1996年 錯視艶夢 捌
▪️
「こんばんは」
細い体に似合わない黒いコート。
部屋の奥にある椅子に座る男──
昏い部屋に溶ける北条 皋は腑抜けた挨拶をした。
物語の通りだね。皋は秀麗な顔を歪めて、薄気味悪い笑いを浮かべる。そのにやけ顔は、どこか機械じみていて、人形師の操り人形に近い。
賽の館で写真を見た時に感じた、あの雰囲気など微塵もなくなっている。
怜はそんな譫言を無視し部屋の奥へと進む。
その行動に皋は驚いた表情を見せた。
「おいおい、いきなりやる気か。良いのかな。お友達が死んでしまうぞ。.....いや、恋人...なのかな?」
恋人という言葉に怜の足は止まる。
「恋人...?」
ぼそりと呟く。
まるでゆっくりと背中を逆撫でされたような嫌悪感。皋が吐く不気味な韻は怜の魂を容易に激しく揺さぶった。
恐る恐る皋の足元を目をやると。
そこには黒い影があった。
.....それは人並みに大きい芋虫みたいなもので。
まるで人みたいな──────
「あぁ...本当に莫迦.....。」
ソレが分かった時、口から嘆息が漏れる。
─────そこにはうつ伏せに倒れる智大がいた。
「智大くんが私の家に来たんだ。事件の調査とか何やらで。本当...まんまと殺されに来たものじゃないか。...あぁ、今はまだ死んではいないよ、今はね」
ぐっと、握り拳に力が入る。
その怒りは、皋では無く智大に向けられていた。
昨日から行方が途絶えていた事を雫に知らされてから厭な予感はしていたんだ。
......雫から行くのを止められただろうに。だから、お前はいつもそうやって私の足を引っ張るんだ。
内心で舌を打つ。
窓は、まるで私の心のように淡い雨を映していた。
▪️
少しの沈黙の後。皋が重い口を開く。
「...少し無駄話でもしよう。まだ、この物語の時間にはまだ早いからね。」
「君の事も少し教えて欲しいし。」
さてと。皋は椅子から腰を上げると、怜の数メートル先に佇み目の前の少女を見据える。
観察する様に、まるで怜が何かの被験体のハムスターみたいな、無垢で深い黒色の眼が捉えている。
「気持ち悪い...。何なんだお前。」
「まだ君とは殺し合う気にはなれないんだ。ごめんね。」
常識の範疇から外れているその行動と言動。
怜は、皋の動きに目を逸らさずチャンスを伺っていた。干渉の呪いが溢れ出て、左手がぼうと紅く燃えている様に光っていた。
「じゃあまずは、これから起こる事でも語ろうか。」
明るい口調の皋は、淡々と言葉を紡いでいく。
「僕が書いた智大くんの死に方はね、君との口喧嘩から始まるんだ。
...まず、君が愛していた智大くんは、とある女性と恋に落ちてしまう。日が経つにつれ自分との時間が短くなった事に気づいた君は、彼にこう問うんだ。
『私に隠している事あるでしょ』
ってね、そこからが本番さ。
『この際だから言うよ、...君とはもう付き合い切れない。君は僕に本当の自分を見せずに過ごしてきた事が分かってきたんだ。
もう君と喋っていても何も感じられない。』
そう言って、部屋を立ち去るんだ。
それを聞いた君は絶望する。
怒りとも憎しみとも取れるその感情は、行動へと変化した。
君はキッチンナイフで智大くんを背後からズドン。
血も涙もない、その一刺しは彼を絶命させるには容易いものだった...。
君は.....恨みの末に殺人を犯してしまうのさ。」
満足したのか、皋は言葉を止める。
夢心地に浸ったその顔は狂っている様だった。
「なんて───売れない小説家が考えそうな物語。」
怜の苛立ちが、棘のある言葉を漏らす。
我慢出来なかったからでは無い、これは正真正銘「紫堂 怜」の言葉だった。
何か許せないモノがこの男にはあったのだ。
それがうまく効いたのか。彼の機械じみたにやけ顔が曇る。
怜が吐いた「侮蔑」は彼にとっては「一種の破滅」であったらしい。
明るかった顔は消え、憎悪に顔が歪んでいく。
彼の重い口が開く。
「何故だ。何故分からない」
怒りを堪えた震える声に、憎悪と狂気が滲み出す。
もう彼の目は、目の前の少女に向けてではなく。別の何かを見つめていた。
「君とは殺し合いたくは無かった。僕の物語では、君が智大くんを殺してそれでこの物語(さつじん)はお終いだった。
だけど─────」
部屋に漂う空気がぴぃんと冷たく張り詰め、怒りが篭った声質で空間が揺れる。
────君と智大の心中として書き直せば良い。」
それは攻撃の合図だった。
怜は、左手を前に突き出し身構える。
こいつは、暗示を使う能力と聞く──
催眠術師は、何かに書き下ろした呪いを見せるか直接身体に刻み込むしか、攻撃方法がない。
前の戦闘から、三ヶ月。闘い方なら慣れたはずだ。
ふぅと、呼吸を整える。
刻み込むのなら。左手で「その術」を剥ぎ取ってやる。
だが、皋は殴りかかっては来なかった。
一呼吸置くと、皋は空中に何やら文字を書き出す。文字のような筆跡だと見て取れるが、そこに何らかの意味は感じられない。
「─────!」
無意味な動作かと思ったが、そうではなかった。
刹那、空中に薄く筆跡が浮かび上がり、其れを視た私の視界がぼやけていったのだ。
私は、この感覚に見覚えがあった。
「空間にまで意味を提示出来るのか.....!!」
怜は皋に向かって走り出す。
左手に纏う紅色の気配が辺りをぼんやりと照らし、左手から呪いが流れ続ける。
しかし、
数メートルもない、アパートの一室だったが、
怜の左手が皋の体に触れるには半歩遅かった。
虚しく空を切った手に体が乗り倒れ込む。
智大と同じうつ伏せの状態に皋の底のない深い声が私の魂を錯覚させる。
「夢(錯覚)に堕ちろ」
目の鼻の先には、智大がいた。
瞬間。その光景は暗転し闇の世界へと放り出された。
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