1996年 錯視艶夢 肆
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「─────昨夜午前二時頃、阿嘉町郊外の自宅で、一家心中を図った女性が子供の悲鳴を聞いた近隣住民の通報により逮捕されました。警察の調べでは、寝室で寝ていた夫と子供二人を包丁で刺し殺害したとのことです───────」
────いつからつけっぱなしだっただろう。
テレビの中のニュースキャスターは殺人事件をまるで他人事の様に報道する。
殺された人など自分には関係無いとでも言うように、棒読みの女性は淡々と言葉を連ねていく。
それが無性に腹ただしくて、仕方が無い。
窓からの光が段ボールで遮断された昏い部屋。
机の上には何日か前に口をつけた弁当の残りが異臭を放ち、部屋中にはゴミが散乱していた。
彼女は部屋の隅で布団に身を包み、恐怖で震える体を抑える。
乾燥した唇は薄い紫色を映していた。
何日も寝ていないのか目の下には濃い隈があり頬は痩せこけ、一見すると生きる屍に近い。
───それほどまでに彼女は追い詰められていた。
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「.....これは、四章目で読んだ殺人事件...」
私は自分に言い聞かせる様に呟く。
そうでもしないと自分が現実ここに居ると感じられないから。ここが夢なのか現実かさえもう分からない。
一歩でも間違えれば気がおかしくなりそうな頭を薄れ掛かりつつある理性で制御する。
四章目が最期を迎えたならば。今度は私なのか。
「嫌だ...私.....もうあんな夢なんて観たくない...!」
私─────前川まえかわ 紗友里さゆりは、阿嘉町郊外の本屋で「錯視艶夢」という本を買った。
表紙はただ真白く、黒い明朝体で「錯視艶夢」と題されているだけ。著者名は「北条 皋」それ以外の出版社や経歴が書かれておらず、店員の間でも不気味な本として有名だったらしい。
そしてこれは、全部で六冊あったその内の五冊目だという。
「錯視艶夢」という物語は、全てで六章あり、六回の殺人が行われる。
読んだ当初気味が悪いグロテスク小説だと思っていたが、それが恐ろしくなったのは一週間前。とあるニュースを見た事がきっかけであった。
「このニュース、一章の物語と同じだ.....」
『似ている』ではない。錯視艶夢で読んだ事件が、そのままニュースで報道されていた。
死因も、殺すに至った動機も凶器ですら同じ。
だが、この本に記された事件は現実で起こるのだと知った時にはもう遅かった。
その日を境に、私は悪夢を観始める様になる。
それは五章目の物語であり、五度目の殺人。
事件が起こるのは主人公の誕生日の日。
大学の先輩が、君のアパートで誕生日パーティーをしないかと誘ってきた。
主人公は、好きな大学の先輩と二人っきりでパーティーなんて嬉しくて浮き足立っていた。少し不安もあったが、そんな事をする人ではないと信じていた主人公は、夜の11時頃彼を招き入れることにする。
...だが、それは間違いだった。
パーティーが終わり、酔いが頭にのぼって眠りに落ちた主人公に彼は首を締め上げてきたのだ。
彼は異常性癖の持ち主で、人間の悶え苦しむ顔が好物な言わば狂人。
豹変した先輩に首を絞められ殺されそうになった主人公は、彼が持ってきた酒の瓶を頭に叩き込んだ。
ごつんという鈍い音と同時に、瓶の破片が彼の頭に突き刺さり、血と酒の匂いが混ざった血溜まりを創り出す───────
──それが、その映像が何度も夢に出てくるのだ。
「助けて...下さい...」
口から声が漏れる。
その時。
ジリリと携帯電話が鳴った。
開くとそれは好きな先輩、慎也さんの番号だった。
「慎也さん.....」
.....先輩がそんな人だなんて信じたくはない。
だってあの人がいい先輩がそんなことするはずがない。
彼を信じる為にも私は出なくてはいけなかった。
「───────もしもし.....?」
「もしもし慎也だけど。紗友里。今日誕生日だったてね?今夜君のアパートで誕生日パーティーでもしないか?」
「───────え?」
悪寒が背中を伝い、身体の震えが酷くなる。
彼が口にした違和感に心臓の動悸が止まらない。
「え─────?何言っているんですか...?慎也さん...。今日は私の誕生日じゃ───────」
「あはは、ケーキも買ってるからさ。待っててよ。今日の11時だっけ?遅れないよう気をつけるね。」
慎也さんには私の声が届いていない。
一体.....誰と話しているの...?
