1995年 錯視艶夢 零

 ■

 一九九五年、六月の終わり。

 世の中は暖かい春が薄まり、暑い夏に差し掛かろうとしていた頃。小説家を目指していた僕は路地で起きた殺人現場で巻き込まれて、とある魔法使いに出会ってしまった。


 ────ここからこの物語が始まってしまった。



 ▪️

 あれは人通りの少ない夜だった事を憶えている。

 電灯に淡く照らされた路地は壁に赤いペンキがべたりと垂れ、辺りは血の池で。

 まるで「日常」とはかけ離れた異世界だった。


 血の池には死体が一つと、長身の男が佇んでいた。

 その男は少し細身の体格に黒いコート。

 その姿は例えるなら亡霊で、まるで生きる事を拒んでいるかのようにそこにいた。


 血を吐き出した死体は青白く一寸たりとも動かない。男の手には電灯に反射する程の鋭利なナイフが握られていた。あれで腹を抉ったのか、想像するだけで身震いが起こる。


 ・・・その男は、僕には気づいていない様子で、一人ぶつぶつと何かを喋っていた。死体に対して喋っているのか、ただの独り言だったのか。

 あの時の僕は、人ではなく「ヒトの形をした化物」を見た様な感覚だった。


 助けを求めたかったが、携帯を持っていない僕は公衆電話しか警察に通報出来る方法など無く。

 叫べば住人の助けが来るかもしれないが、僕の命はない。弱い僕は何も出来ず、ただ男の成すことをただ傍観するだけの人形と化していた。




 ▪️

「まだ、生きてるか?」

 黒い亡霊は真赤な死体を踏みつける。

 死体は何も返さない。

 そんなものお構い無しに男は語り続ける。

 その情景とは似合わない男の軽い声音は、生暖かい夜に溶け込み気でも触れそうな狂気を引き立たせる。

「おいおい、死んでしまったのか。ようやく情報が掴めそうだったんだがなぁ...」

 男はぼさぼさの頭を血に濡れた手で掻き毟った。黒い髪に紅い血が混じり、髪を汚く染め上げる。道徳など存在しないその行動に見ているだけで足が竦んでしまう。

 膝が笑い、立っていることさえやっとだ。




「に。────逃げなきゃ・・・・・」

 生存本能が、自分の体に指示を出す。

 今のうちに、逃げてしまった方が一番良い。

 ──だって僕があの男に何か出来るわけがない。


 その場から逃げようと、離れようとする。


「───────じゃり」

 だが、不運にも、靴の下で小石が擦れる音。

 その極わずかな小さい音は、僕にとって最も残酷なものとなった。


 ▪️

 その音を聞き背後からの気配を感じ取ったのか。

 男は振り向き、こちらを見据えた。

 男の声がこちらに向けられる。

「おや、誰かな、そこにいるのは」

 ・・・まずい、気づかれてしまった。


 でも、今逃げ出せばいいはずなのに体が言うことをきかない。僕の足は石の様に固まってしまっていた。



 男はこつこつと靴を鳴らしながらこちらへ向かってくる。男の表情はフードの影に覆われ窺い知ることは出来ない。

「どうしたんだい、こんな夜中に」

 ・・・・・声には人に干渉出来うる力がある。


 僕に話しかける男性の声は非常に淡々としていて、さっきまで人を殺していたとは思えない口調だった。


 だけど、それが逆に異常で、不気味で、身体を重く、僕の心を恐怖させる。唇が震え、声すら出ない。助けさえも呼べなかった。


「あぁ、見てしまったんだね」

 はは。男は作った笑いを浮かべた。まるでこの時間を愉しんでいる様に。殺人を見られたというのに恐れすらない。


 ・・・・いや違う。見られたならば殺すしかないんだ。


 頭に残る少しばかりの理性でそれを理解した。


 ▪️

 黒い「死」が近づいてくる・・・。

 その場にぺたんと座り込み、死が近づくのを待つあの時の僕はどんな顔をしていただろうか。

 こんな事なら、小説家をやめた方が良かったかもな。親の反対を押し切ってまでここまで、上京して来たのに、何度物語を書いても世間に全然受けてくれない。まるで自分を否定された気になってしまって半ば、鬱病に落ちかけた事もあった。


 まさか小説が僕の人生を狂わせたのか────?

 走馬灯が頭を駆け巡る。


 死を回避する方法を自分の記憶から呼び起こすのが走馬灯と聞いたけど、僕の最後の思考は家に残る小説の事だけだった。


 頭の中で、色んなことが巡る。


 もしかしたら。

 悪い事なんてした事はないけど、これが何かの罰で、この男はその罰を引き連れ人生の終わりを告げる使徒なのか。とか。


「ははっ· · ·」

 僕は何も出来ず笑みがこぼれた。

 なんて無意味な死なんだ。


 無意味。


 今から僕が成すのは、この男に殺されるだけ。

 滑稽で、あまりに無価値。


 ─────いや、まだ生きたい。

 僕はあの小説を書き終えたい。

 震える脚が、ゆっくりと収まっていく。

 ─────僕は、まだ死にたくない。

 震える手がゆっくりと静まり力が入る。


「嫌だ・・・まだ僕は死にたくないんだ· · ·!」

 願いは、声となって力をくれた。

 男との距離が数メートルとなった時、僕はやっと死力を振り絞り、走りだした。



 後ろで男の声がする。

 何か言った気がするがそんなの気にも止めなかった。

 ひたすら走った。何処へ隠れるとか、そんな事など頭に無かったと思う。そこまで考えられる程冷静でもなかった。幸い何故かあいつは追っては来なかった。これなら逃げ切れる。

 路地の角を何回も曲がるといつしか声は遠ざかり消えてしまっていた。


「はぁ・・・はぁ・・・」


 酷い汗で、Tシャツがビタリと濡れている。

 流石に恐怖で強ばった体で走るのには無理があったかな、今も膝ががくがくと震えていた。

 後ろを振り向いてもあの男はいない───

 ────よし。


「逃げ切った───────」


 はずなのに。


 刹那、僕の体は壁へと突き飛ばされた。

「· · ·ぅっ· · ·ぁぁ· · ·」

 片手で首を絞められ、声が出ない。

 凄い力で首が折れそうだ。

 何故...? 追ってきた気配は無かったのに...。


「私から逃げられる事は出来ない。私の『箱』に入ってしまったモノは、私から逃げられないんだ。」

 口元しか見えないが、男は本当に笑った。


 だが口元が歪む度、反比例するようにますます首を絞める力が強まる。少しづつ視界がぼやけて。

 身体が段々と動けなくなっていき意識が遠のいていく───────。


「いや待て、お前。使えるかもしれんな。」

 途端に首を絞める力が弱まり、止まっていた呼吸が再開する。

「ごほっごほっ· · ·」

 朦朧とする意識の中。

「お前が持っているソレには、少し興味がある。」

 男が、僕の頭を掴んだ。


 ──────────────。



「お前。名前は?」


「皋(さつき)· · ·。北条 皋だ」


 男はいい名だ、と笑ってみせる。


 そして、僕は生まれ変わった。

 そして、僕は人を殺めてしまった。

 そして。

 これがこの物語のプロローグにあたる。

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