第2話

 故郷に帰るのは、六年ぶりだった。駅自体が改装されていて、以前はなかったバリアフリーのトイレやエレベーターまで設置してある。改札口は一階と二階にそれぞれあって、二階の改札口からまっすぐ、隣接したビルへと渡り廊下が続いていた。このビルには全国チェーンのスーパーが入っていて、よく見るとすでに所々の壁が汚れている。店内のお客さん達も、もうすっかり通い慣れたと言った表情だ。きっとオープン当初は人でごった返していたのだろう。その代わり、いつも学校帰りにあーちゃんやゆうちゃんと一緒に買い食いしていたコロッケ屋さんは無くなっていた。それだけではない。馴染みの店はあらかた閉じて、かつての商店街はすっかり寂れたゴーストタウンと化している。ただどこまでも透き通るように青い空だけが変わらずにあった。


 僕は三日間、こちらに滞在してから東京に帰るつもりだ。実家には顔を見せずらい事情があるので、駅から近い安宿に泊まるつもりだった。こういうつまらないところで見栄を張ってしまうからきっとお金が次々になくなるのだろう。


 そんなシャッター商店街のど真ん中で奇跡的に生き残っていた喫茶店で、ゆうちゃんは待っていた。紺のスーツに質素なブラウス。いかにも真面目なOL風の格好だったが、愛想の無さは相変わらずで、僕の姿を見ても眉をちょっと動かしただけだった。今でも笑えば、可愛い笑窪が浮かぶのだろうか。僕は彼女の笑顔を見たいと思った。


 僕が、ゆうちゃん、と呼びかけると、彼女はちょっと驚いたようだった。まだ昔のあだ名で呼ばれるとは思っていなかったらしい。


 何か世間話でもして打ち解けられたら、と思ってここに来るまでいろいろ話題を考えてきたのだけれど、いざ実際にゆうちゃんと会ってみると、緊張して何も言い出せない。あーちゃんの時よりも激しく、心臓が脈打っているのがわかる。


 ゆうちゃんは淡々と事務的に、僕に実験の説明をした。僕はゆうちゃんの顔の真ん中、つんと尖った細い顎の数センチ上にある、小さな赤い唇だけをじっと見ていた。ルージュを塗っている。いつからだろう。僕はゆうちゃんが化粧をした顔を見たことが無い。高校三年生の頃には毎日すっぴんだったし、大学生になってからも何度か顔を合わせてはいたけれど、少なくとも、こんなにはっきりと化粧だと分かるほどのメイクはしていなかったと思う。今のゆうちゃんも、決して派手な化粧というわけではない。むしろ渋谷や新宿を歩いていたらあまりにも普通すぎて人ごみの中に埋もれてしまうような地味な化粧だった。けれど、確かに化粧をしていると分かる程度のものではあった。


 ふと僕はあーちゃんのことを思い出した。あーちゃんも、養護教諭として働き出すまではあちこちで遊んでいて、二ヶ月に一度くらいのペースで連れている男を替えていたのだ。同時に数人と付き合っていたこともある。それをあーちゃんは事も無げに話していたし、僕もあーちゃんが誰と付き合おうが構わないと思って平然と話を聞いていられたのだが、まさか、ゆうちゃんに限ってそんなことは無いだろうと、勝手に信じ込んでいた。


 けれどゆうちゃんはもう二十六歳の立派な大人の女性なのだ。


 僕はこれまで、不思議で身勝手なことだけれど、待ち合わせの喫茶店で、髪を後ろでまとめて制服を着た、高校生のゆうちゃんが僕のことを待っていてくれるような、そんな気がしていたのだ。大学生のゆうちゃんの姿を見ているはずなのに、僕の中に生き続けていたゆうちゃんは故郷で一緒に遊んでいた頃の姿のままだった。


 ひょっとしたらあの唇に、誰かが、男が吸い付いていたのかもしれない。お互いに抱き合って、とても人前ではできないような淫らな口付けも。それ以上のことも。背中の毛が逆立つような悪寒に襲われた僕は、思わず身震いした。


 まだ僕らが幼稚園児だった頃、ゆうちゃんと僕は両想いだった。ゆうちゃんはその頃から素っ気無かったけれど、今よりもよく笑っていた。そして僕も、今よりも屈託無くお喋りを楽しめていた。


