天地邂逅

 目が覚める。


 枕元に置いてあるペットボトルの水を飲み、机の上の菓子パンを一つ頬張る。

 私の朝は大体そんな風に始まる。


 顔を洗い、歯を磨き、髪をまとめ、制服に着替えて、玄関へ向かう。


 リビングからは、朝のニュースと母のいびきが聞こえる。大方、昨日もテレビを消さずに寝たのだろう。


 私はもう、5年近く母と口を利いていない。とある一件で大喧嘩をして以来、顔を合わせることすらなくなった。


 私がリビングに入るのは、母が2階の寝室で寝るときか、コンビニに買い物へ行っているわずかな時間のみである。


 だから今日も、無言で家を出る。




光輝みきちゃん、おはよう」

「おはようございます」


 庭で洗濯物を干しながら話しかけてきたのは、向かいに住む真田さなださんだった。


「昨日のカレー、美味しかったです。学校から帰ったらタッパ返しに行きます」

「それはよかったわ。昨日は唐揚げ作ったんだけど、持っていく?」

「…いただきます」


 真田さんは私と母の関係を知っていて、とても優しくしてくれる。


 学校の終わりにスーパーへ寄ると、息子の優人ゆうとくんと買い物にきていることが多く、そんなときは会話しながら家まで一緒に帰っている。


 そして「ちょっと待ってて」と私を呼び止め、家から残り物の入ったタッパを持ってきてくれるのだった。


 この"残り物"がどれほどまでに私の心を救ってくれたことか。真田さんには感謝してもしきれない。


「ふふ、今日も用意しておくわね。いってらっしゃい」

「いってきます」


 挨拶を返し、学校へ向かう。

 期末テストも控える6月末。今年は梅雨と言うにはあまりにも雨が少ないし、残念ながら今日もお天道様は元気いっぱいのようだ。




 日本の暑さがピークに差し掛かるころ、世界中の国々に「来訪者」が訪れた。




 午後4時過ぎ。スーパーには寄らず、まっすぐ家路につく。しかしそれにしても。


 暑い。

 暑い暑い暑い!


 まだ7月にもなっていないのにこの暑さは一体何⁉これ以上暑くなるとか考えたくない!日本はどうなってるの!


