第2話 公爵危うきに近寄らず
月が美しいその晩、王都にあるノースルーク邸に野太い絶叫が響き渡った。
絶叫の主はノースルーク公爵。国王からも信頼が厚く、国内外に知人が多い国の重鎮は、その顔を恐怖に染めて真後ろへ倒れた。
仕事のできる執事と従僕が受け止めたから怪我はないものの、精神的なショックが大きくて立ち上がれない。
「な、ななな、なん………!」
「リサ。旦那様が『なんだと、もう一度言え』と仰っています。再度報告を」
「はい。一時間前、学園内での夜会の最中に、アレクシス王子が婚約の破棄を宣言。ヴァイオレットお嬢様はそれを受け、計画通り学園を出てこちらへ向かわれております」
聞き間違いではなかった報告に、公爵の胃がぎゅうっとねじ切れられるように痛んだ。
万年腰痛と胃痛と戦う公爵も、今度ばかりはそう簡単には立ち直れない。腰が抜けてしまったので使用人に支えられながらソファーに座ると、頭を抱えてため息をついた。
あの面食いの色ボケ王子め。半年前にとある男爵令嬢の尻を追っかけていると聞いた時から、いつかやらかすんじゃないかと思っていたが、よりによって夜会の最中で実行するとはなんて愚かな奴だ。
「…………ん?ちょっと待て。今、計画通りと言ったか?」
公爵は顔をあげ、長女ヴァイオレット付きの侍女を見た。
ずいぶんと間抜けな顔だが、そこは深窓の令嬢の仮面を完璧に付けるヴァイオレットの侍女だ、表情を変化させることなく淡々と「はい」と頷いた。
「お嬢様は、王子が男爵令嬢と懇意にし始めた頃から、婚約解消のために行動していらっしゃいました」
「……では、この事態はあれの思い通りというわけか?」
「はい。婚約解消については七年前からお考えになっていたようですが、行動に移されたのは半年前からでございます」
「なるほど、七年前か……って、それはつまり婚約が決まった時ではないか!?」
「はい」
公爵は再び頭を抱えた。
普通の令嬢ならば、一国の王子との婚約を解消させようとは思わない。
だがヴァイオレットは普通の令嬢ではないのだ。むしろそんなに前に思い付いていて、よく今まで我慢してきたなと娘の成長を喜びたい。
ノースルーク公爵の第三子ヴァイオレット。
望みに望んでようやく産まれた女の子。
社交界で美しいと評判の妻に似た、天使のように愛らしい容姿の愛娘。
掴まり立ちをするようになった次の日には、まだハイハイをする双子の弟を踏みつけて無邪気に笑っていたお姉ちゃん。
はっきりと単語を言えるようになったと思ったら、舌打ちして不満を表すようになったじゃじゃ馬。
ちょっかいを出してきた他家の少年に、仕返しで足を引っかけ、バラの生け垣に顔から突っ込ませたガキ大将。
大臣と領主、二つの責務に胃を痛める父の胃薬を下剤にすり替え、腹痛に苦しむ父がこもったトイレの前で笑い転げていた悪魔。
お茶会で突然姿を消したと思ったら、ロリコンと有名な伯爵を四つん這いにさせ、ハアハアと息の荒い椅子に座って優雅に紅茶を飲んでいた女王様。
公爵家に仇なそうする輩に雇われた誘拐犯たちを、父と兄が趣味の狩りに使うライフルをぶっ放して「帰って飼い主に伝えろ、次は貴様の腹に鉛弾をぶち込むとな」と言って撤退させた狂戦士。
そんな
しかも公衆の面前で婚約者である王子から、こっちの女と結婚するからお前はいらないと言われて帰ってくる。
「……まずいな……」
「はい」
だらだらと冷や汗を流す公爵の呟きに、腹心の執事が力強く肯定した。
「どうなさいますか、旦那様」
「そうだな……いや、待て、少し考えさせてくれ」
天使のような魔王であるヴァイオレットも、七歳となった頃にはその邪悪な本性をすっかり隠し、外では見た目通りの可憐で大人しい令嬢のふりをするようになった。それは当時まだ生きていた妻マグノリアの教育の成果である。
彼女は胃薬すり替え事件の翌日、鉈を持って屋敷裏の森へ行こうとしていた当時六歳の娘を呼び止めこう言ったのだ。
「あのねレティ。ゲームにはルールという拘束があるから面白いの。ルールを破らないギリギリの所まで攻めて、それでもどうしても満足できなかったら、誰にも見えないようテーブルの下で暴れなさい」
どんなに汚い反則も、バレなきゃ反則じゃないの。やるなら上手にやりなさい。
