい突起の群れに埋もれているだけなのかもしれない。どこかが決定的に乱れている、その正体がこれだった。天井に輪郭が無かったのだ。天井全体がざわり、ざわりと揺れているのだった。そして天井から生えた一面の毛は薄ぼんやりとして青白い輝きを発して室内を照らしている。暗いのに部屋の様子が目に見えたのは、この光る毛のせいだ。


 なんだろう、これは。


 グラスファイバーってやつかな。


 いや、そんなはずはない。


 僕はすぐに自分の間抜けな考えを打ち消した。


「ゆうちゃん、これは、」


 一体何?


 そう尋ねようと振り返った僕は、思わず、ひっ、と小さく悲鳴のような声を上げて息を呑んだ。彼女の目はまるで猫のそれのように暗闇の中に光っていたのだ。青白い草の明かりを受けて。


 けれどそれは一瞬のことで、ゆうちゃんが一度目を閉じ、再び開いたときにはいつもの人間の目に戻っていた。


 錯覚だろうか、今のは。


 ただ光の反射によるものなのかな。


 いや、そんなはずはない。


「これはうちの研究所で作った、新しいシステムの照明」


「何かの植物、とか?」


 僕は不安を打ち消すようにつとめて明るい声を出した。


「いや、生物じゃないの。あくまで新しい形状の照明」


「どうしてこんな形に」


「だって可愛いじゃない」


 僕はやっぱりゆうちゃんの趣味が分からない。困惑する僕の手を引いて彼女は、椅子に座るよう促した。勧められるまま椅子に着いた僕の肩にゆうちゃんは手を置いてきた。


「私は大学を出てからここに勤めるまで、何の手がかりもなしに自分の部屋に閉じこもっていたの。アルバイトも辞めて。きっと何とかなるだろうと思っていた昔の自分がバカみたいに思えて情けなかった。麻美みたいに適当に遊びまくってる人がどうしてちゃんと職につけて、私はこんなことになったんだろう、って。それでも私は、何とかこうして働いていられる。けど、心配だったのはひろくんの事」


「僕?」


「だって子供の頃から、私と一緒に麻美に振り回されて、回りから損な役目を押し付けられていたでしょ? なんだか、ほとんど同じ人生を送っている、自分の分身みたいに思ってたの。男版の私、っていうのかな。親近感があって、でも、それが逆に同属嫌悪にもなってもいて、ちょっと冷たく当たっちゃったりして」


 僕はゆうちゃんの話す言葉を聞いていて、あーちゃんについて話すときだけ、彼女が何か忌まわしい単語でも口にするかのように声を歪めていることに気付いた。


「ひろくんは、どう。自分が消えてしまえばいいって、自分なんて死んでしまったほうがいいって、思ったことはない? けれど本当は死にたくなくて、楽しく生きていたくて、だけどそれは出来なくて、明日が来ることさえ不安になって、そのまた先の日なんて想像も付かなくて、ただ先の見えない不透明な明日が来ることだけが確かな事実として分かっていて。だから、消えてしまいたい、いなくなってしまいたい、姿形を変えてまったくの別人になれたらいいって、それか本当に死んで、意識だけが幽霊として存在し続けたらいいのにって、ねえ、少しでも思ったことはない?」


 ぐっと、ゆうちゃんは僕に体を預ける。彼女の腕が僕の胸元で組まれて、僕はゆうちゃんに背後から抱きつかれた格好だ。


「全てを投げ出して自分自身さえ投げ捨てられたらって、思わない?」


 ゆうちゃんの言葉がやけに重たく感じた。僕にはいくつも捨てたい現実がある。借金の返済に怯える毎日や、情けなくて頼りない自分自身。そうだ、時が幼い記憶の日々まで遡り、永遠に明日が訪れないまま同じ日を繰り返していたら、なんて幸せだろう。どうせ不透明で真っ暗な明日を手探りで進むくらいなら、いっそのこと、明日など来ない日を、先の事なんて考えずに済むような日々を送りたい。


「分かるよ」


 僕はゆうちゃんの手を握ってみた。彼女も握り返してくれた。


「僕はよく猫になりたいって思ってた。野良猫みたいにシビアな世界じゃない、飼い猫でいいんだ」


 ゆうちゃんが僕の背後で笑ったような気がした。


 ただ、その時なぜか僕は、ゆうちゃんに嘲笑されたような嫌な予感がして、振り返ろうとした。けれどゆうちゃんは僕の体にしっかりと抱きついていて、彼女の表情を知ることはできなかった。