 頭の悪い暑さに憤りを覚えていると、聞き慣れた声と自転車の音が後方から近づいてくる。


「ミキー! おーい」


 私は少し立ち止まって振り返り、再び前を向いて歩きだす。


「って、なんで無視すんのさぁ!」


 盛大なツッコミと共に追いついてきた彼女は、学校で唯一友人と呼べる存在浦井うらい のぞみである。


「振り返ったでしょ」

「返事してくれてもいいじゃんか」

「自転車だしすぐ追いつくかなって」

「あー確かに」


 納得したらしい。


「それで、なんの用?」

「ん、別に。後ろ姿見つけたから追いかけてきただけだよ」


 望とは中一で出会い中二まで同じクラスだったが、中三で別れてしまった(今のクラスでは友人がいないという事実は棚上げしておこう)。


 しかし、今でもこうして帰り際に一緒に話すことがある。特に中身のない、女子中学生らしい会話をする楽しい時間だ。


「今日暑すぎない? 7月になったら干物になるよ多分」

「JCの干物ならいい出汁が出るから売れるんじゃない?」

「え、キモッ。世の中ってJCの干物需要あるの」

「ありそう」

「マジか…」


 一部のかなり偏った性癖の人たちに。


「はーでも、中学生でいられるのもあと9ヶ月かー」


 自転車を手押ししながら、望は空を見上げた。


「ミキ、勉強調子どう?」

「まぁまぁぼちぼち」


 私たち中学三年生には大きな問題が控えていた。ご存じ、高校受験。


「ワタシ先週から塾通い始めたよ。イケメン全然いなくてがっかり」

「塾でイケメン探しするのが間違いなんじゃ…」


 呆れ顔の私を他所よそに、隣の友人は恋愛で頭が一杯になっていた。


「高校上がったらさ! スタバでバイトしてさ! イケメンと付き合ってさ! 遊園地行ったり海行ったりするんだ! キャー!」


 どうやら彼女の頭の中は既に高校入学済みのようだ。おめでたい。


「そうは言うてもお主、志望校は決まってるのかい」

「いちおー3つくらいまでは絞ったよ。ミキは決まったのかい」

「まだなのですわ」


 当の私は塾にも通っておらず、志望校すら決めかねていた。


 年末に父が帰ってきた際に塾のことを聞かれたものの、行かないと断ってしまった。


 父は年に数回しか帰ってこないが、わざわざ私の名義で銀行口座を作り、毎月お金を送ってくれている。帰ってくるたびに母と喧嘩している父の心労を増やしたくない。仕送りが途切れないためにも、「いい子」でいる必要がある。


 さらに私自身の欲を言えば、今の家にいたくないから一人暮らしがしたい。


 よって志望校は

 ①実家からやや遠い、引っ越しが楽な所

 ②塾に通わずに自力の勉強で行ける所

 ③学費の安い公立(国立)

 この3つが条件となる。


 条件に合う物件は見つからない。困った。


「夏休み中には決めといた方がいいよねー」

「…そうだね」


 望も私の事情を知っているので、深く突っ込んで来たり来なかったりする。

 心配されていた。


 そもそも高校受験をするかどうかすら悩んでいた時期に「とにかく高校は出ておいた方がいい」と説得したのも彼女だった。


 正直物凄く感謝している。恥ずかしいから言葉にすることはなかったけれど。


「んじゃ重っ苦しい話は置いといてさ! 夏休みどこ行くよ!」


 この切り替えの早さは望のいいところだと思う。面接シートのアピール欄には是非そう書いてほしい。




 だが私たちは知ることになる。

 何気ない会話も、街並みも、毎日も。

 当たり前のものではないのだと。




「ん」

「お?」


 地震。とても小さいが揺れている。最初は気に留めなかった。


 しかし揺れは1分以上経っても収まらない。


「長くね?」

「遠くでおっきいのがあったのかね」


 不安を感じながら歩いていると望が肩を叩いた。


「ねぇこの地震、日本だけじゃないっぽいんだけど」

「どういうこと?海外で起きた地震の余波?」


 彼女は持っていたスマホの画面を私に向ける。


「ううん、が揺れてるっぽい」

「――へ?」


 向けられた画面には『地震』で検索したと思われるTwitterのタイムラインが表示されていた。その中には、日本在住の日本人だけではなく、世界に住む日本人たちのツイートも含まれる。


『ロスで地震起きてます』

『アフリカ地震です。恐い』

地震来てね?』

地震起きてます!パニック!』


 地理について詳しくはないが、以前テレビで観た「オーストラリアではほとんど地震が発生しない」という話を思い出した。確かフランス辺りも少なかった気がする。


 もしも本当に地球全体が揺れているのだとしたら、ただの地震ではなく地殻変動か何かか?


