二度目のファーストキス

夏山繁人

第1話


 子供の頃から姉のように慕っているあーちゃんが、仕事でミスをしたと言って珍しくしょげている。さっきから僕は何とか励ましてあげようと思っているのだが、口を開くと、ああ、あ、と嗚咽のような声しか、いや、音しか出てこない。意味など何もない、ただの呻きだ。僕はもともと人見知りが激しく赤面症で、面と向かって誰かと話そうと口を開いても言葉が出てこないことが多い。あーちゃんとは長い付き合いだから、僕が何か言おうとして言えていないことに気が付いてくれたようだ。無理に笑顔を作って、ありがとう、と言ってくれる。僕が励ましてあげなくてはいけないのに、逆に気を遣ってもらった形になってしまった。僕は思わず、ごめん、と頭を下げた。こういう、謝る言葉ばかりが流暢に出てくる自分が情けない。


「いや、愚痴聞いてもらえるだけでいいの。私って、職場でもあんまり友達いないから」


「あーちゃん、友達、いないの?」


「いないわけじゃないんだけど、少ないのよね。周りにいる連中はみんなマニュアル教師ばっかりで、気が合う仲間がいないの」


「保健室の先生も大変なんだね」


「そう。保健室の先生も大変なんです。それより、弘樹のほうはどうなのよ。仕事はちゃんと続いてるの?」


 僕は首を横に振った。あーちゃんは苦笑いを浮かべる。


「無理しなくていいけど、借金だけはしちゃだめよ」


 僕は、こくこく、と小刻みに頷いた。胸が、ずきずき、と冷たく痛んだ。


「もし生活に困ったら、私が面倒見てあげるからね」


「え?」


「少なくとも由紀より私のほうが収入は安定してるから。あんた一人を住まわせるくらいできるわよ」


 由紀、というのは僕達の幼馴染の女性だ。僕と、あーちゃんと、由紀……僕はゆうちゃんと呼んでいる……の三人は小学校で出会い、高校を卒業する

まで一緒だった。


「ゆうちゃんは、いま、何してるのかな?」


「私も詳しくは知らないけど、先月田舎に帰ったみたいよ。あっちで就職先を見つけたんだって」


「へえ……そうなんだ」


 僕にはどうして教えてくれなかったんだろう。


「弘樹、まだ由紀のこと好きなの?」


 僕はまた、こくん、と頷いた。ゆうちゃんの名前が出てきただけで胸が高鳴り、言葉は一切出てこなくなってしまった。


「純情だねぇ」


 あーちゃんはからかうように言ったけれど、決してバカにしているわけではないのだと、僕には分かっていた。あーちゃんはそういう人じゃない。僕がゆうちゃんへ寄せる思いが真剣なものだと、絶対に分かってくれているはずだ。何しろ僕達は二十年前から、親友なんだから。




 家に戻ると郵便受けに、借金返済の督促状が溜まっていた。まだ高い金額を借りたわけではないけれど、仕事を失ってからは返済が滞っている。家賃のほうは今月分まで前払いで渡してあるので、これまでどうにか暮らしていられたけれど、来月以降はどうやって暮らしていけばいいのか、何の目処も立っていない。


 あーちゃんに相談したかったのはこのことだった。どうしてもお金が足りない。40万円の借金を立て替えてもらえないかとお願いしたかったのに、言い出せないうちにあーちゃんから愚痴を聞かされ、うやむやのうちに立て替えをお願いする雰囲気ではなくなってしまった。


 何か、一人で出来て、何の資格も技能もいらない、すぐにお金の手に入る、力を使わなくてもいい仕事はないだろうか、といろいろな情報誌を探しているのだが、そんなに都合の良い仕事がそう簡単に見つかるはずもなく、結局、僕は毎日この部屋で鬱々と一日が終わるのを待っている。


 郵便受けの封書を一つ一つ開いていく。ほとんどは金融業者からの催促や、興味のないダイレクトメールだったが、その中に一つ、『奥村特殊科学研究所』という見覚えのない送り主からの封書を見つけた。開いて中を見ると、何かの実験の被験者を捜しているというチラシが入っていた。ただのチラシをわざわざ送りつけてくるなんて珍しい、が、ただ珍しいというだけで、得体の知れない実験に協力するつもりなど起きない。僕はそのチラシを丸めて、ゴミ箱に捨てた。宛先のシールを破いて封筒も捨てようとしたとき、中からもう一枚紙が落ちてきた。何気なく拾い上げて、思わず、うわっ、と声を上げてしまった。見慣れた手書きの文字でびっしりと、なぜ僕にこのチラシを送ってきたのかが書いてある。末尾に書かれた差出人の名前は、須藤由紀。


