第5話 学園の中の弟 実家の空気を知らず




 ノースルーク公爵領は、アルスタニア王国の北部にある。広大なその土地は近辺の小さな諸領や隣国を見張り、国王の住む首都を守るように広がっていることから『北の砦』と呼ばれていた。

 その北の砦を治めるノースルーク公爵家の屋敷は、阿鼻叫喚の渦に飲み込まれていた。

 なぜなら家庭内絶対強者、天使の顔をした魔王、長女ヴァイオレットがもうじきこの屋敷に帰ってくると連絡が届いたのだ。


 公爵が胃がギュンッとねじ切られるように鋭く痛み、あまりの痛さについに倒れる。跡取りの長男ジェームズと執事は顔面蒼白になりながらも、倒れた公爵を寝室へと運ぶ。そして普段は王宮で騎士に殉じている次男ヘンリーは、せっかくの長期休暇だし実家に帰ろう思った三日前の自分を殴りたかった。

 そんななか元は長女付きだった侍女達が、驚くこともなく淡々と主の出迎えの準備をするものだからカオスである。

 そしてついに一台の馬車が敷地に入ってきて、玄関前で停まったそれから優雅に降りてきたヴァイオレットに、出迎えの使用人を代表して執事が声をかけた。



「おかえりなさいませ、お嬢様」


「ただいま。お父様とお兄様達、揃っているよね」



 疑問系ではなく言い切った。

 もともとこの屋敷で生活している長男のことはともかく、王都の別邸から逃げてきた公爵とたまたま休暇がもらえた次男の居場所を完全に把握している。つい先日、寄宿学校を出ててきたばかりの人間が。

 執事は静かに、彼ら三人に逃げ場はないことを悟った。しかし主人を守るのが執事の役目、スタスタと屋敷に入る魔王を「僭越ながら」と呼び止めた。



「旦那様は現在、体調を崩されおやすみ中でございます」


「それは大変だ、今すぐ見舞わなくては!お父様もお歳だからねぇ。わざわざ帰ってきて良かったよ」



 そう言うなり、ヴァイオレットは嬉々とした表情で階段を駆け上がり、公爵の寝室の方へと消えていった。そして屋敷に響いたのは、公爵の野太い絶叫。

 後ろからメイド長の「弱り目に祟り目ですね」という呟きが聞こえて、執事はちくりと痛む胃を抱えながら哀れな主人の寝室へと向かった。

 すると主人である公爵はベッドのなかで顔を引きつらせ、それをヴァイオレットは機嫌のいい猫のように細めた目で眺めていた。



「あらあらお父様ったら。まるでお化けでも見たような声ですねぇ。まさかこの顔を見て、お母様の亡霊とでも思いましたか?」



 妻の亡霊の方が百倍マシである。むしろ公爵はむせび泣いて喜ぶ。



「ヴァ、ヴァイオレット、帰ったのか……」


「はい。不肖ヴァイオレット、男爵令嬢に婚約者であるアレクシク殿下を寝取られたので戻って参りました」


「そ、そうか、ああ、そうだったな。報告は受けている。大変だったようだな」


「お父様も倒れられたそうですね。お加減いかがですか?」


「久しぶりにお前の顔を見たら元気になった。……叫べるぐらいに」


「それはよろしゅうございました。では、今後についての話し合いを始めても問題ありませんね。そういうことなので、聞き耳をたてるという紳士にあるまじき行為の真っ最中のお兄様方、さっさと入ってきてくださいな」



 いったい何を……と公爵が思っていると開けっぱなしになっていた扉の陰から、長男ジェームズと次男ヘンリーが顔を出した。

 揃いも揃って顔をひきつらせた二人に、妹はにっこりと微笑む。



「お久しぶりです、ジム兄様、ハリー兄様。お元気そうでなによりです」


「お、おかえり、レティ……」


「お前も相変わらずそうだな、色々と……」


「いいえ、残念ながらボクは変わりましたよ。名門公爵家の完璧令嬢にして第一王子の婚約者という名誉ある肩書きを剥奪されてしまいました。多くの生徒を扇動し、婚約者を寝取った男爵令嬢に危害を加えた罪によってね」