 僕とゆうちゃんはある日、田んぼの真ん中を貫く一本道を二人で並んで歩いていた。と、僕が足を滑らして側溝に滑り落ちてしまって、ゆうちゃんが泣きながら僕を引っ張りあげてくれた後、彼女は僕に抱きついて、幼い、本当に幼い、一瞬のキスをしてくれた。その記憶は今でも鮮明に思い出せる。


 その唇を他の誰かに奪われたなんて思いたくはなかった。これも勝手な、しかも身の程知らずな願望だ。ゆうちゃんは僕のものじゃない。誰かのものでもない。彼女は、彼女。それなのに僕は彼女を自分ひとりのものにしたいという独占欲にかられている。


 たかが赤いルージュを見ただけで、僕はここに来たことを後悔し始めていた。ゆうちゃんに再会できると喜んで、あの頃に戻れると勘違いして、現実にはもう存在しなくなったかつてのゆうちゃんの姿ばかり追い求めていたのだ。


「去年の夏にね」


 ゆうちゃんはふと、これまでの事務的で冷淡な言葉遣いを捨てた。僕は思わず、それまで自然と俯いていた顔を上げて彼女の顔をまっすぐ見た。


「コロッケ屋さんのおじさんが亡くなったの。よく三人で一緒に食べたよね、あそこのコロッケ」


「商店街の?」


「そう。あの商店街も、もうおしまいかな」


 町の姿が変わってゆくのは当然のことなのに、何故だか物悲しい。どうしてだろう、子供の頃は、時間が経てば世界はだんだん良くなっていくと信じていたのに。大人になれば世界はどんどん広がって、夢に見たことが実現して、ただ前を向いてまっすぐに、みんなと一緒に先に進んでいけるはずだと信じていたのに。いつからだろう、子供の頃の思い出が、時間と言う到底越えられない壁の向こう側に閉ざされた、夢に見ることも出来ない存在になったのは。ただ前を向いているだけでは、みんなと一緒にいられないと気付いてしまった。


 もうおしまいかな。


 その言葉が自分自身に向けられたように思えて仕方がない。


「ねえ、ひろくん」


 ゆうちゃんが僕に昔のあだ名で呼びかけた。


「私ね、コロッケ屋さんのおじさんから、美味しいコロッケの作り方を教えてもらったの。良かったら食べに来ない? 私の家に」


「ゆうちゃんの家?」


「実家じゃなくて、今私が一人で住んでるアパートの方だけどね。別に深い意味はないんだけど、ほら、昔はよく麻美の家に集まってお菓子食べてたでしょ、あんな感じで」


 麻美というのはあーちゃんの名前だ。


 僕はまた、ひょっとしたら過去に戻れるかもしれない、と考え始めていた。到底無理だと頭では分かっているのに、あの頃に帰りたい。戻りたい。時があの頃まで遡り、永遠に繰り返して欲しい。僕はこの気持ちを抑えられない。




 ゆうちゃんの住むアパートは『奥村特殊科学研究所』の目と鼻の先にあった。勤め先から徒歩三分。なるほど、田舎に帰ってきたのに実家で暮らさない理由が分かった気がする。


 女の人の部屋に入ったのは、中学生の頃にあーちゃんの部屋へ遊びに行ったとき以来だ。


 僕が部屋に入るなり、一匹の犬が吠え掛かってきた。悲鳴を上げそうになった僕は、ゆうちゃんの前だから、という見栄から精一杯の虚勢を張って、なんとか言葉を飲み込んだ。ゆうちゃんが叱り付けると、その犬はおとなしくその場にうずくまって、尻尾を振り始めた。


「こいつはジョンって言うの。可愛いでしょ」


「びっくりしたよ」


「ほら、ひろくんも撫でてあげなよ」


「僕は遠慮しておくよ」


 ゆうちゃんはジョンの頭を撫でてやる。そして尻尾を振って甘えるジョンの首に両腕を回すと、何度か軽いキスをした。それを見て僕の胸が、ずきずきと痛んだ。少しの間だけでも犬になりたいと半ば本気で思ったけれど、あれはただのコミュニケーションなんだと自分に言い聞かせて、理不尽な嫉妬心を落ち着かせた。


