第51話

 悶着のあった人間の親と話すなど気まずさの極み。当人はもちろんの事、親としても、我が子を泣かした相手に私情を挟まぬわけもないし、やるせない。事に相手は大子煩悩の上々一郎である。口振りはいつもの通りであったが、話しが長引けば何を言われるか、何をされるか分かったものではないというのが勇者の本音であった。


 だが、話を聞かぬわけにはいかない。


 エンジュの傷心に自責の念を持ち始めた勇者は退くわけにはいかなかった。意を決して電話に出たのだ。なにより通してこその覚悟。逃走は自己への背信となる。勇者は、ゲーム以外で初めて、己が魂に従い行動していた。


「お、お世話になっております……」


 ひとまず牽制。勇者は先制のジャブを放つ。さっさと本題に入りたいところであるが、向こうの出方を伺いたい。


「こちらこそ、娘が粗相を働いたようで、申し訳ない」


 後の先! 初手から見事なカウンター! 上々一郎は何があったかご存知の様子! 勇者はたじろぎ息を呑む!


「あ、いや、こちらこそすみません……」


「いや、話を聞く限りではやり過ぎたなと私も思った。君が怒るのも無理はないだろう」


 大人の良識である。この一言により緊張が緩む。勇者は胸をひと撫でするが、不安が去った後にやってきたのは罪悪感であった。自分は悪くない。悪くないが、酷いことはした。あの時もう少し、いや、あぁなる前にしっかりと話をすべきだったのではないか。エンジュがおかしくなった頃、彼女の事を疎ましく思うばかりでなく、彼女がどうしてそうなったか。何を考えているのか。それを本人の口から聞き、自らの意思を伝えるべきではなかったのか。男と女の関係以前に、信を持った人間に対して意を伝えるべきではなかったのかと、悔やんだ。


「……」


 沈黙。

 今更ながらに訪れる後悔と贖罪の念。勇者は上々一郎の優しさの前に、自らの不徳を感じ入り、なんと言えばいいのか不覚してしまうのであった。


「ところで、娘に何か用かな? 生憎だがアレは今留守でね。申し訳ない」


「いえ……」


 スマフォを置いての外出。妙な話である。コンビニにでも行ったのだろうか? いや、それならば上々一郎が着信に出ないだろう。実子とはいえ、自分のものではないスマフォにかかってきた電話は普通とらない。恐らくエンジュ、長く部屋に帰っていないと勇者は推測した。


「あの、本人はどこへ……」


 真偽の如何を問う勇者。隠れていた不安が、再び顔を見せる。


「……ちょっとね」


 言葉に詰まる上々一郎に勇者は唇を噛んだ。やはりエンジュはどこぞへ失踪したのだと合点したのだ。傷心旅行だろうか。絵にはならぬとはいえ、車窓に映る彼女の姿を想像すると痛ましい。


「そうですか……」


 一人旅するエンジュを想いうなだれ、勇者は言葉少なげに上々一郎への返答を贈った。どうしたものかと顎に手を当てる。これでは対話のしようもない。


「分かりました。ありがとうございます」


「待ちたまえ。ロト君。今、時間はあるかい?」


ともかく考えようと電話を切ろうとした勇者を上々一郎は引き留めた。


「え? まぁ、はい」


「ちょっと、話をしたいのだが、出られそうかな?」


 時間は21時。高校生が外出するにはいささか夜が深い。教師公僕PTAなどに見つかれば通報間違いなし。保護者共などに捕捉されれば最悪。例え逃げても地の果てまで追跡されるだろう。そして捕まったが最後「風紀の乱れが心の乱れ」などと謎の呪文を唱えながら、ルドヴィコ療法のような人格矯正をしてくるのだ。外出は極めてリスキー。家で大人しくしているのが賢明であるが……


「分かりました」


 二つ返事。勇者は迷う事なく上々一郎の誘いに応えた。


「ありがとう。ならば、玄一郎の部屋まで来てほしい」


「はい。それでは、今すぐ向かいます」



 力強く頷く勇者。覚悟の上の決断に迷いはない。補導がなんだ。校則が俺を止められるものか。道中に如何なる危険があったとしても行かねばなるまいと奮起する。いつにない覇気。ほとばしる勇気。勇者は今日。リアルにおいて初めてリスクのある行動を取る決意をした!


「あぁ、それと、タクシーを使ってきなさい。夜道は危ないからね。お金はこちらで持つから」


「あ、はい……ありがとうございます……」


 上々一郎の常識にやや拍子抜けはしたが、勇者は出立。指示通りにタクシーを拾い数十分で例の高級マンションへ到着。子供1人という事で道中タクシーの運転手に怪訝な顔をされたが無視で万事解決。仔細なし。


「早かったね。ロト君」


 マンションの入り口には上々一郎が立っており、下車すると同時に勇者の方へ歩んでくるのであった。まさかとは思うが……


「ずっと、待たれていたんですか?」


「なに。大した時間じゃなかったよ」


 まさかであった。礼を尊ぶできた男である。


「まぁ、ともかく上がって話をしようじゃないか。運転手さん。幾らだね」


 上々一郎は言われた通りの金額に加え、「これでコーヒーでも飲んでください」と千円札を一緒に渡した。立場上断らねばならぬ運転手であったがその顔は幾らか綻び、3度断ってから渡された札を懐に入れ恵比須顔で去って行った。社会通念的な作法とは難儀なものである。


 タクシーを見送った2人はオートロックを抜けてエンジュの部屋へ。相変わらず広い部屋であったが、以前と違い空気が寂しく、家具たちが家主の不在を訴えているような寒々しさを感じる。広いキッチンも、アンティークの食卓と椅子も使う人間はいない。その事実が突きつけられている様で、勇者の心はズキと痛んだ。




「さて……改めて、アレの粗相を詫びさせていただきたい。ロト君。本当にすまなかった」


「ちょ、ちょっと! やめてください!」


 部屋に着き、リビングに入った途端に上々一郎は土下座を始めた。その潔さと正しさに勇者は動転し、わちゃわちゃと訳の分からぬ動きをしながら自らも膝をつき、頭の上昇を請うた。


「いや。やめるわけにはいかない。事の顛末は全て聞いた。此度の件は全ては玄一郎の不徳の致すところ。本人がこの場にいないのであれば、親として私が頭を下げるのは至極当然。故にロト君。どうかここは一つ。怒りを収めてはくれないか」


「だ、大丈夫です! 怒ってない! もう怒ってないですから!」


 勇者は必死である。大人がいきなり頭を地につければそうもなろう。


「……本当に、溜飲は下がっているのかい?」


「も、もちろんです!」


「そうか……」


 ゆるりと立ち上がる上々一郎。しかしその姿に力はなく、土下座をしている時の方が力に満ち溢れていたくらいである。倒れるようにして椅子にかける姿は、初老のそれと同じであった。よくよく見れば、血色鮮やかかだった肌がすっかり浅くなっており、皺や弛みが目立つ。この数日で随分老け込んだようである。それはやはり、エンジュの不在がそうさせたのであろう。


「情けない話だよ。私も玄一郎もいい歳なんだがね。どれだけ人様に迷惑をかけても、どれだけ経っても、子の不憫というのは、堪えるものだ……」


 上々一郎は静かに手を組みそう言った。

 その告白は懺悔のような苦しみがあった。

 そんな、十字架を背負ったような1人の父親を見た勇者はえも言われぬ悲心に締め付けられ、口を開く事ができなかった。

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