 ニコニコと、そりゃあもうニコニコと。まるで楽しみにしていた人気オペラが開幕する直前のような表情のヴァイオレットに、父と兄二人は戦慄する。

 三人は経験上知っているのだ、ヴァイオレットがこういう笑い方をした後には決まって嵐が来るということを。

 公爵はまたも胃がギュンッとねじ切られる様に痛み、思わず呻いた。するとすかさず優秀な執事が胃薬と水を差し出す。



「……こ、これは……」


「ご安心ください。こちらは今朝新たにご用意しました未開封の新品。お嬢様は指一本触れておりません」


「そうか……」



 ヴァイオレットによる胃薬すり替え事件は、公爵のトラウマとなり、十年以上たった今も娘の前で胃薬を飲むのは恐ろしかった。

 それでも公爵は執事の仕事ぶりに感謝して、胃薬を水で流し込んだ。例え気休めにしかならないとしても、飲まないとやっていられない。



「ヴァイオレットの言う通り、今回の件に関してはノースルーク家としての意見を統一する必要がある。お前達、そこへ座りなさい」



 公爵の言葉に、ジェームズはソファの肘おき、ヘンリーはその向かいのテーブル、ヴァイオレットは出窓、それぞれ思い思いの場所に腰を下ろした。

 さすがは同じ血の流れる兄妹である。父親がそこと言って指差したソファに、きちんと座る者は一人もいない。

 公爵は無言でソファを指す手を引っ込めた。



「ではまず事実の確認だ。ヴァイオレット、お前はその男爵令嬢に危害を加えたのか?」


「挨拶を交わしたことすらないですねぇ。なにせ第一王子の婚約中の由緒正しい公爵令嬢と、妾だった母親が本妻に召し上げられて貴族になった男爵令嬢だ。同じ学園で暮らそうと生きる世界が違う」


「……学園に通う生徒を扇動したことは?」


「王子の婚約者であることをやっかんでくる者は多くいても、ボクと会話をしようとする者はいませんでしたねぇ。まぁ昨晩の創立記念パーティーで久しぶりに声を出しても、誰の耳にも届いていないようでしたけど」


「…………無実であるなら、なぜその場で否定しなかった」


「だからボクの声は誰にも届かなかったんですって。否定しても、嘘を言うなと怒鳴られました。あー怖かった怖かったー」



 完全な棒読みでひょうひょうと婚約破棄された経緯を語るヴァイオレットに、公爵は胃だけでなく頭まで痛み始めた。

 するとその様子を見ていたヘンリーが、哀れむような目でヴァイオレットを見ながら口を開いた。



「レティ。庇ってくれる友達一人もいなかったのか……」


「黙ってろハリー!ここで俺らがレティの怒りを買ってみろ、屋敷はあっという間に火の海だ!」


「嫌だなぁ、ジム兄様。ここはボクが生まれ育った思い出がたくさん詰まった我が家ですよ?そんなことするわけないじゃないですか」



 脳みそまで筋肉の弟を黙らせたかっただけだったが、薮蛇だった。突如標的にされたジェームズは、蛇に睨まれた蛙のように動きを止めた。



「でもそんなにこの妹と戯れたいのなら、兄様が自室のチェストの引き出しを二重底に細工して、とっても素敵なピンク色のお宝を隠していること。兄様の婚約者であるカレンに教えるぐらいはしてあげましょう」


「は、はははっ、ピンク色のお宝?なんのことだ?俺はそんなもの知らないぞ?」


「へえ、そお?じゃああの『黄昏時の誘惑 ~美しき未亡人のもて余す熱を鎮める真夏の四十八時間~』という薄っぺらい雑誌は誰のものだったのかなぁ~?」



 ニタァと、家庭内ピラミッドの頂点ヴァイオレットが笑う。



「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!!!!そうだな!お前は屋敷を燃やしたりなんかしないよな!俺が間違っていた!だから、どうか……どうかカレンにだけはぁ!」


「兄貴……」



 兄貴、そんなの持ってたのか。今度貸して。

 お慈悲をっ!と妹に跪いて許しを乞う兄を眺めながら、ヘンリーはそう言いかけた。

 しかし、そんな言葉は途中で飲み込んだ彼は気づいていないだろう。自分が騎士団屯所の自室のベット下に隠している官能小説『ドジっ娘ロリ巨乳メイドを調教してます』シリーズ全五巻の存在も、ボクっ娘ロリぺた魔王に知られているということを。



