1996年 錯視艶夢 拾

 ▪️

 ────目を開けると私は、自分の部屋に居た。


 いや。「居る」とは少し言葉が違う。

 この部屋を俯瞰で見ている観測者(わたし)が今起こされたと言えばいいのか。

 もう慣れたこの浮いているのか、堕ちているのかよく分からない妙な感覚。

 もがいても、そこにピン留めされたかのように移動することは出来ない。


  ここはあの夢だ。


 ───あの時、もう少し早く走り出していれば。

 私は深い溜息を漏らす。


 あの刹那、私は皋に見せられた。この目で捉えてしまった、あの暗示。


「あの阿呆。あそこまで出来るやつとは聞かされてないぞ。」


 内心で舌を打つ。空間にまで、呪術を提示出来るなど雫から情報に無かった。

 あんなもの、常人が使っていい代物ではない。一度意味を発現させるにも身体が悲鳴をあげるだろうに、自分で首を絞めているようなものだ。


 催眠術師として素人に近いあいつが何故そんな事が出来る────?





 ────ガチャリ。

 扉の開く音と共に智大が、私の部屋に入ってきた。

 当たり前だが、私には気づく訳もない。


 智大は何も言わずに靴を脱いで入っていく。顔は、酷くやつれていて生気がない。私は、そんな事も知らず智大に、何かを話しかけているようだ。口喧嘩に発展するまであと少しだろう。



 これで何度目だろうか、同じシーンばかりでもう見飽きてしまったその光景。試してもみたが、私がこの光景(ムービー)に干渉する事は出来ない。何度も同じ映像が流れ続け、全て同じ結果に辿り着く。