「っわぁ!」


 望のスマホから緊急のアラームが鳴り、慌てて落としそうになっている。


 私もポケットからスマホを取り出す(うちの中学では携帯持ち込み禁止のため、緊急でも鳴らない設定にしている)。


「緊急地震速報…じゃない?メール?」


 いぶかしげに液晶を見つめる望。私の携帯にもメールが届いていた。


『差出人:防衛省

 宛先:陸那 光輝

 件名:【緊急】皆様へ

 これは訓練ではありません


 現在発生している地震は日本だけではなく、地球全土で確認されています。

 このままでは、地球は約1時間後に【崩壊】を始め、惑星そのものが消滅すると予想されています。

 皆様は慌てず、貴重品を持った上で近くの水辺や鏡、窓ガラスといった【人一人が通れる反射するもの】、に触れてください。

 触れると自動的に、地球の裏側の惑星の保護区域に繋がります。


 これは訓練ではありません。どうか慌てず、迅速に行動してください。

                                 日本 防衛省』


「「………」」


 読むのには30秒もかからないメールを、頭は全く理解できなかった。理解を拒絶していると言うべきかも知れない。


 望は首をかしげながら口を開く。


「えっと…電波ジャック?テロとか?」

「……どうだろ」


 近くの民家からは明らかにドタドタと騒がしい音がする。一軒だけではなく、複数軒。


 Twitterを開いてみる。阿鼻叫喚。大参事。『地震』や『地球崩壊』がすでにトレンドに上がっているし、海外の陰謀だとか、首相によって起こされた人工地震だとか様々な意見も見受けられた。


 また、テレビもラジオも全放送局が、メールの内容と同じ説明を繰り返す放送に切り替わっているらしい。


「電話会社からテレビのローカル放送局もだし、外国でも似たようなメールが一斉送信されてるっぽいから流石に電波ジャックって規模じゃなさそう。地球全体を揺らすテロは分かんないけど…」

「ってことはやっぱり本物…?」


 彼女の言葉からは困惑や恐怖が感じ取れた。


「とにかく今は早く家に帰るべき」

「だ、だよね」


 自転車にまたがる望。


「じゃあミキも気を付けてね! ちゃんと逃げてよ! 地球の裏側?で待ってるから!」

「うん。望も気を付けて」


 自転車が分かれ道で見えなくなると、私も走り始めた。現状は一切不明だが、とりあえずはメールの指示に従うのが賢明だろう。


 もしもこれが異世界から送られてきた罠で、鏡に触れた途端連れていかれて、奴隷にさせられるなんてことも考えられる。異世界なら地球全体を電波ジャックする技術があるかもしれない。


 いや、実はもう海外で開発されていたりするのだろうか?


 例え罠だとわかっていても、私はこれに乗る。だってロマンに溢れてる。まさか退屈な地球から抜け出す日が来るなんて、思ってもみなかった。


 地獄が待っていても、行くしかない!


 地震の揺れは続いていたが、私の足取りはいつになく軽かった。




 帰宅後、すぐに旅行用かばんとリュックサックに全財産と着替え、部屋に置いてあった食料、携帯ゲーム機、パソコンを突っ込んだ。


 これだけあれば問題ないはず。


 据え置きのゲーム機を持つ余裕はなく、諦めた。


 ふと、母のことが頭をよぎる。帰ってきたとき、リビングからテレビの音はせず、2階の寝室は開けっ放しでいなかった。


 …私は恐る恐るリビングのドアを開ける。


 そこに母の姿はなく、銀行の手帳が入った引き出しが開いてるのが確認できた。先にに行ったと考えるのが自然だろうか。


 安堵している自分がいることに驚いていた。どれだけ険悪な関係になっても、私の中ではまだ母親だったのだ。


 人間は窮地に立たされると普段は気づかないことが見えてくるらしい。今日もまた新しい発見をする、愉快な日だ。


 さて。


 ではそろそろ私も異世界へと赴くとしよう。リュックサックを背負い、右腕には旅行かばん、左手には靴を持った。


 準備は万端。

 用意は万全。


 窓へと近づき、右手を伸ばす。

 いざ夢の異世界…


 ガンッ!


 突然、巨大な縦揺れに襲われ尻もちをついた。

 尻もちと同時に、照明が落下して、ガラスの破片が飛び散る。キッチンの食器棚が倒れる音もした。


「っつ…」


 目の前の窓にヒビが入っているが、完全に割れてはいなかった。人一人がくぐれるくらいの大きさは残っている。ありがとう防犯ガラス。


 この瞬間、半信半疑だった地球の崩壊を確信する。


 さっきまで微弱だった揺れは、今の巨大な縦揺れを境に大きくなった。


 体感で震度1→縦揺れ震度6→震度3のイメージ。


 もう10分以上揺れていて、少し気持ち悪くなってきた。早く窓に手を…


 ――声が聞こえた。


 男の子の鳴き声。聞いたことがある声。

 向かいに住む真田優人くんの声だ。


 私は玄関に荷物を投げ、ドアを開けて走る。


 泣き声は1階からする。インターホンを押すより、庭側の大きな窓越しに部屋を見た方が早い。


 窓はすでに開いていた。洗濯物を取り込んでいる途中だったようだ。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!」