 ゆうちゃんだ。


 僕は慌ててゴミ箱から丸めたチラシを拾って、丁寧に頭から読み直してみた。人間の視覚認識に関する実験で、被験者はアルバイト代として時給一八〇〇円をもらえるそうだ。特に後遺症や人体への影響が出るような内容ではなく、脳波の測定をしながら簡単なTVゲームのようなものをやってもらうだけ、とある。民放の情報バラエティ番組でやっているような実験だろうか。研究の内容や方法についての説明もあるが、専門的な言葉が多くてちゃんと頭に入ってこない。ただ、チラシのいちばん下に書かれた問い合わせ先の名前、「須藤由紀」という文字を何度も何度も読み返した。住所は、僕の田舎の方。実家から二つ隣の町だから、あーちゃんの言った「田舎に帰ったみたい」という言葉とも合致する。


 間違いない。ゆうちゃんだ。


 ゆうちゃんから手紙が来たんだ。




「理由の由に、世紀の紀で、由紀です」


 子供の頃からゆうちゃんはいつもそうやって自己紹介をしていた。だから本当はユキと発音するのに、僕とあーちゃんは彼女のことをユウちゃんと呼んでいた。


 ゆうちゃんは笑うと笑窪が浮かんでとても可愛いのに、滅多に笑うことがなかった。決して無表情というわけでもなければ、怒っているわけでもない。ただ、ぼうっと遠くを眺めて心がどこかへ抜け出てしまったような表情をしていることが多かった。僕とゆうちゃんは、押しの強いあーちゃんにぐいぐいと引っ張られてあちこち遊びまわることが多かった。だから僕は、あーちゃんのことを姉のように思うことはあったけれど、異性として意識することは無く、むしろ僕と一緒にあーちゃんにくっついて行ったり振り回されたりするゆうちゃんに、同類意識にもにた好意を寄せていた。時々、あーちゃんからあまりに強引なことを言われると、二人一緒に反抗して、そっと陰口を叩いたりもした。それでも僕ら三人の関係が徹底的に壊れてしまう事はなく、つまりは一時の叛乱に過ぎない。いつの間にかまた三人で遊んでいた。


 高校三年生になって初めて僕はゆうちゃんに自分の思いを伝えた。卒業式の前の日だった。僕ら三人は別々の道を進むが、同じ東京と言う町に住むことが決まっていた。あわよくば、僕はゆうちゃんと二人で暮らしたかった。あーちゃんには申し訳ないけれど少し距離を置いてもらって、知人の居ない、都会の灰色に染まる空の下で、小さな部屋に二人きりで暮らしたい。そんな空想を、妄想を、幻想を抱いていた。


 けれどゆうちゃんの返事は素っ気無く、そういう気分じゃない、とだけ答えた。僕と異性としての付き合いをするなんて考えてもいなかったのだという。僕の幻想はあえなく散った。僕らはひとりひとりばらばらに、東京の、案外にも青く澄んでいた空の下で、別々の生活を送ることになった。初めのうちは、毎日とはいかないまでも月に数度は顔を会わせていたけれど、いつしかみんなで会う回数も減り、やがて僕はひとりぼっちになってしまった。大学では、新しい友達はできなかった。それでもあーちゃんは時々顔を見せに来てくれたけれど、ゆうちゃんからの連絡はぱったりと途絶えてしまった。メールを送ろうにも、もし返事が来なかったらどうしようと、そんなことばかり考えてしまって恐怖にうろたえ、大学在学中の四年間、それどころか卒業後も、僕のほうからゆうちゃんに連絡を取ることは一度もなかったのだ。僕らは結ばれず、二度と再会することはないだろうと諦めていた。


 ゆうちゃん直筆の手紙には、彼女が『奥村特殊科学研究所』という所に勤めていること、その研究所で行う実験の被験者が集まらずに困っていること、久しぶりに会いたいので、差し支えなければ帰郷がてら協力してほしいということが丁寧に書かれていた。


 もちろん断る理由はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る