第52話
「アレは昔から、人扱いされなかったんだよ」
上々一郎は尚も口を開きながら卓に置いた自分の手を見ていた。山脈のような巨体が小さく丸まりながらも、語気ははっきりとしていて、それが返って痛ましく、勇者には、悲壮の判が押されたような上々一郎が痛ましく見えたのだった。
「昔からね。体躯が同年代の2倍くらいあってね……」
その上々一郎が語るはエンジュと自分の半生である。これを聞いたが最後、勇者に退く事は許されない。人の運命に片足を入れておいて、無関係ですでは筋が通らぬ。果たして勇者はどうするのか。
聞くさ。元よりそのつもりで来たのではないか。
天晴れ! 男である。
勇者の硬い意志は惰弱なる後退の二文字を排斥した!
儚く脆い渡世の義理なれど、紡いだ
なればその生、知らねばならぬが勇者の
友を想う勇者は篤と、上々一郎の語りに耳を傾けたのだった。
彼は孤独であった。
発達した筋肉と神経は畏怖の対象となり、他人に敵対か服従を嫌でも強いていた。
巨体を揶揄う人間は暴力で応えた。
陰湿な嫌がらせをしてきた人間がいれば無差別に傷付け犯人をあぶり出した。
凶器をチラつかせたりチンピラをけしかけてくる連中はやりやすかった。殺す気で殴れば解決するからだ。
拳が血で染まりきる頃には敵対者はいなくなっていた。誰もが彼を恐れ、話しかける事すらしなくなっていた。人は彼の存在を認識から消した。
彼はそれを悲しいとは思わなかった。いや、思えなかった。過ぎた体躯が彼から感情を奪い戦いを強制し、環境もそれを良しとしていたのだから、そこに非議など感じ得るはずもなく、ただあるがままを受け入れた。彼の両親は戦いこそが日常であると説き、勝利こそが絶対的な価値基準であると植え付けていた。故に、彼は人を傷つける事に抵抗がなかった。微かに芽吹いていた慈愛の心さえ、自身の暴力性で潰していた。そうしなければ、彼の精神が持たなかった。
両親の教えには確かに愛があった。しかし、それは歪んでいた。我が子に覇道を歩ませんとする教育は破壊思想を彼にもたらし、彼から人間性を奪う原因となっていた。
人とは異なる異形の化物として産まれた彼にとって、その選択は間違ってはいなかったのかもしれない。しかし、発芽し開花した破滅への意識が彼自身にさえ向けられるとは、両親は思いもしなかった。
彼は十分な年齢を重ねさらに逞しくなった。錬磨を続け技を磨き、戦闘においては勝利以外の結果はなかった。しかし、裏を返せば彼には戦いしか、暴力しか持っていなかった。戦って、戦って、戦い抜いてもまだ戦わねばならなかった。その内に、自らの命をかけてまで彼は戦い始めた。非合法な場で賭けの対象となる彼を観て両親は過ちに気付いたのだが、全てが遅すぎた。修羅に堕ちた我が子を前に父は自らを責め母は現実を受け入れられず錯乱し気が触れ始める。だがどうすることもできない。命を削る事でしか生を実感できなかった彼の存在意義をいったい誰が、どうして否定する事ができようか。戦いの中で生きながら戦いの中で死ぬ。それは両親も、彼自身も描いていた彼の未来であった。
しかし、そんな毎日が一変した。数多もの人間を打倒してきた彼が、ある日を境に、表と裏、双方の舞台から姿を消したのである。消息はすぐに分かった。彼は突然闘争を止め、一人の大学生として生きていたのだった。両親は「とうとう改心したか」と胸をなでおろし、かつての愚行を詫びようと彼を家に呼んだのだが、そこでは耳にした彼の第一声は、二人の思考を止めるのに十分な効果を持っていたのだった。
「ハロー! パパ! ママ! 久しぶり! 突然だけど私、女の子になったからよろしくね!」
彼の精神的性別は反転していた。彼は彼女へとなっていた。
最愛の我が子の狂気が晴れたと思えば、今度は別の方向に針が振れていた。
左様な事は夢にも思わなかったであろう。それ以来、父親は茫然自失。母親はとうとう正気を失い、酒に溺れ他界。彼女は何も語らず、大学卒業後に姿を消した。