 悲鳴にも似た泣き声の優人くんと、首から下を本棚で押しつぶされている真田さんがいた。


 恐らく、さっきの大きな揺れで倒れたのだろう。4歳の男の子にこの本棚を持ち上げるのは無理がある。


「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

「優人くん!」


 私は土足のまま部屋へ上がる。


「お姉ちゃぁぁぁん!! お母さんがぁぁぁ!!! お母さんがぁぁぁぁ!!!」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら私にすがり付いてくる。


「優人くん大丈夫! 私が本棚持ち上げるから、優人くんはお母さんのこと引っ張りだして! いい!? できる!?」


 しゃがんで彼の両肩を持ちながら問う。

「ぅ、う゛ん!」

「よし!」


 鼻水をすすりながら彼は一生懸命に頷いた。


 地震はまだ続いている。足の踏ん張りは微妙だが、やるしかない。中3女子の筋力ナメんなよ!


「ふんっぎぃぃぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 およそ中3女子が出してはいけない声が出ていることも、今は気にしている状況ではない。


 望がいたら爆笑してそうだ。


 おっもてぇぇぇぇ!!なんだこれぇぇぇぇぇ!!!


「優人ぐん! 早ぐ!」

「引っかかって取れないよぉぉぉ!」

「んぎぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」


 アドレナリン全開フルパワーで持ち上げる。もうこれ以上は無理!きつい!


「とれだぁ!!」


 少年は母親の両脇を引っ張って救出することに成功した。


「な、ないすふぁいと…」


 足に落とさないように注意して手を放すと、本棚はどすぅんと大きな音を立てて倒れた。


 一気に力が抜けて、私はへたり込んでしまった。


「う、う」


 真田さんはうめき声をあげた。優人くんは相変わらず「お母さん、お母さん」と泣いている。


 ひとまず、なんとかなったっぽい。ああ、良かった。


「優人くん…お母さんのこと引っ張って、そこの窓触れる…?」

「窓?」


 真田さんの家の窓も完全には割れておらず、人がギリギリ通れる大きさは残っていた。


 不思議そうな顔をするも、すぐに母親を引きずり窓へ向かう少年。


 窓ガラスに近づいたところで、跳ねるようにこちらを向いた。


「あ! お姉ちゃんありがとう!」

「ど、どういたしまして?」


 突然の礼に動揺を隠せない。


「お母さんが! 助けてもらったらお礼しなさいって言ってた!」


 目に涙をいっぱい浮かべた笑顔で、私に教えてくれた。


「…向こうに着いたら、お母さんのこと助けてあげてね」

「うん!!」


 何のことかは分かっていないと思う。でもこの少年なら大丈夫だとも思った。


 向き直った優人くんは窓ガラスへ触れる。


「わ、わ⁉何⁉何これ⁉」


 優人くんの身体はみるみるガラスへ飲まれていく。


「お姉ちゃん! なにこ」


 言い切る前に、顔はガラスの中へ消えていった。そして真田さんも徐々に飲まれていき、二人は完全にガラスの向こうへ消えた。


 その光景を息をのんで眺めていた。


 本当に…あるのか異世界…だったら私も早く行かなければ。座っている猶予はない。


 ゆっくりと立ち上が…………れない。立ち上がれなかった。


 腰の力が抜けている。嫌な汗が噴き出す。

 必死に手で這いながら移動する。急がないと!早く…早く…早く!もう少し…!


 ガンッッ!!