まるで慎也さんはあの人みたいな──────
分かった瞬間、手が震えて携帯を落としてしまう。
慎也さんが喋った言葉は全てあの小説に書かれている『彼』との会話そのままだったのだから。
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『「君を独り占めにしたいんだ」
一回りも身体が大きい先輩は私の首をボロ雑巾の様に掴んで締め上げる。
人が良くて誰からも好かれたあの先輩が、私を殺そうとしている。
私は息が出来なくなり口を魚みたいにパクパクさせて、涙を流していた。
彼の狂った迷いのない笑顔を見つめながら。
「いい顔だ。いい顔をしている。大学で君と出会ってからずっと君のその顔が見たくて堪らなかったんだ。」
バタバタと手脚を動かして、もがこうとしても大きな手から一向に逃れる事が出来ない。
目で捉える映像が、チカチカと光り出して視界の色が失われていく。
走馬燈に似たそれは、私が死んでしまう事を冷酷に告げていた。
─────その時、指に冷たい物が触れる。
私は死力を振り絞って手繰り寄せ、それを掴み彼の頭に叩き付けた。
瞬間。彼の万力の様な手の力がふっと消え、止まっていた呼吸が再開する。
「あぁあああああぁああ!」
私は、半狂乱になり瓶で腹を刺す。
彼がもう起き上がってこないように、何度も何度も何度も───────何度も突き刺した。
彼の腹から漏れ出る、湯気と臓物。
口から血を力なく零すと彼は動かなくなった。
その目は、生の色が無く私を捉えていない。
彼は虚空を見つめながら静止している────』
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はっと、目を醒ます。
また、あの悪夢を観てしまった。
「私...いつから...?」
寝てしまったのだろう。と一人呟く。
目の前は深淵みたいな底のない暗闇。
段ボールの隙間から射し込む光がない。
もしや夜まで寝てしまったのだろうか。
─────それにしても首が痛い。
触れるとヒリヒリとした。多分肌が荒れたのか。どうなのかは分からない。
寝起きの強ばった身体で起き上がろうとした時、ふと気付く。
私の服が何かで濡れていることに。
酷く生々しい匂いが鼻に触れる。
粘ついた匂いは酒の匂いと混じり、ほのかに甘い。
それが人の血だと気付いた時にはもう遅かった。
「...あ.....」
─────彼は血を流し、倒れていた。
突然の事で言葉が、出てこない。
そんな。嘘だ。嘘だ。これは、夢なんでしょう?
これは夢なんだ...!何かの錯覚で見えているだけなんだ!私は信じない!
夢だと思いたかった。こんな事有り得るはずがないと。だけど、その死体は残酷な現実を映し出しているだけ。
叫んでも、揺さぶっても冷たくなった彼は動かない。彼の腹からは臓物が漏れでて湯気が立っている。脳の理性が耐えきれず、私はお腹の中のものを吐き出した。
これは夢...夢...夢.....