にっこり微笑む母親の言葉に、ヴァイオレットは目を輝かせ、赤錆のついた鉈を捨てて大きく頷いた。
少し離れた場所からそれを見聞きしていた公爵は、自分はえらい女と結婚して、とんでもない化け物を世に生み出してしまったとその時初めて理解した。ちなみにヴァイオレットが鉈を使って森で何をしようとしていたかは、恐ろしすぎて今でも知らない。
母親の言葉を受け、ヴァイオレットは自ら人間でいる為の首輪を付け、さらに社交界という檻に入った。
語学、歴史、経済。礼儀作法にダンスに刺繍にピアノ。貴族令嬢が身に付けるべき教養をあっという間に自分のものとし、どこへ出しても恥ずかしくない、令嬢の鑑だと称賛される完璧な令嬢に成長した。
元々、父親が胃薬を飲むタイミングを調べあげ、ライフルの構造や使い方を独学で理解できるほど知恵と行動力のある娘だ。貴族令嬢に必要な教養を身に付けることも、人間に必要な倫理観と法律を理解することも、造作もないことだったのだろう。
だがあの、この世をおもちゃ箱と思っている娘にとって重要なのは、自分の欲望のままに面白おかしく生きることだ。そのためだったら首輪と檻ぐらい喜んで受け入れそうだし、むしろ遊びの難易度が上がったことを喜び、狭いルールを破るか破らないかギリギリの所まで攻めるスリルを楽しんでいそうだと父親である公爵は考えている。
さらに公爵は、娘のストッパーである妻を亡くして以来、ヴァイオレットについて諦めるようになった。
中身はイかれていても外面が完璧ならそれでいいか、と。
実際ヴァイオレットは、完璧令嬢の皮を被るようになってから問題は一つも起こしていない。だからこそ、油断していた公爵は今回の婚約破棄騒動に頭を抱え、娘の顔だけを見て本性に気づいていない
「あれは……ヴァイオレットは……公爵家の娘で、王子の婚約者という二重の檻に入っていたから大人しくしていたというのに……」
婚約者に近づく男爵令嬢をねちねちと嫌がらせをしただと?
親兄弟すらおもちゃにするヴァイオレットが、嫉妬などという感情抱くわけがない。
百歩譲って嫉妬し怒り狂ったとするなら、その泥棒猫と浮気男は今ごろ影も形もなくなっているはずだ。それが五体満足、心もズタボロにされていないとしたら、ヴァイオレットが嫌がらせの犯人ではないということ。
つまり、ヴァイオレットは誰かに罪をなすり付けられていると分かっていて、全て受け入れて学園からも社交界からも去ることを―――ああ、違う、そうではない。逆なのだ。
公爵は、娘の人格と趣味嗜好、そして先ほどの侍女の言葉を思い出して、それまでの考えを捨て去った。
おそらくヴァイオレットは学園での不自由な寮生活に飽き、ついでに面倒くさかった社交界から抜け出すために、わざと自分に疑いの目が向くように行動したのだろう。
問題を起こし王子から婚約破棄されたとなれば、令嬢の鑑だと持てはやされた者だろうと他の貴族からは腫れ物扱いされる。事実上の社交界追放だ。
公爵令嬢という檻。第一王子の婚約者という檻。社会的地位という二重の檻から出るため、王子に婚約破棄を宣言させた。そして自由になった身で何か新しい遊びをするつもりなのだろう。
倫理観という名の首輪を付けているとは言えど、野に解き放たれた猛獣が何をするつもりなのか。そこまでは公爵にも分からない。だが大嵐が来るということだけは分かる。
「……とりあえず、ヴァイオレットが帰ってすぐに休めるよう、あれの部屋の掃除をしておけ」
ここであれこれ考えたところで、あの娘の考えていることを完璧に理解するのは一生かかっても無理。時間を無駄に使うのはやめよう。公爵は考えるの放置した。
そして領主代行をさせている長男にこの事態を伝えるため、王都から遠く離れたノースルーク領へと向かうことにした。
こちらへ向かっているらしい魔王に会うのが怖いとか、これから発生するであろう大嵐に巻き込まれるのが嫌だとか、そういうわけではない。
青い顔でそうぶつぶつ言いながら大慌てで荷物をまとめ、馬車に飛び乗って屋敷を出ていくその背中は夜逃げ人そのものであったことは、使用人たちのみが知る事実であった。
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