 大きな縦揺れが来た。衝撃で、窓ガラスは粉々に砕けた。

 希望が目の前でついえる。あまりの出来事に頭が真っ白になる。


 ギシッ。ギシッ。

 ギシりと。


 頭は真っ白でも、その音に人間の本能が危険信号を鳴らす。砕けた窓の窓枠をひっつかんで、無理やり庭へと飛び出す。


 真田家は崩れ落ちた。


 間一髪でペチャンコにはならなかったものの、頭に固いものが降ってきたせいで私は意識を失ってしまった。









 どれくらい時間が経っただろう。


 朦朧もうろうとする意識の中で、ポケットに入ったスマホを起動する。普段スマホを目覚まし代わりにしているせいで、起きると同時に確認するのが癖になっていた。


 時刻は17時1分。あのメールが届いたのは16時15分頃だったはず。

 つまりあと15分しないうちに地球は崩壊する。


 早く逃げなくちゃ…このままじゃ…

 頭がやけに生温かかったので、軽く触ってみると赤いものが手に付いた。


 血。


 手が震える。悪寒おかんがする。楽しい異世界旅行の妄想は失われ、ある一つの実感が湧き上がり始めた。


「死ぬ」


 荷物をまとめてただ反射するガラスにでも触ればいい。簡単な話だった。死ぬなんて微塵も思っていなかった。


 だが、この出血で唐突に我に返った。


 私は今、死の目前にいる。

 恐い、怖い、こわい!


 慌てて身体を起こすが、やけに重い。

 大量の瓦礫がれきが右足に乗っていた。視認した途端、急激な痛みに襲われる。


「ぎ、ぎ、ぐ!」


 歯を食いしばりながら瓦礫をどける。急げ!早く!動け!


 ようやく見えた右足は、血まみれだった。


「あ、あぁぁぁ…」


 涙があふれてくる。


 先ほどの優人くんの気持ちが分かった。人は自らの力でどうにもならないことに直面したとき、涙がこぼれる。


 今日は学ぶことの多い1日だ。


 最も、明日が無いなら学んだことも意味を成さない。


 考えろ光輝、ひたすら考えろ。この状況を打開する方法を!生き延びる手段を!


 塀にしがみつきながら立ち上がる。


 地震は気絶する前とは比べ物にならないほど強くなっている。


 血まみれの右足はきっと折れている。


 でも泣き言を吐いている余裕はない。背後に「死」が迫っている。痛みなんて知らん!無理だろうが動け!


 庭からどうにかして道路に出ると、地獄が広がっていた。周辺の家は全て崩れており、それは我が家も例外ではなかった。


 あの瓦礫の山から、準備した荷物を発掘することは時間的に不可能だ。命には代えられない。


 家の鏡や窓は砕けてしまっているだろう。周辺に川や池のような水辺もない。小学校のプールならあるが、この足をひきずって行くには遠い。くぼみに水を溜めて飛び込もうにも、昨日今日と晴れていて水たまりもなく、蛇口を捻ろうにも家は潰れている。


 どうする⁉ほかに反射するものは⁉もっとよく考えろ!


 よろよろと歩いていると、家に潰された車を発見した。


「くる…ま?」


 車。そうだ車!

 道路に停めてある車なら潰されずに、まだ窓は割れていないかもしれない!

 足を止めるな!はしれ!探せ!


 道端に丁度いい布団叩きを見つけ、杖にしながら人通りの多い道路へ一歩ずつ進む。


 頼む、あってくれ!頼む!


 曲がり角の先に潰れていない車が――あった。


 引っ込んだはずの涙が、再びドッとあふれ出す。見ず知らずの誰かが停めた路駐に感謝する日がくるなんて、夢にも思わなんだ。


 どうか、どうか、もう何も起こらないでください。私をあの車に無事にたどり着かせてください。お願いしますどうか神様…


 祈った。ひたすら祈った。


 こんなことなら、初詣に行っておけばよかったと後悔もした。しかし関係ない。今はすがれるものならなんだってすがる。


 神様仏様名前の分からないそこの車の神様、どうか私に救いを…


 祈りは届かない。

 願いは許されない。


「え」


 地面が音を立て、。左側にあった家の残骸が、暗く黒いへと沈んでいく。


 死は私の足元に迫っていた。


 胃の内容物が喉元まで上がってきたが、飲んで抑え込んだ。


「おえっ! うぇっ!」


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!!

