第49話
朝。登校。疲労。睡眠。
遅刻ギリギリに教室へ到着した
慢性的な寝不足と連続した肉体的負荷がたたり蓄積疲労がマックスとなっていた勇者はリビングデッドと化し、ここ最近は学校には通うだけ通うばかりで授業も中休みも関係なく寝突っ張りであった。朝も昼も関係なく襲いかかってくる睡眠欲求は到底耐えられるものではなく、勇者は貴重な青春の時間を代償として支払い眠り落ちるのである。それで目覚めた時の喪失感たるや筆舌に尽し難く、例えるならば、ゲームを終える際にセーブを忘れてリセットしてしまった時の虚無感に似ており、まったく無駄な時間を費やしたようで大層な落胆を感じるのであった。1日に与えられた24時間という自由の多くを浪費してしまっているのだから気持ちが落ち込むのも無理からぬ話。しかし眠いものは眠いし、寝ないわけにもいかない。過度のストレスにより生じる睡魔が勇者を眠りに誘い意識を刈る。本来教室は騒がしく安眠などできる環境ではない。若い連中はちょっとした事で大騒ぎをするし、大それた事ならもう、地獄の釜を開けたかの如く物情騒然とした事態となるのだが、それさえ気にならぬほどに勇者は疲労困憊し喪失状態にあったのだった。
「おい、あれ……」
「おぉい……なんだあいつ……」
しかし本日ははたまたま寝付きが悪く、端々で聞こえる会話が微睡みに移るのを害した。
俄かに騒めくクラスメイト達の声に勇者はイラつきながらも首を上げる。見れば窓際に
なぜだ…… なぜ来たお前……!
勇者を悩ます根源! エンジュ! 華麗なダッシュを決めながら登場! なぜだか知らぬがグラウンドを颯爽と駆け、校舎へ向かっているのであった!
「あいつあれだろ! 最近この辺に出現する化物!」
「あぁ。あいつが噂の……てっきり都市伝説の類と思っていたが、実在したんだな」
普段どれだけ目立っているんだあいつは……
勇者は呆れながらも逃れる準備を始めた。
エンジュがここに来たという事は十中十で自分が目的であると断定できる。ならばこんな所にいつまでもいるわけにはいかない。いち早く脱出し、安全地帯へ逃げなければ諸々と危うい。
触らぬ神に祟りなし。触ってくる神からは全速力でエスケープだ!
有象無象の群から脱さんとそそくさと離脱を目論む勇者。しかしそうは問屋が卸さなかった。
「おい勇者。確かお前、アレと親戚だって言っていたよな」
級友の1人が勇者を捕まえてそんな事をのたまった。
そうなのである。勇者は以前。エンジュを指して「あれは親戚のおじさんだ」と確かに宣言した事があった。その時についた苦し紛れの嘘が、まさかこんな所で枷になるとは思いもよらなかったであろう。胸の内で「マジかよ」と吐露するのもつかの間、方々から「マジで?」とか「そういえば」とか都合の悪い野次馬の鳴き声が聞こえ始めるともう逃げ出す事は不可能。四面楚歌というか八方塞がりというか分からぬが、ともかくとして勇者の行く手は阻まれてしまった。この人間防壁から抜け出すは至難。ゲームならまだしも、リアルヒョロガリクソオタクの勇者に突破できるほど脆くはない。わらわらと群がる群衆に勇者はあれよあれよと圧迫されて、ついには窒息寸前にまで追い詰められてしまった。もはやなにがなにやら分からぬおしくらまんじゅう。勇者はさかんに「止めろ!」と叫ぶもの暴走した市民の耳に届くわけもなく。終いにはなぜだか「勇者! 勇者!」のコールが巻き起こり危なっかしい胴上げが始まってしまった。もう意味不明。めちゃくちゃである。
これはまずい!
