そして彼女は月に微笑む
三崎かづき
第1話 婚約破棄を言えば魔王が笑う
「貴様との婚約は今日までだ!」
アルスタニア王国第一王子アレクシスの言葉に、それまで夜会を楽しんでいた者たちは一斉に口を閉ざした。
今は自分たちが通う寄宿学校の創立記念日を祝うパーティーの最中だというのに、いったい何事なのか。誰も彼もがそう思い、おそるおそる視線を向けた先にはアレクシスの他に五人の人物がいる。
計六人の顔ぶれとその表情を見て、周囲の者たちはこれが何かの出し物でもなければ、聞き間違いでもないのだと気付いた。
「理由をお聞かせ願えますか?」
音が消えた大広間に響いたのは、聞く者をうっとりとさせるような澄んだ声だった。
艶めく黒髪に白い肌。長いまつげに縁取られたスミレ色の瞳を持つ小柄な少女――ヴァイオレット・ノースルーク公爵令嬢は、実年齢よりずいぶんと幼く見える顔を変化させることなく淡々と述べた。
冷静で落ち着きはらった態度は、婚約者からその破棄を申し付けられたようには見えない。しかし、ヴァイオレットが第一王子と婚約関係であることは社交界では誰もが知る事実で、たった今それに大きなひびが入ったのも事実だ。
「理由だと?よくもそんなことが言えるな、ヴァイオレット!」
アレクシスは美しい顔を怒りに染め、正面に立つヴァイオレットを睨み付けた。
あまりの剣幕に、かやの外である他の生徒たちは彼らから距離を取り、息を殺してことのなり行きを見守っている。しかし好奇心旺盛で恋愛事に敏感な十代の若者ばかりだ。権力者の言い争いは恐ろしいが、どう発展していくか興味もあった。
大広間の中央はぽっかりと穴が開き、騒ぎの中心である六人を囲むそれはまるで演劇の舞台のようだった。
「貴様がエミリーに対し何をおこなってきたのか、忘れたとは言わせないぞ!」
そう言われ、スミレ色の瞳がアレクシスの横に立つ少女へと移った。
シャンデリアに負けない輝きを持つ金髪に、王家の象徴であるカトレアの花を飾ったエミリー・マーシャル男爵令嬢。その青い瞳には不安と困惑が宿っている。
そんな彼女を護るようにアレクシスはエミリーを抱き寄せると、再度婚約者を睨んだ。
一方的に婚約破棄を告げてきて、こちらが頷いてもいないうちに他の女を抱き締める婚約者の姿を目にしても、ヴァイオレットの表情は相変わらず変化がない。ただこてりと首を傾げ、ピンク色のくちびるを動かした。
「わたくしが、彼女に何をしたと?」
「この期に及んでしらを切る気か!」
「失礼ながら殿下、わたしくは彼女と言葉を交わしたことすらございませんわ」
「ええ、あなたならそう言うだろうと思っていました。ですが証拠はきちんとあるんですよ!」
温度差のある婚約者同士の会話に割って入ったのは、アレクシスの後ろに控えていた、国王の側近ハミルトン伯爵を父に持つルシアン。そしてそのルシアンの宣言と同時に、同じく後ろに控えていた騎士団長令息オズワルド・シモンズは一歩前へ出て、持っていた紙束をばらまいた。
紐で綴られていなかったそれは、ひらひらと頼りなく床に落ちる。
ヴァイオレットは自分の足元に滑り込んできた一枚を、黙って見下ろした。
『ヴァイオレット様がエミリー様を邪魔に思っていると聞いた』
『ヴァイオレット嬢が放課後、一人で校舎内を歩いているのを見た』
『公爵令嬢に命じられて、マーシャル令嬢に嫌がらせをした』
そんな文章が上から下までびっしりと書かれている。
ヴァイオレットによるエミリーへの誹謗中傷、嫌がらせ行為を見聞きした学生や、命じられて実行したという学生の証言をまとめたと思われるそれ。一言一句逃さず速読したヴァイオレットはくっと口角をあげた。
しかしその微かな表情の変化は、うつ向いて紙を見ていたせいで、黒髪に隠れて周囲の者の誰一人見ることはできなかった。
「……ヴァイオレット。罪を認めて、エミリーに謝罪しろ」
重々しく呟いたのは、ヴァイオレットをここまで引っ張ってきたヴィンセント・ノースルーク。ヴァイオレットの双子の弟で、ノースルーク公爵家の三男だ。
元々口数が少なく大人しい性格の姉だが、公衆の面前でのこの行為はやり過ぎてしまっただろうか。うつ向いて黙りこくっているヴァイオレットを見て、ヴィンセントはかすかに罪悪感を覚えた。
だがしかし、実の姉だからこそエミリーに対しておこなってきた悪事が許せなくて、この断罪の場まで引きずってきたのだ。
揺れる自分の心から目をそらし、小柄な姉を見下ろした。
「今この場で謝罪をすれば、俺たちもこれ以上事を荒立てない。お前も自分のやったことと立場ぐらい分かってるだろう」
「立場は理解しているけれど、やってもいないことに謝罪はできないわ」
「お前……!」
ようやく顔を上げたと思ったら聞こえた平淡な答えに、ヴィンセントの心から身内への罪悪感は消え、怒りとエミリーへの愛情だけになった。
しかし双子でありながら自分と似ていない姉の顔――正確には、亡き母と同じ色の目を見て言葉が詰まった。まるで母に「お前は家族を捨てるのね」と耳元で囁かれている気分になる。
そんな悔しげに眉をひそめるヴィンセントの様子を見て、ヴァイオレットは興味をなくしたように視線を外した。
「殿下の仰りたいことは理解できました。ですがわたくしにとっては、いわれのない罪。公爵家の人間が、正当な理由なく男爵家の方に頭を垂れるわけにはまいりませんわ」
「言い逃れをする上に、エミリーを愚弄するか!彼女は俺の恋人。いずれは王妃となる人間だぞ!」
「いずれでございましょう?」
ヴァイオレットは間違ったことは言っていない。
二人の婚約は、アレクシスの父である国王が決めたことであり、その息子が大声で破棄を主張しようと決定権は国王にある。そして国王から沙汰が下されていない現時点では、ヴァイオレットはまだ第一王子の婚約者。
公爵家の娘にして第一王子の婚約者である令嬢が、婚約者のいる男、それも一国の王子を籠絡した男爵令嬢に謝罪をするなど、貴族社会のバランスを崩す行為だ。
そもそも仮にヴァイオレットがエミリーに悪事を働いたとしても、婚約者を寝取った者に嫌がらせをするのは貴族社会では頻繁にあることだ。その時責められるのはいつだって寝取った側。嫌がらせをした側は、被害者として当然の行動をしただけと周囲から慰められる。
貴族にとっては常識とも言える正論を淡々と吐かれ、アレクシスはかっと顔を赤くした。
――――この女の、こういう所が嫌だったんだ。
顔の作りは決して悪くない。むしろ誰が見ても愛らしいと言うであろう顔立ちだが、それが変化することはほとんどない。おまけに口数も少なく、たまに喋ったと思ったら現実的な事を言うばかりで、冗談の一つも言えないつまらない女。
だがアレクシスは、ヴァイオレットを嫌っていたわけではない。惚れているわけでもなかったが、こんな婚約者は絶対に嫌だと言うほどではなかった。
初めて会ったのは六歳だった。いきなり「いずれ婚約者となる子だ」として紹介された時は、驚いて足を滑らせて転んだのをよく覚えている。
そして、尻餅をつく自分に驚いたのか、大きな目をぱちくりとさせた後に「大丈夫ですか?」と微笑みながら手を差し出してきたお人形の様に可愛らしい子に、ぼんやりと「ああ、将来この女の子と結婚するんだ」と思いながらその手を握ったことも覚えている。
それから約十年。最初の四年は友人として、十歳で婚約を結んでからは婚約者として交流をしてきたが、ヴァイオレットがはっきり笑ったのを見たのも、白くて小さい手を握ったのも最初の一度きり。
将来結婚するのだからとなんとか距離を縮めようとしても、返ってくるのは薄い反応ばかり。月日を追うごとに、ヴァイオレットの自己主張のなさにアレクシスの心は冷めていった。
そして貴族の子女が集まる寄宿学校の二学年になった時に、エミリーに出会った。
途中入学してきた彼女は貴族令嬢の型にはまらず、明るくて活発。こちらが話すことを真剣に聞いてくれて、表情がコロコロと変わる。そんな彼女に恋をしていると気づくのに、さほど時間はかからなかった。
それと同時に聞こえてきたのが、エミリーが学内で嫌がらせを受けているという話題だった。
愛するエミリーにそんなことをする輩はどこの誰か。アレクシスが情報を集めてみると、そのすべてが自分の婚約者による行為だという証言が集まった。
何かの間違いだと思った。学内では優等生で知られ、誰かと争う姿など想像することもできないぐらい大人しい性格のヴァイオレットがこんなことをするはずがない。一度は愛そうとした子だ、アレクシスは最初とは違う路線で情報を集めた。
だが集まるのはヴァイオレットが主犯であるという証言ばかり。
その瞬間、アレクシスの内にわずかに残っていた婚約者への情は消え去った。これがあの女の本性なのだと、ずっと騙されていたのだと、幼少期の輝かしい思い出は真っ黒に塗りつぶされた。
「貴様のような者に、申し開きの場を用意してやった俺が愚かだった。もういい。貴様の顔など二度と見たくない!」
婚約者である自分だけでなく、双子の弟や幼い頃からの顔見知りに追求されれば、さすがに感情の死んでいるこの女も泣いて許しを乞うと思った。
しかし実際はどうだ。普段よりはよく喋っているが、泣くどころか表情はいつも以上の無。おまけに自分はやっていないと主張している。
エミリーに対し誠心誠意謝罪をすれば、全てを丸く納めるつもりだった自分たちの情けを踏みにじる態度に、アレクシスはもちろん残りの青年三人の怒りは頂点に達した。
だが彼らが罵声を浴びせるより早く、ヴァイオレットが脈略なく呟いた。
「……なるほど、そういう……」
そして、にっこりと、とろけるような甘い笑みを浮かべた。
「殿下がそう仰るのであれば、わたくしはこの場から……いえ、この学園から消えましょう」
ヴァイオレットは自分たちを取り囲む人々の顔を全て見回すと、ドレスの裾を持ち上げて優雅に頭を下げる。
「皆様、学園の創立記念という佳き日に水をかける事態になったこと、心から謝罪いたします。そして一年と半年、わたくしに良くしてくださったことにお礼申し上げますわ」
あれだけ要求した謝罪を、エミリー以外にあっさりおこなうヴァイオレット。だがアレクシスたちは怒りよりも、あのヴァイオレットがそれはそれは愛らしく笑ったことに驚いて、身動きひとつ取れなかった。
そんな彼らの心境を知ってか知らずか、ヴァイオレットは視線をアレクシスに向けると、黒髪をまとめ上げていた髪飾りを引き抜いた。
軽く頭を振れば、自由となった長い黒髪がぶわりと広がり背中に垂れる。幼い顔立ちの者がおこなうにはずいぶんと大人びた行動は、ひどくアンバランスで、しかしながら息を呑むほどなまめかしかった。
「これはもうわたくしには不要な物。殿下にお返しいたします」
微笑みながらゆっくりとしゃがむと、ヴァイオレットは自分の悪行の証拠とやらが書き連なる紙の上に髪飾りを置いた。
金がカトレアの花の形に細工され、深い紫色の宝石が散りばめられた髪飾り。それを第一王子と婚約中のすみれ色の目を持つ令嬢が身に付けていたとなれば、婚約者から贈られた品物だと貴族なら察することができるだろう。
ヴァイオレットは姿勢を正すと、「ごきげんよう」と言って体を反転させて出入口へと歩きだした。当然、エミリーやアレクシスたちに別れの礼はない。
ツカツカと迷いなく歩く姿に、ギャラリーだった生徒たちは触れたくないとばかりに避けて、出口までの一本道があっという間にできあがった。
その真ん中を堂々と通り、ヴァイオレットは大広間と比べたらずいぶんと暗い廊下へと出た。するとそれを待ち構えていたらしい青年、ティモシー・アトウッドに歩みを遮られた。
「ちょっと待ちなよ」
子爵家の令息が、格上である公爵令嬢かける声ではない。
先程までの甘い笑みを消していたヴァイオレットは、いつもの無表情で言葉の続きを待った。
「悪いことをしたら謝る。令嬢の鑑と謳われる公爵令嬢様は、子どもでもできることができないわけ?」
「同じ話を三度もするほど、わたくしはおしゃべりではありません」
立場の違いを知らしめるような、言い返す隙を与えない冷たい声色でそう言うと、ヴァイオレットはティモシーの横を通り抜け足早に大広間を離れた。
向かった先は自分の部屋がある寮ではなく、大広間があるのと同じ建物の空き部屋。誰も後をつけてきていないのを確認してから、月明かりしかないその部屋に滑り込んだ。
きっちりと閉めた扉に寄りかかり、ずるずると座り込む。
ふ、と短く息が出た口を震える小さな手でふさぐ。しかし一人になった途端、これまで理性で押さえつけていた感情を止めることができなかった。
「ふ、うっ…………あ、ふっ、ふふふふ、あははははははっ!!」
手で口を押えるのは、部屋の外に爆笑を聞かれるわけにはいかないという最後の理性。だがその分、自由なもう一方の手で床をバシバシと叩いて高ぶる感情の発散をする。
ひとしきり笑い終えると、ヴァイオレットは深呼吸をして、乱れた前髪をかき上げた。
「は~あ、まったく……。揃いも揃って間抜けを晒すのはいいけれど、笑いをこらえるこっちの身にもなってほしいものだ。おかげでボクとしたことが、我慢しきれずうっかり笑っちゃったじゃないか。まあ、ボクは今まであの間抜けに笑いかけたことなど一度もないから、あれはあれで演出としてはアリかな。どう思う?」
「間抜けがさらに間抜け面になって、大変愉快な演出だったかと」
理知的なヴァイオレットの問いに、闇の中から現れた侍女が頭を下げて答えた。
「それは良かった。ところで作業は?」
「学内の監視。馬車の手配。寮内の荷物の運び出し。旦那様へのご報告。全て滞りなく」
「よし。だったらさっさと着替えて、ずらがるとしよう」
「畏まりました。ですがお嬢様、お髪はどうされたのですか?」
「ああ、あの趣味の悪い髪飾りなら要らないから捨ててきた」
「それはよろしゅうございました」
ヴァイオレットは立ち上がり、愛らしい顔に似合うが自分の趣味ではないピンク色のドレスを脱ぎ捨てると、窓の向こうの月を見て笑った。
普段の人形めいた微笑でも、大広間で見せた甘い笑みでもない。両の口角をにやりと上げたヴァイオレット・ノースルークの本当の笑み。
「さてさて、せっかく彼らが頑張って罪をなすりつけてくれたんだ、ボクもその努力に報いてあげなければ。ふふっ、このボクを失脚させたと喜ぶ痴れ者共が、これからどんな顔を見せてくれるか……。ああ、実に楽しみだ」
権力を振りかざして影で悪行三昧。それが明るみとなり王子から婚約の破棄を宣告された令嬢が、社交界に呼び戻されることはないだろう。
自分の計画がここまで順調に進んだことにまた声を出して笑いそうになるが、晴れて自由の身となった。もうこの場所に用はない。
これから始まるであろう自由な隠居生活が楽しみでたまらない公爵令嬢は、鼻歌まじりに寄宿学校を去っていった。
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