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!!!!!!!!


「はぁ、ぜぇ、はぁおう゛ぇ! はぁはぁ!!」


 動悸が加速する。嗚咽おえつが止まらない。視界が霞む。あと少し!あと少しなのに!


 右側の住居も落下していった。左右の道が、コンクリートが、削れていく。


 布団叩きは捨てた。私はもう、折れた右足で全力疾走していた。きっと今50m走のタイムを計れば、自己ベスト更新間違いなしの自信がある。


 手を伸ばす。もう5m、3m、2m、1m!


 届け、届け!

「届けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 伸ばした手は空を切る。


 視界は私を嘲笑あざわらうような快晴を仰いだ。


 車を目前に、道路が砕け、私は落ちた。


 残酷な現実を叩きつけられる。この世には神も仏もあったものじゃあない。


 もう初詣には行ってやらん。


 身体が宙を舞い、足に暗黒が絡みつく。


 こんな、こんなところで、誰にも知られず私は。

 死ぬの、か。


 今までの記憶が、蘇る


 一緒に外食したときの母のこと

  …もっと話し合えば元通りになれたかな


 遊園地に連れて行ってくれた父のこと

  …たまに帰ってくるときもっと労うべきだったかな


 いつも声をかけてくれる真田さんのこと

  …タッパ返し損ねちゃったなぁ


 私を救ってくれた望のこと

  …ありがとうって言ってないなぁ


 14年間、嬉しいことも悲しいこともあった

 これからもあるはずだった

 それも今日でおわり


 いやだなぁ、しにたくないなぁ

 わたしはまだなにもしてないのに、なにものこせていないのに

 むなしいなぁ、せつないなぁ

 ごめんねわたし

 くらいくらいそこへおちる


 めをとじよう


 そうすればきっとくらくてもへいきだから


 だいじょうぶ


 ほんのすこしねむるだけだから


 うん


 じゃあねわたし


 おやすみ


 そして


 さよなら










「――――を――――し」


 幻聴がする。

 空には誰もいないはずなのに。


 少しずつ重くなる瞼。


「―――てを―――ばし」


 だが、目を閉じてもは聴こえる。

 はっきりと、より鮮明になって。


「―――手を伸ばして!」


 ハッと目を開く。そこには女の子の姿があった。ショートヘアーで、私と同い年くらいの女の子。


「手を!!!!!!!!!!!!!!!! 伸ばして!!!!!!!!!!!!!!」


 女の子はもう一度そう叫び、手を差し出す。


 私は目を見開く。


 神も仏も車の守り神もいなかった、ただ一人私のことを見つけてくれた彼女を、目に焼き付ける為に。


 この邂逅かいこうを決して忘れないために。


 笑って泣いて泣き笑った。


 悪いけど、暗黒面に落ちるのは延期させてもらうよ。


 待っていた、待ち望んでいた、欲しくて欲しくてたまらなかったその手を。

 私は確かに、確かに掴んだ。





「間に合ってよかった!」


 気が付くと私は女の子にお姫様抱っこをされながら…空を飛んでいた。


「…あの」

「ごめん待って! 話はあと! とりあえず向こうに逃がすから!」


 どこからか小さな手鏡を取り出した。


「これに入って! それで向こう着いたら腕輪の説明受けてね!」

「その鏡小さくないですか?」

で作られたやつだからダイジョーブ!」


 彼女は右手の手鏡を私の頬に押し当てると、身体がどんどん吸い込まれていった。


 ゆっくりと沈んでいく。

 意識が溶けていく。

 恐い感じはしなかった。


 そういえば、助けてもらったのに、お礼を言い忘れてしまった。

 また次の機会でいいかな。


 ”向こうで会えたら、またお話ししよーね!”

 薄れゆく意識の中で、そんな声がした。

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