無意味に乱高下を繰り返す勇者は焦った。このままではエンジュが来てしまう。目的は知らぬが、奴が自分を恋人とでも言おうものなら残りの学校生活は一巻の終わり。おはようからさようならまで終始熟ホモ好きの勇者君と指を刺され冷視されるに違いないと危惧したのだ。如何に学校生活を俯瞰している勇者であってもそれは避けたいところ。どこにでもいる平和な一学生として、目立たず疲れず、自由気ままな落第人生を歩みたい勇者にとっては、此度のエンジュ襲来から接触に至った際に生じるネガティヴサプライズは死活問題となり得るのでる。現実において勇者は常々「植物のように生きたい」と吉良吉影のようなつまらない信条の元に行動していたのだが、出会ってしまえばそれが叶わぬ願いとなる可能性が非常に高い。勇者は、なんとしてでもそれは阻止し、何に変えても平和で退屈な日常を甘受したいと願った。困った時のなんとやら。もはや神にしか頼める存在がいない。この苦し紛れの神頼みにご利益は訪れるのか。結末は如何に……
!
勢いよく開かれる扉! そして!
「ごめ〜ん! ロト! 来ちゃった!」
来ちゃった! エンジュ!
この世に神という存在がいるとすればこれほど役に立たぬ者はないだろうと勇者は天を仰ぎ嘆いた! 祈り損ではないか! と!
「おい! 今勇者の名を呼んだな!? しかもカマ口調で!」
「確かに聞いた! 勇者よ! この化物は本当にお前の
口々に叫ばれる疑問疑惑。群青色に染まる勇者の顔面からは血の熱が消えていく。
もうやめてくれ。どんどん取り返しがつかなくなる……頼む……神よ!
胴上げから解放された勇者は床に尻を付きながら尚も祈りを捧げる。先に悪態をついておきながら随分な恥知らずであるが、その天罰なのか、勇者は腕を引かれあれよあれよと最前線。眼前にそびえる巨体。暴力と理不尽の象徴。斯様な事態となったからには無事にはすまぬ。その予想は勇者を震え上がらせる。
筈であった。
……なぜ俺が恐怖しなくてはならないのだ。
浮かぶ不満。起こる怒気。血管が沸く感覚が、勇者の理性をかき消していく。
「今日はね。お弁当を作ってきたのよぉ? 貴方、いっつもジャンクフードしか食べないんだからぁ」
重箱を掲げるエンジュのビターなスイートボイスに衆人が息を呑んだ。隆々たる筋骨を有するその体軀から発せられる猫撫で声の異様、異質、異常に、皆、畏怖の念を抱いたのだろう。
……
しかし勇者は動じない。それどころか、両脇に垂らした小さな握り拳に血管が浮かんでいる。それは弱き者が決起する際に見せる、忿怒の、闘志の現れである。
「そ、れ、と……」
だが絶賛狂気の中にあるエンジュはそれに気付かず、含みを持たせた囀りを置いて口元を勇者に寄せていく。これは、まさか……
「おいおい……うっそだろ……」
居並ぶ面々は一様に慄く。これから始まるであろうグロテスクショーに嫌悪的興味が津々と湧き出ているのである。
「キッスよ!」
衝撃! 悪魔の接吻! 悲鳴と爆笑に湧く教室! ゲリラ的に開始された悪趣味な見世物を前にある者は囃し立てある者はえづき! そしてある者は意識を失い力なく倒れていった! 破壊力抜群のセクシータイム! 押し倒さん勢いで圧されるエンジュのリップの味はいかなるものか! 抵抗を示す勇者の身体は力み揺れた! それは腹に生きる命がけで胎動するように! 必死に! 微かに……!
「ふっざ!」
強引に脱した勇者は忌々しげに唇を拭った! 学ランの袖ボタンが口角に引っかかり出血! 血化粧がルージュのように引かれた姿は決死で挑む若武者のようである!
「おっま! ほんっ! 大概にしとけよ!」
勢いでエンジュを振り払う勇者! その拍子に重箱が宙に舞い、そして落ちた! 無残に散る料理はもう人の口に入る事はない!
「ロト……」
「うっさい! 帰れ!」
こだまする啖呵! 恐れはない! ここにきて勇者! 爆発! その怒りはエンジュに届くかのか!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます