第一章 私と先生と運命
呼吸を整える間も、サリエリと名乗ったその人は上機嫌に鼻歌を歌っていた。
私が気持ちを変えてくれたことが嬉しかったのか、それとも単純に音楽が好きなのか。よく聞けばハミングはちょうどラジオから流れている曲と同じだった。
私を招き寄せて、自分はラジオに一番近いソファに腰掛ける。街角で見る仕事中の会社員のスーツ姿というよりは、それこそ旅行で出歩く祖父のようにお洒落として着こなす普段着のようだった。
「今日はルートヴィヒの曲が多いようだね。彼の曲は印象が強いからなぁ。それにきっと、この国の人たちの感性に合うんだろうね」
「ルートヴィヒ?」
「知らないかい? ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。今から……そうだな、ざっと二百年ほど前に活躍した作曲家だよ。出身はドイツのボンだったはずだ」
さすがの私にもベートーベンの名前は聞いたことがあった。けれど、音楽と同じくらい地理も得意としない私では、
「ドイツの、ボン」
と聞いてもヨーロッパのどこか、までしか分からずに曖昧な反応になってしまう。
それでも幽霊さんは顔を顰めることもなく、
「ヨーロッパは知ってる?」
「それは、なんとなく」
すると私を、壁の大きな古地図まで呼び寄せた。
よく見慣れた形の、真ん中が日本になっている世界地図。そうすると彼は左上のほうに移動して、
「この辺りの島がイギリス、このブーツに似た形がイタリア。それぞれの首都を縦横に進んで、十字に交差する辺りがドイツだ。それの少し西、つまりイギリス側。ここにケルンと書いてあるのが見えるかい?」
私は彼の指先を目で追いながら頷いた。
そのまま人差し指がゆっくり下がって、
「この少し下、ここがボン。彼の生まれた場所だ」
私の視線が間違いなく見詰めているのを確かめて、今度は本の棚へと移動する。
背表紙を追いかけながら、だいたいの場所は把握しているらしい。
「それで、彼の本は確か、この辺にあったと思うけれど……あ、これだ。出してくれるかな」
彼の代わりに本棚から引っ張り出したのは伝記のようだった。開いてすぐのページに肖像画が載っている。ちょっと気難しそうな顔つき、髪もたいそうな癖っ毛。この顔は教科書でも見たような気がする。
「日本では『楽聖』とも呼称されるね。それまでの音楽家のように宮廷に仕えるのではなく、芸術家として音楽を発信し続けた、それこそ革命的な生き様の男だ」
過不足も蛇足もない彼の解説はすっきりしていて聞きやすい。学校の授業よりも頭に残る気がした。教えるのが上手いのかもしれない。ちらりと振り仰いだ世界地図。あの辺がドイツ、あの辺りにボン。
パーソナリティーの解説が終わって、また次の前奏が流れ始める。そうするとあっという間にラジオの傍へ戻ってしまう。
「彼の生涯は伝記に任せるとして、折角だから作品を聴こうじゃないか」
空中はともかく、室内の移動は両足を使って絨毯の上を歩いていく。
輪郭がぼやけている以外はほとんど実在する人間と同じだった。だからだろうか、いつの間にか恐怖心も動揺もどこかに消えてしまっている。
だから椅子を引いて、彼に向き合うかたちでテーブルに着いた。
旋律を聴いている彼は満足げで、時々目を閉ざして頷く。よほどクラシックが、音楽が好きなのだろう。
ピアノ曲が終わって次はオーケストラの演奏だった。聞き取れないけれど外国語の歌手がついている。先程の解説からするとドイツ語なのだろうか。
「さっきのは『エリーゼのために』、これは交響曲第九番。こちらも、この国には馴染みある曲じゃないかな。まあ僕としては、ウェリントンの勝利なんかも素晴らしいと思うけれど」
確かに一度はどこかで聞いたことのある曲だった。それにしてもすらすらと苦もなく並べたてる様子に、まるでもう普通の人間に尋ねるように首を傾げる。
「詳しいんですね?」
「曲はともかく、大体はこうなってから仕入れた情報だけどね。それでも彼の趣向というか、性格についてはそれなりに知っているかな。何せ彼は、僕の教え子だったこともあるのだから」
「サリエリさん? ってそんなに昔の人なんですか? その前に、弟子?」
「そうだよ。これでもウィーンで宮廷楽長をしていたんだ」
そう言ってソファで足を汲んだまま、ほんの少しだけ照れくさそうに笑った。
また、曲が切り替わる。
何の前触れもなく押し寄せる音の波。不穏にも聞こえる厚い層が繰り返す。
たった1フレーズで覚えた既視感に、声を上げた。
「これ、知ってる。確か、『運命』?」
「そうそう。交響曲第五番、ハ短調。君が言ったのは『こうして運命は扉を叩く』だね」
確かに先に彼が言っていた通り、『印象強い』それに耳を傾ける。
知っている曲だとは言っても、こうしてじっくりと聞いたことはなかった。せいぜいが最初の何フレーズ分だけなのだと気がつく。
ここのホルンがいい、とサリエリさんが呟いたのが聞こえた。その時に、おや、と首を傾げる。
最初は何かに急き立てられて焦るような印象だった旋律が、それを境に表情を変えた気がしたから。
柔らかく明るい、そこに弦楽器の音が乗る。焦るのは変わらない、けれど、怖いのではなくて。
「でもこの曲ってずっと聞いていると、運命って感じじゃないですね」
思わず声をかければ、彼は片方の眉を少しだけ上げた。
続けてみなさい、と言われた気がして、少し迷ってから、
「どっちかというと……決意、とか」
「ほう」
返答は思ったよりも短かった。というよりは、単に頷いただけかもしれない。
それから深く沈んでいた身体を持ち上げて、少しこちらに向かって身を乗り出すようにして、
「決意。つまり、決心、誓い、決断だね?」
何か変なことを口走ってしまっただろうか、心細くなりながら、はいと答えれば、サリエリさんはまた何度となく頷く。
「ほうほう、なるほど。君は思ったより素質があるね」
などと感心するものだから、慌てて両手を振った。
「そんなこと、ないですよ。この間の音楽のテストだって散々だったし」
ただ思いついたこと、感じたことをなんとなく口にしてしまっただけなのだから。
それなのにサリエリさんは、まるで音楽の先生のような彼は、
「ならば、僕が少々授業をしてあげよう。なに、ピアノを弾くことはできないけれど、こうして講釈をしたり音程を見てあげたりといったことは可能だ」
まだ頼んだわけではないのに、その顔は一際嬉しそうに見えた。
それでも、彼に音楽を教わることは悪くないように思われた。
教えるのが上手いのかもしれない。学校の授業よりずっと分かりやすい。
宮廷楽長というのが何なのかは分からないけれど、もしかしたら本当に先生だったのかもしれなかった。
それから、もうひとつ。
「でも、今はとりあえずそちらのドルチェを味わおうか」
すっかり忘れかけていた紙袋を指さして立ち上がる。そうだった、これもお使いのひとつだった。慌てて包装テープを外して、中から小さな紙箱を取り出した。
「いいね、ティラミス。特に名前がいい。食べるのは初めてなんだよね」
それを覗き込んだ先生は、また一段と感慨深そうに溜息を吐く。
そういえば忘れかけていたことがもう一つ。
彼はヒトじゃない。少なくとも目の前に存在する生身の人間ではないのだ。
「ずっと気になってたんですけど、どうするんですか? 見て楽しむとか?」
「ああ、そうだったね。だから、君が食べてくれればいい」
確かに、おじいちゃんから頼まれたお使いには『お菓子を食べる』ことも含まれていた。だから、私がこのまま味わうのは構わないのだけれど。
折角のケーキを目の前にして、物寂しくなったりはしないんだろうか?
心配しながらもスプーンを手にすると、いつの間にかすぐ隣に先生がやってきている。
左肩の辺りにひやりとした重さを――風が当たったような違和感を憶える。
「ちょっと肩を失礼するよ。感覚を近くすれば、ほんの僅かだけれど五感を感じられるからね」
……もしかしなくても、それって憑――いやいや、考えてしまうとまた怖くなるので途中で首を振ってやりすごす。
そう、今は音楽と、目の前のティラミスのことだけを考えることにしよう。
表面のココアパウダーにスプーンを差し込んだ。
ちゃんと二層分が上に乗るように掬い上げる。
まずは一口、エスプレッソシロップの染み込んだスポンジとマスカルポーネチーズのクリーム。
もう一口。コーヒーの程よい苦味とチーズの酸味、カスタードの甘味。
そのうちに、彼が本当に幽霊なのかどうかもどうでも良くなって。
「美味しいかい?」
その声に、ゆっくり首を縦に振った。
「うん……すごく、幸せ」
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