第一章①


 第一章



 有栖川姫乃は、有栖川グループの跡取り娘である。


 グループの母体、有栖川家の本家に生まれ、現在十六歳。髪は母親譲りの美しいブロンドで、左の髪束には羽根を模した髪飾りをつけている。


 容姿端麗、成績優秀、令嬢にありがちな高飛車さもなく、人当たりがいい。周囲を引っ張っていくリーダーシップにはやや欠けているものの、誰にでも耳を傾ける謙虚さには人望があった。


 そんな姫乃は今日、フェリーに乗ってこの島にやってきた。島中央に位置する、聖

ルルド学園に転入するためだ。


 父から突然転校を命じられた時にはさすがに驚いたが、何か事情があるのだろう。皆まで訊かずに承諾し、新しい環境でも前向きに頑張っていこう――とやってきたのだが。


 姫乃は現在、予想だにしなかった窮地に陥っていた。


「はーい、有栖川さんが真っ二つに裂かれちゃうまで、あと三分♪」


「いやぁ、やめてぇ! 止めて、早くあの装置を止めて下さい!」


 悲痛な叫びが喉から迸る。姫乃の両手両足は鎖によって拘束され、全身をめいっぱい引っ張られていた。体は床に転がされ、異様な風によって制服のスカートが絶えず捲り上がっている。おかげでピンクのショーツが露出してしまっているが、気にしている余裕はない。


 なぜならば、チェーンソーがすぐそばに迫っているから。


 大開脚させられた姫乃のショーツへ向け、回転する刃が刻一刻と迫っていた。


「こんなことして許されると思ってるんですか!? ねえ、本当にもう止めて! イタズラだとしてもやり過ぎです!」


「イタズラですって? 馬鹿ね、イタズラでこんなことするわけないでしょ? それこそ許されるわけないじゃない」


 そう言って肩を竦めるのは、赤毛に派手なシュシュをつけた、スレンダーな美少女だった。学園の制服を着ており、しなやかな肢体はネコ科の狩猟者を思わせる。


 名前は久遠寺玲花。


 学年は姫乃と同じ高等部二年生。日本有数のお菓子会社・久遠寺製菓の一人娘である。


 場所は聖ルルド学園の礼拝堂。


 燭台型のライトに照らされながら、久遠寺はゆっくりと手を伸ばす。


「あたしは本気よ。本気であなたを切り裂いちゃうつもりなの。ここからザックリ真

っ二つにね」


 チェーンソーは残り三十センチという距離に迫っていて、風に煽られているショーツを細い指先が、つ……となぞった。


「ひゃう……っ!」


 一瞬刃が触れたのかと錯覚し、腰が跳ね上がった。鎖が耳障りな音を立て、久遠寺が流し目で笑う。


「あら、感じちゃったの?」


「へ、変なこと言わないで……っ! こんな状況で感じたりしません!」


「恥ずかしがらなくてもいいわよ? 人間って危機的状況だと、本能で子孫を残そうとするらしい。有栖川さんが思わず濡れちゃっても不思議じゃないわ」


「馬鹿言わないで! そんなことよりも……っ」


「そうね、そんなことよりもチェーンソーがさらに近づいてくるわね。あ、ひょっとしてあたしの指よりチェーンソーの方がお好き?」


「どうでもいいから装置を止めてぇ!」


 叫びも虚しく、チェーンソーを固定している装置がさらに十センチ前進した。獰猛な風圧がショーツのクロッチを刺激する。


「ひ……っ!」


「ふふ、良い声だこと。あと残り二分ね」


「い、いやぁ!」


 全身から冷や汗が噴き出した。制服が濡れぼそり、肌にぴったりと張り付く。


 どうして、こんなことに……っ。


 思い返すのはほんの一時間程前のこと。


 フェリーから下りた後、港には知り合いが迎えにきているはずだった。しかしなぜかその姿はなく、代わりに待っていたのが、この久遠寺玲花。久遠寺は『あたしが代理よ』と言って学園へ連れてきてくれて、親切にあちこち案内までしてくれた。


 高等部校舎や中庭、女子寮とまわり、やがて今いる礼拝堂にやってきた。


 そこで唐突に『有栖川さん、ちょっとゲームをしない?』と切り出された。


 内容は単純なコイントス。


 久遠寺が投げた金貨の裏表を当てるというものだった。


 いきなりでびっくりしたけど、久遠寺さんにはここまで案内してもらったし、お友達にもなりたい。だからあまり深く考えずに了承した。


 礼拝堂の祭壇前で向かい合い、コインが弾かれた。


 姫乃が選んだのは表。久遠寺が手を開くと、コインは裏。


 こちらの負けだった。


 その瞬間、床の四方が開き、鎖が射出された。祭壇からはチェーンソーとレール付きの装置が現れ、あっという間に今に至る。


 正直、ワケが分からない。なぜ自分は殺されそうになっているのか、なぜ久遠寺はこんな凶行をしようとしているのか。分からないことばかりだった。


 そんな混乱をよそに久遠寺はうっとりと頬を染める。


「あたしね、今すっごくドキドキしてるの。美人な有栖川さんがエッチな体勢でザクザクされそうになってて、とっても胸が高鳴ってる。ねえ、これって恋? ひょっと

して、あたし今、恋してるのかしら?」


「知りませんよ!? これが恋だって言うなら、頭おかしいですか――らあ!?」


 残り一分というところで、今度はチェーンソーが前進するのではなく、鎖の方が短くなった。しかも勢いが強く、体が一瞬宙に浮いてしまう。そのままお尻から床に激突。


「ふあ……っ!?」


 胸が激しく揺れ、痺れるような痛みも走った。だが痛がっている余裕はない。距離は残り十センチ。風圧はすでに物理的な勢いでクロッチを直撃した。


「ひゃん……っ!」


 恐怖とも快感ともつかない、未知の感覚が全身を駆け巡る。心臓は破裂しそうなほど脈打ち、全身から冷たい汗がさらに噴き出た。


 すると髪飾りの一部が光った。響くのは聞き慣れない電子音。



 ――Emergency! I will call for relief.