「私の勤め先の……つまり奥村研究所の所長さんの犬なんだけどね。しばらく前から私がここで飼うことになったの。所長の家はここから遠くて、しかもほとんど研究所に篭りっきりで滅多に家に帰らないから、自分じゃあこの子の面倒を見れないって困ってたから」


 ゆうちゃんは普段ぶっきらぼうだけど、実際はとても優しい子なのだ。それに動物好きでもある。


 リビングで待っているよう僕に言ってから、ゆうちゃんはキッチンに入ってコロッケを作り出した。料理してるときに話しかけられると失敗するから、とゆうちゃんが言うので僕はしばらく黙って、ゆうちゃんの部屋を眺めていた。内装のほとんどは白と木目調の家具で統一されている。質素だが貧乏臭くないおしゃれな部屋だ。暖かみのある色をしているのはソファとベッドとクッションで、カーテンは青い薄手のレース、特に目を引くのが本棚で、文庫本がぎっしり詰まっている。ゆうちゃんは文系で読書好きだった。そんなゆうちゃんがどうして『科学研究所』に勤めることになったのだろう。僕は不思議に思った。


 どうやらゆうちゃんが読んでいたらしい、所々に付箋の貼ってある本を見つけた。タイトルは、『山海経校注』。どうやら中国の本らしいが、どうもゆうちゃんが読むような本とは思えなかった。ためしにたくさんある付箋の中から一つを選んで、貼ってあるページを開いてみた。難しい、読めない文字が書いてある。獣偏に頼という文字の旧字体。一体何について書かれているのか見当も付かない。


「それはダツと読むの」


 いつの間にか僕の背後に立っていたゆうちゃんが言った。僕は咄嗟に、勝手に本を読んだことを謝ったが、ゆうちゃんは大して気に留めてはいないようだ。


「山海経は古代中国の地理と博物学の本なの。いろいろな伝説上の動物について書かれていて面白くてね。最近、読んでるの。ひろくんも聞いたことないかな、中国の神々。西王母とか祝融って知らない?」


「祝融は知ってるよ、三国志に出てきてたよね」


「三国志に出てくる祝融夫人は、山海経に書かれた祝融という火神の末裔とされている人物なの」


「そう言えばそんなことも書いてあったな」


「山海経によると祝融は獣面人身の姿をした火の神で、南を司るとされている神様」


「へえ」


「山海経には他にもいろいろな珍獣について書かれていてね、気に入った動物にしるしを付けてるの」


「この、ダツって言うのはどんな動物なのかな」


「山海経には、『その形は怒った犬のようで鱗があり、その毛は豕の鬣のよう』とあるの。ようするに、魚の鱗と豚のたてがみを持った犬ね」


「それって可愛いのかな」


「たぶん、カワウソのことだと思うけどね。もしも本当に鱗のある犬がいたら可愛いとおもうな。私、ダツを飼いたいの」


 ちょっとゆうちゃんの趣味が分からなくなった。


「それより、コロッケできたよ」


 ゆうちゃんはお皿に四つもコロッケを載せて、僕の前に差し出した。箸が無い。その代わり、紙ナプキンが置かれている。


「手づかみで食べるほうが、雰囲気が出るでしょ」


 ゆうちゃんに勧められるまま、熱々のコロッケを手にとって一口かじると、懐かしい、あの頃と同じ味がした。そのコロッケを食べながら僕は、どうして今の会社に勤めることになったのかを聞いてみたが、ゆうちゃんはあいまいな返事でお茶を濁すばかりだった。だが、沈黙がしばらく続いた後に、


「他に当ても無かったしね」


 と呟いた。


「親の仕送りに頼ってバイト生活続けるわけにもいかなかったから。所長とは昔からの知り合いなの。私のお父さんと同級生だった人でね。信頼できる人だったし、せっかく雇ってくれるって言うから、これでいいやと思って今の研究所に勤めることを決めたの」


「結婚は」


 僕は思わずそう聞いていた。


「考えたことないな。前にも言ったでしょ、私、あんまり興味ないの」


 ゆうちゃんは僕から不意に視線をそらして床のほうを見ながら、


「麻美みたいに、遊びだと割り切って男と付き合えるほど器用じゃないしね」


 と言った。その時ゆうちゃんは、人を嘲るような笑みを浮かべていた。

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