「.....嫌だ...悪夢なら醒めて......」
私の眼下には目を見開いて動かなくなった慎也さんの死体があった。
ぬちゃりとした血は冬の寒さで固まり彼の周りには赤黒い膜が出来上がっていた。
臓物の湯気は消え、冷たい死だけがそこにある。
この凄惨な光景は夢か現実なのか。
知る術も無いし、知りたくもない。
だから。私はただ。耳を塞ぎ嘆いていた。
この無限に廻めぐる悪夢から醒める事を願って。
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一九九六年、十一月八日。
此処はとある事務所。蓮見刑事が受け持つ、特殊な事件を取り扱う部署である。だけど、蓮見刑事の姿はなく人の気配は僕一人。壁に掛かる大きな時刻は夜の十一時を指していた。
ぱらぱらとページを捲る音だけが佇む空間で僕はある書類を作っていた。
書類の内容というのはここ二ヶ月で五人の死者が出ている猟奇的な殺人事件。
憎悪犯罪とでも呼べばいいだろう。恨みという一時の感情に身を任せ結果的に殺人を行ってしまった。
それだけではただの殺人事件なのだが、奇妙な点がいくつかあった。
一つは加害者は殺した翌日の朝、必ず出頭しに来るという点であった。
自分の罪の重さに耐えられなくなり、逮捕してほしいとくるのだ。それも決まって加害者はか弱い女性。
.....あまりに正直過ぎる。
言い方が悪いが事件の詳細を初めに聞いた時そう思ってしまった。それもこの件では同じケースが何度も起こっている。事件の被害者も一昨日で五人である。
口喧嘩の末の殺人。
五人の被害者は何十箇所に及ぶ、刺傷の多量の出血によりショック死していた。
女性と抵抗した形跡も無い。まるで人形の様になされるがままの状態だと、検視から聞かされていた。
不可解な点は、まだある。事情聴取をしても内容が支離滅裂で意思の疎通が出来ないという点であった。加害者の口から絶えず出てくるのは「夢の中で殺してしまって。目覚めたら、私の横に死体が転がってた。」という残虐な証言だけ。薬物の中毒症状の幻覚かとも疑われたが、薬物を使用した跡もなく。精神に異常をきたしている訳でもなかった。
そしてもう一つ、最大の謎なのが───────
「あぁ、チヒロくんまだ居たのか。」
扉が開き事務所にか細い声が響くと、黒いコートに身を包んだ蓮見刑事が帰ってきた。
書類がまだ終わってない事に気づき僕は席を立つ。
「すいません...考え事をしていて書類の製作が遅れていました...」
この人は滅多に怒らないのだが、スイッチが入ると人が変わったようになるので怖い。
だが、蓮見刑事は疲れた声音で答えた。
「あぁ、それね。別に今日じゃなくてもいいよ、ゆっくり進めてて。」
僕は、良かったと心の中でガッツポーズをする。
蓮見さんは、僕より年上のちょび髭が良く似合う三十代前半の男性だ。
少し前にこの人とある事件があり、コネに近い形でこの人の下で働かせてもらっている。
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蓮見さんは黒いコートをフックにかけると来客用のソファに横になってしまった。
「調査は、どうでしたか…?」
ブラックコーヒーを淹れて手渡す。
蓮見さんの手は外気に触れて冷たく、まるで死体を触っているかのようだった。
多分長丁場の調査になっていたのだろう。
自分のデスクの上にあった飴も手渡す。
ありがとね。
僕はお返しにガムを貰った。
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──蓮見さんは飴を口に入れると調査の結果を手短かに話してくれた。
事件は混沌と化してきていること。この事件は憎悪犯罪で間違いはない事。そして。この事件において重要なのが───
「あの人は殺していない、しろだ。」
結果はしろ。またしろだ。
そう、出頭をするのは罪の無い人。
全ての証拠品を調べても、一つも該当する指紋が見つからないのだ。
最初は誰かを庇っていると、皆そう疑っていたのだが、庇う理由が見つからなかった。
「では誰があの人を?」
「全く見当もつかない。そちらも聞き込みをしたのだろう?どうだったかな?」
「いや、こちらも何も掴めずです。あの二人に恋愛関係はあったものの、殺すに至る理由が見つからない。近所の方々もいい関係の二人と言っていました。
...あぁ、でも最近おかしな様子があったと言っていました。何でもまた夢らしいです。同じ夢を何度も見ると、どちらも友達に相談していたらしくて、何でも男性は、殺される夢を。女性は殺す夢を。これ、前までの五件と同じなんですよ。ただの偶然だと、思いますかね?」
「夢ね...」
全く...全然分からないな。と蓮見さんは溜息をつく。
がりっ、と小さくなった飴を噛み砕いた音が静かな空間に響いた。
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「今日はもういい。君も疲れただろう、帰って休んでてくれ。」
それから時間が経って日付が変わろうとしていた時、蓮見刑事がそう言ってきた。
お言葉に甘えて僕は椅子にかけたコートを羽織ると、浅く礼をしてドアノブに手をかけた。
「ほら、忘れもん。」
僕が最近読み始めた小説を胸に投げられる。
本の名前は「錯視艶夢」。ホラー小説が好きな僕の、今のお気に入りになっている。
「すいません、ありがとうございます。」
僕はその本をポケットに入れてその場を後にした。
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