「誰かに頼って暮らしたいの?」


「うん」


「飼い犬に、なりたい?」


「ああ」


「麻美にそう言ったこと、ある?」


「はっきりとは言わなかったけど一度だけ、なんていうのかな、それっぽいニュアンスは伝えてみたよ」


「なんて言われた?」


「情けないってさ」僕は自嘲気味に笑いながら言った。「プライド持ちなさいって言われたよ。持てるわけないのに」


「持てる者の持たざる者の苦悩を無視した余裕な態度ってやつでしょ。私、本当に麻美の奴が大嫌い」


 え?


 僕達三人は友達だったはずだ。


 それなのに、ゆうちゃんは今なんて言った?


「麻美は自信の塊みたいな人間だもの。私達二人はきっと麻美の奴に、長い時間かけて誇りや自信を奪われていったの。私達のことを麻美はいつも従えて、私達に命令して、私達はあいつに屈服していた」


 僕の手を握る彼女の小さな手が震えていた。


「私、麻美が大嫌いだった。お節介で図々しくて目立ちたがり屋で人をこき使って」


 あーちゃんが僕に言っていた言葉を思い出した。私が面倒見てあげるから。確かにあーちゃんには世話好きなところがある。だからこそ養護教諭になったんだろう。僕はそれをあーちゃんの美点だと信じていた。優しくて頼りがいがあって。けれどゆうちゃんは僕とまったく違う捉え方をしている。


「あいつの世話好きは、結局、自分自身の欲望なの。そうに決まってる。『こんなに人に尽くしてる自分を見ればきっとみんなも自分のことを好いてくれるだろう』ってね。弱い人や脱落した屑を労わってやる優越感を得て幸せだって思ってたに決まってる。わかるでしょう。脱落者、屑、弱者、それが私達だよ」


 ゆうちゃんの声が、まるで別人の声に聞こえた。恨みに染まった心を抱く、ゆうちゃんではない、全く別の人間の声のようだった。


「私達はあいつの踏み台にされたの。ひろくんも、そう思うでしょ」


 僕は否定したかった。


 違う。そうじゃない。そんなことはない。


 けれど、出来なかった。


「でも私達みたいな屑でも、屑なりに、幸せになれる方法はある」


「どんな?」


「一緒に暮らそうよ」


「え?」


「私達で一緒に暮らそう。今度は私達が麻美を踏み付けてやる。そのためには力を合わせなきゃ。だから、一緒に暮らそう」


「でも、」


「前にひろくん、私のことを好きだと言ってくれたじゃない。まだ私のこと、好きでいてくれてるの?」


 僕は答えられない。


「前に、結婚しようと言ってくれたよね」


「あ、」


「一緒に幸せになりたいと思わない?」


 搾り出すように一言だけ声を漏らしたが、やはり、言葉にはなっていなかった。自分の臆病さをこんなにも恨んだことは無かった。


 するとゆうちゃんは僕の頬をそっと撫でた。まるで昨日、ジョンにしていたように、優しく。


「まだ私のことが好きで、これからも私と一緒にいてくれるのなら、頷いて」


 僕は目を閉じて、一度大きく頷いた。ゆうちゃんがはっと息を吸うのが聞こえた。


「私と、どうしたい?」


「え、」


「私と、キスしたい? それとも私と、セックスしたい?」


 ゆうちゃんは何を言っているんだ。


 僕は何も答えず、かと言って頷くことも出来ずにただうろたえて、けれど彼女から離れることも出来ずにただ口をぱくぱくと開けて声にならない呻き声を上げ続けていた。


「たとえどんなことが起きても、私と一緒にいたい?」


「いたい」


 ようやく僕は僅かな声を絞り出すことが出来た。すると、その一言が出たことで、これまで喉に詰まっていた言葉がゆっくりと、まるで粘性があって喉にへばり付いているかのように、ゆっくりと、口から洩れて出てきた。


「僕は、君と一緒にいたいんだ」


 ゆうちゃんはさらに問いかけ続ける。


「どんなことがあっても一緒にいたい?」


「ああ」


「自分の身に何が起きても?」


「何があっても、一緒にいたい。死んでも傍に居たい」


「それで、私と一緒にいて、何をしたい?」


「キスを」


 そう言った瞬間、僕の首筋に何かがチクッと刺さった。

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