 しかし極限状態の姫乃にはその意味を考えることは出来なかった。鎖に繋がれた両手を震わせ、天を仰いで涙をこぼす。


「だ、誰か、助けて……」


 雫が頬を伝い、床で弾けた。


 その瞬間だ。


 突然、天井のステンドグラスが砕け散った。


 久遠寺が「へっ!?」と見上げる。すると、どこからともなくヘリコプターの回転音が響き、それをファンファーレ代わりとするように何者かが――礼拝堂に飛び込んできた。


 着ているのは有栖川ブランドのビジネススーツ。手にしているのは銀色のアタッシュケース。その男はステンドグラスの欠片をきらめかせ、流星のように落下してきた。


「プリンセスを発見。脅威を排除し、確保する!」


 男はアタッシュケースを足元に据え、チェーンソーのレール装置へ激突。


 凄まじい音が響き、根元からチェーンソーが弾け飛んだ。そのまま大きな放物線を描くと、祭壇近くの床へ突き刺さり、回転が止まっていく。両手両足の鎖も連動していたらしく、装置の破壊と同時にガシャンッと外れた。


 男は装置の残骸を踏み締め、軽やかに床へ降り立つ。


「排除完了。やれやれ、危機一髪だったな」


 姫乃はただただ唖然とした。


「か、か、か……」


 驚き過ぎて声が出ない。「か?」と眉を寄せる男へ、叫ぶ。


「柏木さんっ!?」


「ああ、俺だ」


 事も無げに頷かれた。


 修行僧のような厳めしい顔に、いつでも怒っているみたいな目つきの悪さ。


 姫乃の知っている人物だった。名前は柏木啓介。有栖川グループの社員である。


「姫乃、怪我はないか?」


「いや怪我っていうか……」


 自然体で手を差し出されるが、すぐに握ってあげる気にはならない。こちらは頬が引きつるばかりである。


「お、遅いですよ! 港で待ってるって話だったのに、何やってたんですか!? っていうか、どっから現れてるんです!?」


「すまんな。電車が遅延して遅れた。あとで遅延証明を偽造して渡そう」


「あ、あからさまな嘘っ!? 空から降ってきたのに電車とか! あと偽造するってはっきり言っちゃってるし!」


「状況は把握している。色々と災難だったな。替えの下着がアタッシュケースに入っているから漏らしてしまっているなら履き替えるといい」


「お、お漏らしてなんてませんよ!? っていうか、なんで替えの下着なんて持ってるんですか!?」


「有栖川本家から持ってきたに決まってるだろう。あらゆる事態を想定しておくのはビジネスの基本だ」


「ちょっ!? 買ってきたとかじゃなくて、本当にわたしの!?」


「黄色のフリルと青白のストライプがある。どっちがいい?」


「柄まで把握してる……っ!? もうっ、どういうことですか!? この状況含めて一から十までちゃんと説明して下さい!」


「そうしてやりたいのは山々だがな。残念なことに後回しだ」


 ジャケットの裾がふわりと舞い、柏木は身を翻した。


 視線の先では久遠寺玲花が唖然としている。赤毛の少女へ向けて、柏木は断固たる口調で告げた。


「我が社の跡取りが世話になったな? ここから先は俺が相手だ」


「は……? いや、な、なに? どういうこと!? 一体なんなのよ、あなた!?」


「訊ねるならば答えよう。言うまでもなく、挨拶と自己紹介はビジネスの始まりに不可欠だからな」


 柏木はネクタイをきゅっと締め直す。


「俺は有栖川グループ本社付き・特別危機管理対策室・主任・柏木啓介。この死のギャンブルが渦巻く学園において、我が社の跡取り・有栖川姫乃を守るためにやってきた、ただの社畜だ」


「しゃ、しゃちく……?」


「若者には聞き覚えのない言葉か。社畜とは社命によって人間の限界を超えて働く者たちのことをいう。現代日本では実に社会人の九割が社畜と化してしていると言われている。かく言う俺もその一人だ」


「いや社畜って言葉は知ってるけど……その社畜がなんであたしの前に立つのよ!?」


「決まっている。姫乃を害する者を排除するためだ」


「排除ですって……? あたしは久遠寺製菓の跡取りよ。たかだか一介の会社員風情に何が出来るっていうのかしら!?」


「行動で示そう。挨拶はここまでだ」


 革靴の足音も高く、柏木は歩きだした。


「久遠寺玲花。俺はお前を地獄に堕とす」


「は、はあ!? 地獄ですって!?」


「他人の命を軽んじた罪、その身を以って贖うがいい」


「ちょ、ちょっと待て! くるな! こっちにこないで!」


「もう遅い。裁きの時間は訪れた。覚悟はいいな?」


「い、嫌っ、あたしに何をする気よ!?」


「問答は無用。身を以って知れ」


 柏木は一瞬深く身を沈めた。


「さあ――」


 そしてスーツの身が爆発的に突撃する。



「――デスマーチの時間だ!」



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