1996年 錯視艶夢 玖

 ▪️

 ...きろ...。

 ...おきろ.....。


 .....起きろ.....。


 ─────起きろ。───────

 寝惚けた体に、女性の重い怒声。

 はっと目を開けると、冷えた床が頬を刺した。


 目を少しづつ開けると視界は低くほの暗さが辺りに散らばっていた。窓に雨が叩き付けられる音だけがあるこの空間に、僕の口から白い息が立ち上っていく。

(誰かの声がした様な気が...。)


 体中で反響する位の大きな声。あの張った声は雫さんの怒った時に似ていた気がする。よく賽の館で寝ていた時怒鳴られたっけ。


 ・・・・・それにしても頭痛が酷い。

 皋に後頭部を殴られた跡が腫れ上がり今はもう痣となっているだろうと、回らない頭で思考を巡らせる。

 後頭部を左手で抑えながら視線を上に向ける。

 雫さんは何処にいるのだろう。暗くて分かりづらいが此処は見た事がある部屋だと分かる。


 まさか「賽の館」だろうか...?

 少し疑問に思ったが、賽の館にしては狭くまるでアパートかマンションの様だ。



 だとすると、皋の自宅──────────



 ───────何故だ。

 男の声がする。

 小さく独り言の様な、そんな呟く声。

 有り得ない。その声は続ける。

 気づくと声の持ち主が、僕の目の前に近づいていた。


 歩く音もないそれは、まるで幽霊の類と思う程に気配が無い。顔には、闇が掛かり誰だか分からない。

「し...雫さん...?」

 僕は上に視線を向け訝しげに問い掛ける。


 声の持ち主は問いかけにその人影は後退り、驚いた様子を見せた。この状況が予想外ととれるその行動を見るに、この人影は雫さんではないと理解した。


「何故・・・何故お前が目醒めているんだ。」


 昏い空間に。皋の声が雫の様に滴り落ちた。


 ▪️


「北条 皋...。」

 強ばった身体を鼓舞し、立ち上がる。

 智大にとってこいつには大きな借りがあった。

 自宅へ調査に行った際、皋に背後から殴られたのだ。不意をつかれた智大は気絶し、そのままこの時まで眠っていた。


 だが、こんな男正面から立ち合えば簡単に押さえつけられる。皋の体は僕よりは小さく165センチの優男と言ったところ。蓮見刑事から、少し護身術位は教わってもらっている。大人とはいえ、こちらの方が有利だろう。


 握り拳に、淡く血管が浮き出る。


 ・・・・・だが、こちらの気迫にも皋は意に介さない。

 皋はこちらにナイフを向け極めて冷酷で無機質な言葉を放つ。


「予想外だが、まぁいい。こいつから殺そうとしたんだが、仕方ない・・・・・まずは君からだね。上堂 智大くん」


 智大は、来てみろ。と言い返したかったが皋の言葉に違和感を覚える。


 こいつ─────?

 その「発言」に智大は動揺を隠せない。

 他の人を巻き込んでいるのか───────?

「こいつ・・・?お前の他に誰かいるのか!?」


 荒く答える智大を滑稽とでも思ったか。皋は機械じみた笑いを見せる。

「全く。君の反応は本当に面白いな」

 そして・・・そっと背後を見せる為横に逸れた。

 皋の背後に目を凝らすと、そこに。


「何で・・・怜・・・」

 怜が、壁に背を預け座り込んでいた。



「君を助けに来たんだろうが、このザマだ。今頃、幾度も重なった夢の螺旋に閉じ込められているだろうね」


「夢...。お前がやはりそうだったのか。北条 皋!」

 皋は、堪えきれずにけらけら笑う。


「君は僕に殺される。だけどそれは怜くんの罪と成り、怜くんはその罪を背負って死んでいくのさ。あぁ、可哀想だ。君は、何も出来ずに死んでいく。『無意味』という言葉が相応しい最期じゃないか。」


 笑い顔の人形は口に手を当てて笑いをこらえた。

 皋が放ったその言葉。無意味。


 それは智大の怒りが身体を動かしたのには、余る言葉であった。


「お前・・・・・ふざけるなっ!」


 智大は踏み込み、走り出す。

 寸秒も経たずに。数メートルの距離が一気に詰められる。あまりに素早く皋も、驚くのが束の間であった。振りかぶった右手が皋の顔に吸い込まれていく。


 だが皋の言葉で拳が皋に触れることは叶わない。


「おっと、僕に触れることは許さない。僕の後ろには怜くんがいるんだよ。このか細い喉なんて、このナイフなら軽い手つきで切り開いちゃうから。」


 上がった腕を下ろし智大は、苦い顔を見せる。


 怜を危険に晒す事は出来ない、だが怜を起こすにも皋をどうにかしなければならなかった。


 雫さんには、皋は暗示の使い手と教えられたがまだその暗示の実体というものを見ていない。

 どうやって、暗示をかけさせるのか。

 僕はそういう話に疎い為、怜や雫さんに比べ殆ど知識がなかった。

 だからこそ、怜を何とかして起こさなければ。


 ─────ほんの数秒の硬直状態。


 笑い顔が、段々と呆れ顔へと変わる。

 何も動かない事に苛立っている。そう言っているような顔の皋は、智大にナイフを突きつけた。

「もういいだろ...。さて、だがまた君を艶夢に堕とす事は面倒だ。ならばだ。物語の結果(さいご)が君の死であるのなら、今ここで殺してしまった方が簡単。そう思うだろう?」


 皋は、智大の喉にナイフを突き当て口元だけを歪ませる。


 ひやりとした冷たい感覚が、僕に死を覚えさせた。


 皋は安心させるような、まるで暗示をかけるように甘く語った。

「さようなら。智大くん。醒めない夢に堕ちるがいい」


 死を覚悟した──────刹那。


「智大!避けろ!!」

 僕に聞こえてきたのは、怜の声だった。



 ▪️

 言われた通りに僕は左に倒れ込む。喉に触れていたナイフで喉の皮が切れる。


 体が落ちる時皋の顔を見た。


 ──────皋の笑い顔は醜く歪んでいた。

 聞くはずのない声が聞こえてきたからだ。


 皋が背後を見る前に、怜の左手が皋の右手甲に触れる。

「─────────!!!!」


 文字に表せない割れんばかりの声が、部屋中に響き渡り。彼の笑い顔───人形の貌が崩れていく。


 皋の右手は、手である器官の働きをしていない。

 ソレはピクピクと痙攣するだけのモノと化し、皋の機械じみた顔は感情を取り戻す。

「くそっ、片手だけか」


 舌打ちをすると怜は、左手を前に突き出した。

 何をしたのか分からなかったが、何かしらの攻撃をしたのだ。


 皋の目が僕達を捉える。

「何故・・・!何故お前までも!」


 声を荒らげる皋の声には憎みという感情があった。

 憎悪。躰の穴という穴から汁が滲み出る程の嫌悪感。皋は、それ程迄に僕達を憎んでいる。


「ふん。分からないのなら教えてやる。」

 だが、怜はその憎悪にも何も感じない。

 その言葉の羅列に意も介さない。

 怜の左手が、再び紅く燃え上がる。

「お前でさえ、『登場人物』だった。それだけの事だよ。北条 皋」

 怜の眼(まなこ)が紅く光り、彼女は皋へと走り出す。

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