「レティ!頼む、頼むからカレンにだけは黙っていてくれ!」


「え~どうしよっかなぁ~。そんなにバラさないでほしい?」


「ああっ!そりゃあもう!」


「じゃあひとつだけ、可愛い妹のお願いを聞いてくれる?」



 そしたら黙っていてあげる、と小首をかしげて愛らしく微笑む妹は、まさに外道。

 お願いという名の命令を聞かなければ、問答無用で婚約者に性的思考をバラされる。今日のうちにバラすに決まっている。昔から天使のように愛らしい魔王におもちゃにされてきたジェームズは、それがよく分かった。

 思わず自分が追い詰められる原因を作った弟を見ても、父と執事を見ても、揃いも揃って目をそらされる。味方はいない。生け贄にされたのだ。

 ジェームズは自分の死を悟り、蚊の鳴くような声で「わかった」と呟いた。



「お、俺に叶えられることなら……」


「大丈夫。兄様はボクの言葉にただ頷けばいいだけだよ」



 死刑宣告を待つような顔色の長兄の頭を、ヴァイオレットはそっと撫でる。亡き母とよく似た手つきにジェームズは戸惑い、同時にぞっとした。

 この撫で方をした母は、決まって「旦那様とじっくりお話をする必要があるわね。ジムはハリーと一緒に、レティとヴィンスの遊び相手になってあげて」と言って父の執務室に消えていった。そしてその数時間後、母はスッキリとした顔で、父は青ざめげっそりとやつれた顔で執務室を出てきていたのだ。

 つまり近い内に誰かが、あの時の父と同じ目にあうという兆候だ。



「半年ほどボクにこの本邸を預けて、お父様と一緒に王都の屋敷で暮らしてくれる?」


「……は?」


「正確には夏が終わるまでかな。秋の収穫期は兄様も領主代行として領政に勤しまなくてはならないから、ボクは邪魔にならないよう出ていくよ」


「え、いや、ちょっと待ってくれレティ」


「ボクはただ頷けばいいと、そう言ったはずだよジム兄様」


「ハイ喜ンデ」



 にっこりと愛らしい笑みは、妹の最後の温情。ここでこれ以上逆らえば、その先に待つのは婚約者に性癖をバラされるという地獄のみ。

 ジェームズは死んだ魚のような濁った目で、言われた通りただ頷いた。



「お父様もそれでいいですよね?どうせもうじき社交シーズンになって、ジム兄様も王都に行かなければならない。その留守の期間がちょっと早まるだけです」


「……好きなようにしなさい」



 妻の時にやつれた経験のある公爵が、妻と瓜二つなヴァイオレットに逆らえるわけがなかった。



「俺らの可愛いレティ。ハリー兄様からひとつ質問していいか?」


「なあに?」


「ヴィンスは……ヴィンセントはお前を庇ったり引き留めたりしなかったのか?」



 ノースルーク家第二子ヘンリーは、頭脳派な兄と知能犯な妹に挟まれて育ったが故に、自分が二人と違って弁のたつ方ではないと気づくのは早かった。

 だから彼は、家督を継ぐため努力する兄や、わずか十歳で第一王子の婚約者となった妹と違い、次男である自分が家や家族のために何ができるか考えて公爵家の人間でありながら騎士に志願した。知力の頂点の兄と権力の頂点の妹を支えるため、武力の頂点を目指すことにしたのだ。

 そして今では若くして一個中隊を束ねる武闘派になった。おかげで危機察知能力は、きょうだい随一だ。

 そんなヘンリーは、わざわざ挙手して質問したことを心から後悔した。



「ヴィンス、ヴィンセントねぇ……ふふっ、あの子ときたら……」



 目の前にいる魔王のまとう空気が、変わったのだ。

 ゾクゥ……と真冬の雪山で頭から水を被ったように寒いはずなのに、全身から汗が吹き出す。

 男達が言葉を失うなか、ヴァイオレットはクツクツと肩を揺らして笑い、おもむろにジャケットの内ポケットに手を入れる。

 取り出された一通の封筒には、今この場にいない末っ子の字で王都の屋敷の住所と父の名前が書かれていた。開封済みなことにはもはや誰もツッコまない。



「だぁ~い好きな男爵令嬢を傷つけられて、それを父親に告げ口して実の姉を罪人に仕立てあげようとしたヴィンセント・ノースルークなら、今ごろお友達と楽しくお茶でもしているんじゃないかなぁ」



 公爵、長男、次男、執事。室内にいた全員が思った。あっ、ヴィンセント死んだな、と。

 魔王の怒りを鎮めるため、公爵は末っ子を生け贄に捧げることを決定した。



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