「───はっきり言うよ。君といても何も感じないんだ。さよなら。」

 夢の中の私は、唖然とした顔を見せた。何も言えなくなった私を横目に、智大は踵を返して玄関の扉へと進んでいく。

「.....待って!」

 夢の中の私は彼を呼び止め、肩を掴むが、智大に強く突き飛ばされてしまう。

 飛ばされた先は椅子の角。鈍い音と共に私の頭から紅色が滴り落ちる。


「だったら.....!」


 彼が、靴を履き終える前に、私がキッチンに近づき、ナイフを持つ。もう慣れたことなので、私は驚きすらしない。



 私は、ナイフを突き出し半ば叫びながら智大の背中へと飛んだ。

 憎悪に乗せたその一刺しは、彼を殺すのには到底容易い。智大が、背中から紅い血を垂らし虚しく崩れ落ちていく。


「.....ほんと、出来の悪い芝居。」

 私は俯き悪態を吐き捨てる。


 ────あぁ、始まってしまう。

 艶夢という、リアルで醜悪な悪夢(ものがたり)が。



 ▪️

 ざくざく。肉が裂ける音、骨が削れる音。‬

 私はマンションの一室にいた。‬

 窓の外では小雨が降り、淡く窓を湿らせる。

 私の目の前には知っている人。



 腹の当たりから臓物を漏らすそれはもうヒトと呼べるものではない。‬

 床を波紋状に広がる紅い液体が足を濡らし、‬

 鼻に粘つく匂いが纒わり付く。‬

 血を酷く撒き散らすそれは大量の出血で生命活動を終えようとしていた。‬



 ────段々とそれは血が抜け青白くなり動かなくなってしまった。‬


 まるでぜんまいが緩んだブリキのおもちゃ。それを見ても私は何の感情も無くただ傍観していた。私は言葉すらも発さない。‬


 ...放っておけばなにも成すこともなく死んでしまうだろう。...だが、私はソレを恨んでいる。痛めつけて殺さなくては私が生きていけない。‬

 私はソレの背中にナイフを突き刺した。‬


「れ.....い.....。」


 空気の萎んだ風船が潰れていく。

 ソレは私に向けて最期の言葉を残した────。




 ────ざくざく。肉が裂ける音、骨が削れる音。‬


「これは.....。」

 信じられないことが起こった。普段ならここで終わる筈なのに今まで観たシーンが逆再生されるように戻っていく。智大の腹から漏れ出た血や臓物が、持ち主に戻りゆく。


 ───そしてまた再生されたのだ。音楽プレイヤーのリピートのように。

「皋の奴、私を本気で堕とすつもりだな。」


 繰り返す事が強い呪いとなる。昔雫が言っていたのを思い出した。


 これでは、もう私が起きた後には手遅れかもしれない.....。額にじとりと汗が滲む。

 もがいてみても、現実の私が起きる気配は無い。

 段々と呼吸が荒くなる。

 起きた時、智大が死んでいたなら。私はもう生きていられないだろうと。

 もう一度もがく。夢の中の私は彼をまた刺し続けている。私の魂がそれを錯覚する前に、この悪夢から抜け出さなければ...。


「起きてくれ.....。」

 情けない声で呟いた時であった。



 ────きろ────


 不意に、上から声がする。



 ────起きろ─────


 何処かで聞いたことのある声音。

 その声は、どこか魔的な力を持つ言葉であった。


 気づいて私は、そうかと笑ってみせる。


「雫────お前。」


 私は口元を歪める。覚醒する身体の感覚を取り戻しながら。


 ▪️


「...堕ちろ!」

 短く力のある呟き。それに相応するかのように。

 眼前に、薄い紙が発現する。それに印された羅列(のろい)は、私の精神を侵す術。


「.....これか。」


 私はソレを左手で掴み、引き剥がす。

 硬くはない。まるで薄い膜を触っているかの様。

 ソレはぶちぶちと音を出し、現実の紙の様にひらひらと舞い落ち消滅する。


「なんだ...その手は...?何故僕の術が効かない?」


 皋は、狼狽えて後退る。


「お前の手と同じだよ、皋。創り出す力があるのならその逆。破壊する力もなければこの世界は成り立たない。」


「...堕ちろ!」

 また。短い叫び。

 空間に浮かびあがる、文字の羅列(のろい)。

「...無駄。」

 私は、眼の前に出現する呪いを左手で握り潰す。


「私の左手は、干渉に特化し過ぎてお前じゃあ割に合わない。だから─────。」


 ひらひらと、薄い紙が空へ舞う。


「────仕舞いだ。エセ小説家。物語はいつか終わらなきゃいけないんだ。」


「.....巫山戯るな!」

 堕ちろ。その言葉だけが連呼される。

 だが、私の視界に現れるその呪いは両の目で捉えられ左手で可触化される。今の怜の前では全くの無力であった。



 数秒の攻防の後。

「はぁ...はぁ...。」

 皋の荒呼吸だけが聴こえる。皋の額には、大きな汗が張り付いていた。こいつはもう、立つことすらままなっていないだろう。


 彼が、最後の力を振り絞る様に唱える。


 「──────堕ち。」


「もうやめとけ、身を滅ぼすぞ。」

 怜が、近づいた時であった。


 皋が手を前に突き出す。それに応えるように怜の周りに薄いが張り巡らされた。

 そのひとつひとつが意味(のろい)を持ち、怜を取り囲む。


 私の眼(まなこ)がそれを見てしまう。

 私の頭が理解しなくても魂はそれを錯覚してしまう。私の身体の自由が奪われ、自分の右手が首を掴み絞める。


「.....。」

 怜は、それに身を任せ皋を見つめていた。

 おそらくこれが皋の最後の攻撃だろう。そんな事を思いながら。


 皋が、息を荒がれながら言葉を紡ぐ。

「はぁ.....はぁ.....終わりだ。れいぃぃ!」

 開いた手を力強く握った。


「阿呆。お前の手品は分かったって言ったろ」

 怜はこの場に不釣り合いなにやけ顔を見せる。

「催眠や呪いなんて、所詮視なければただの文字だろう。────────ならこんなもの...。」


 怜が、眼を閉じ左手の人差し指をを両の瞼に当てる。


 ぶちぶちと音を立て、怜は引き剥がした。

「要らない。」


 首を絞めていた右手の力が弱まる。

 怜の薄黒い眼が、皋を見据える。


 ▪️

「何故だ.....!」

 周りの呪術が使い手の動揺により消失する。

 催眠術が効かないのだ。僕の、文字の羅列(のろい)はちゃんと自害しろと命じたはずなのに.....!


 .....まさか。


 そして気づいた。目の前の彼女は何をしたのかを。


「あ...ぁ...ぉお前...!」


 ふらふらと近づく怜に首を掴まれ、床に叩きつけられる。満身創痍の皋では、それに抵抗するほどの力は残っていなかった。



 ───それよりも、今怜がした事に対して驚嘆していた。.....それは、普通の人間なら本来するはずが無い行動。狂気じみていて、こちらの気もおかしくなりそうな。



 皋は唇を震わせる。


「.....お前.....視覚を切り捨てたのか...!」


 怜は、聞いて口元を歪めた。


「へぇ...分かるんだ。凄いなお前。

 ......そうだ。当てた褒美に、今お前がどんな貌をしているか。当ててやるよ。」


 焦点の合わない眼(まなこ)が皋を捉える。


 彼女は静かに告げた。

「人の枠から外れた化物の貌だ。人殺し。」


「っ.....。」

 皋は怜の腕を爪で掻き毟るが、腕の力は弱まらない。皋は、首を絞められ気絶した。


 ▪️

 事の全てが終わり、深く深呼吸をする。

「さて...後は雫に...。」


 起き上がろうとした時、疲労からか立つことがままならない。今の時間は、午前三時過ぎ、普通なら寝ている時間だ。

「.........眠いな。」


 少し、欠伸をすると吐息のする方向へ進む。

「.....終わったぞ。」


「あ.....あぁそうみたいだね。」

 智大の声がして少し安心した。


「目はどうしたんだ?さっき視覚が何とか言ってたけど...。」


「あぁ...これ?」

 自分の目を指差す。

「また使い物にならなくなったけど、別に大丈夫だろう。雫に言えば何とかなる。」


 なんか心配だな、智大の情けない笑い声が聞こえた。情けない智大の声は続ける。


「.....皋は、殺したのか?」


「あぁ...いや違う.....危ないものだけを剥がしただけ。多分あいつは何も憶えてはいないだろう...」


 応える前に倒れ込んだ。智大が受け止めてくれて、遠のきそうな意識を何とか取り戻す。

 智大の身体の温もりが、冷えた私を温める。


「最近寝不足なんだ...寝させてくれ...」

「そう.....おやすみ。怜。」


 多分智大は変わらない笑顔を投げ掛けたんだと思う。私も何か言ってあげれば良かったんだろうけど、何故かこれが正解な気がして。

 ふん、懐で鼻で小さく笑うと私は瞼を閉じた。

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