妻が死に、息子は娘へと変質して蒸発。残された父親は長く己の業を悔やんだが、程なくして一つの考えに行き着いた。
我が子がようやく選んだ道を、父が支えてやれずどうする。
父親の心気は罪悪感からなのか愛なのか。傍目からは判断しかねる。しかし、これまで一度も目を向けなかった自らの息子に対して初めて向き合おうとした事は事実であった。
父親はあらゆる手段を用いて息子……いや娘を探し、とうとう居場所を突き止め謝罪した。これまでの事を思えば到底許されるわけがない。だが、一人の人間が持つ尊厳を摘み取った事実に対しての謝意は示さねばならない。父親は一個の人間としての責を全うせんと、彼の前に跪き「償えるのであればなんでもする」と、詫びたのだった。もし彼女が死ねと言えば父親は躊躇する事なく腹を掻っ捌き内臓を引きずり出していただろう。現にこの時、父親の手荷物には
だが、彼女の返答は思いもかけないものだった。
「別に気にしてないんだけど……逆にママを殺しちゃったようなもんだし、気まずくて会えなかったんだけど……パパ、怒ってなかったの?」
彼女は自らの生を背負っていた。
己が境遇を、選択を悔やんではいなかった。
彼女の人生は、紛れもなく彼女だけのものであった。
父親はそれで救われた気がした。立派な子を持ったと落涙を禁じ得なかった。自身が教育したものではないと分かっていていながら、確かな成長をその目で見る事ができたのだ。それを喜ばぬ父親はいない。
子は育った。一人でも生きていけそうだった。父親にとって、それが何より幸福だった。
だが、それでは気が済まなかった。失われた時間を取り戻すために、動かなければならぬと思った。故に父親は、放免と同時に胸に誓ったのだ。この先何があっても、子の為に自らの余生を燃やそうと……
上々一郎は大きな溜息を吐き独白の終了を報せた。
勇者はなんと言っていいかわからず、また何か言おうとしても、喉の奥が閉じてしまったような気がして声が出せなかった。
「だが、結局私は、アレに何もしてやれなかった」
一つ落ちる言葉の粒。過去誰にも託せなかった家族の話をしてしまった上々一郎の気力はすっかり衰えてしまっているようで、「不甲斐ない」と言わんばかりに身を縮めているのであった。
失意の底にいる人間を無視できるほど冷酷ではなく、また仁に薄いわけではないのだが、なんと声を掛けたものかと勇者は悩んだ。子を持たぬ勇者に上々一郎の無念が分かるはずもない。何を言っても軽薄な地口となってしまう。下手な考えを巡らせ、如何に自身の不徳と話し合いの場を設けたいという意思を伝えようかと悩やむ。下手を踏めばその場しのぎの虚偽と取られるかもしれない。勇者は左様な人間と思われたくなかった。これ以上、この親子を苦しめたくなかったし、自分自身に失望をしたくなかった。
それを伝えねばならぬ。
言葉決まらなかったが、腹は決まった。
大きく息を吸い、勇者は言葉を発さんと口を開いた。その瞬間である。
!
割れるガラス! はためくカーテン!
バルコニーの窓が突破され風が吹き込む!
「なんだ!?」
叫ぶ上々一郎! 落胆の色は戦鬼の相でかき消えた! 老いてなお、悲嘆してなお彼は戦人であった! 破廉恥極まる不埒者を無礼打ちする所存であろう! 構える彼の姿からは凄まじい殺気が込められていた!
「お待ちください。お父様」
一声が響く。その柔らかな声に敵意はないと判断したのか、上々一郎は構えを解いた。そして、バルコニーから聞こえるその声は、勇者がよく知っている人間のものであった。その名を呼ぶ間も無く、風がカーテンを翻し、夜景を背に侵入者の姿が現れる。それは……
「
勇者が呼ぶは唯 英雄。
恐らく、この世界で唯一。エンジュを愛した男である。
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