はじめに音楽、次にお菓子
朝斗
序章 書斎とオルゴールと三時のおやつ
去年のお正月以来に訪れたその家は、何度見ても大きくて古めかしいお屋敷だった。
街の中心部から離れた静かな山のふもと。私の家からは反対方向になってしまうけれど、学校からなら近くの駅まで電車で十分、そこから道なりにぼんやり歩いているうちにすぐ目に入る青い屋根。
話ではおじいちゃん……祖父の祖父の代に建てた洋館らしい。預かってきた合鍵で正面の門から入って、ある部屋を目指した。
確か、二階の一番端。塔のように出っ張った場所が書斎だった。
ドアを押し開けば思い出の中にあった通りの、壁一面を埋めるほどの棚と応接セット、更に奥にはピアノ。
幼い頃にこの家で会った祖父は、いつもこの部屋でレコードを聴いていた。
レコードというものを知っているだろうか? CDよりずっと大きくて黒くて、表面にぐるぐると細かく溝が彫ってある、それを演奏する機械に入れると歌や音楽が流れる。つまり結局はCDと同じ役割のもので、CDよりずっと昔から使われているもの。祖母などはそのレコードの音が好きだと言っていた。
そんな二人が一番好きなのは、コンサート会場で聴く生のオーケストラらしいけれど。
さて、残念なことにそうして祖父母はこの家を留守にしている。留守の間の管理人は別にいるけれど、「杏奈も中学生になったことだし、お使いをお願いしてもいいよね?」ということで、こうしてたった一人、この書斎に来ている。
お使い、つまり私の役割はこうだ。
『毎週水曜日の午後三時にラジオをかけて、お菓子を食べて欲しい』。
ラジオのチャンネルは決められていて、お菓子は、ケーキでもアイスクリームでもなんでもいいらしい。とにかく毎週決まったラジオを聴きながらおやつの時間を過ごせばいい。どうにも変な話だけれど、嫌だとは思わなかったので言いつけ通りに駅前のケーキ屋さんでティラミスをひとつ買ってきたところ。
『それに、これを機会に杏奈も音楽が得意科目になるかもね』なんて、お母さんはいたずらっぽく笑った。
レースのカーテンを開いて窓を押し開ける。少し埃っぽく息苦しかったのが楽になった気がした。
チチチ、と鳥のさえずりが聞こえる。空が青く、春の終わりを知らせていた。
丸い猫足のテーブルの真ん中にお店のロゴが入ったビニール袋を置く。もうすぐ三時だったので、先にラジオのスイッチを入れる。チャンネルは、どうやらあらかじめ設定してあるらしかった。
改めて部屋を見回した。出窓の対面の壁には大きな世界地図が飾ってあって、それ以外のほとんどをぐるりと囲む棚は、入り口に近い手前が本、中程がレコード。ピアノの奥側はガラス戸になっていて、覗き込んだ感じでは楽譜が収められている。中には紙色が変わるほど古いものが積み上げられている棚もある。手書きだろうか?爪先立ちをしてみたけれど、誰が書いたものかは分からなかった。
棚の中頃は棚を何段かくり貫いた形で、祖父母が並んで笑う写真盾などが幾つか並んでいる。
その片隅に金色の小さなピアノの置物が混じっているのに気が付いた。
これも随分古そうだ。大事にされているようで埃は被っていない。綺麗な装飾のその蓋を開けてみれば、きらきらと音が流れ始めた。オルゴールらしい。もちろん、私に曲名が分かるはずがない。
柱時計が軽やかに三度鳴る。ラジオの放送が切り替わった。始まったのはクラシックの名曲を紹介する番組だった。
それを聴くとはなしに耳にしながら、なんとなく腰かけていたピアノの椅子から立ち上がる。
オープニングに続いて流れてきたのはどうやら有名な曲のようで、さすがの私でも聞き覚えがあった。
「あー、これ聞いたことある。なんだっけ」
テーブルを目指して絨毯の上を横切る。そう確か、テレビ番組で聴いた、それとも音楽の授業だったっけ。
もうすぐ椅子の背に手をかける、というところで、頭の上で誰かの声がした気がした。
「ト長調、K.525」
歩いていたのも椅子を引き出そうとするのも止めて、全神経を耳に集める。
きっと、ただ単にラジオの音が反射したのかもしれないから。
けれど今度は、すぐ目の前に移動して。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク。モーツァルトの曲だね」
まるで向き合った椅子の背にもたれ掛かって立つくらいの高さ。
恐る恐る顔を上げれば、やっぱりそこに、誰かがいた。
知らない人だった。若くもなく年老いているようでもなく、ふわふわの黒い髪の男の人。
服装はちょっと高級そうな、それこそおじいちゃんが良く着ているような背広姿。私に向けただろう笑顔はにこりと優しげで、偶然居合わせたお客さんの誰かかもしれないと思うくらいには。
ただしその姿はすりガラスを通したみたいにあやふやで、古い写真のように色が薄い。
「……こんにちは」
「はい、こんにちは」
声をかければ普通に返事がある。
「すみません、まさかお客様がいるとは思わなくて……」
「いやいや、こちらこそ。まさか新しいディレットーレがお嬢さんだとは」
「あはは……」
外国の人なのに日本語が上手いな、と感心するくらいには優しそうで無害そうだった。
けれど、当たり前だけれど、だからと言って足が震えるのを止めることはできない。
素早く目だけで入り口を確かめる。場所は私の左後ろ直ぐ、鍵はかかっていない。
「お邪魔しました……どうぞごゆっくり!」
愛想笑いを終えた私が次にすることといったら、一瞬も振り返らずにドアを出ていくこと。
「待って、ちょっと待って!」
声がした気がしたけれど、多分きっとそれも気のせいに違いない。
錯覚?幻覚?夢でも見ていたかな?
このお屋敷には今まで何度も来たことがあるけれど、そういう話があるだなんて、一度だって聞いたことはなかった。
おじいちゃんからも、お父さんからも、他の親戚の誰からも。
だから今回のお使いだって、行ってもいいかなと思ったのに!
部屋の中が明るいのだけが救いだった。短い廊下を走って階段を駆け下りれば勝ちだ、とドアノブに手を掛けて勢いよく飛び出、ようとした目の前に、真正面から覗き込むように行く手を塞がれる。
誰ってそれは当然、ううん、人かどうかは分からないけど。
とにかくその人は、精一杯両手を前に突き出して、私が部屋を出ていくのを押し止めようとした。
……空中に浮いたまま。
「驚かせて悪かった。これでも穏便にしたつもりだったんだけど」
「や……やっぱりお化け!!」
そして今の登場の仕方の方がずっとずっと心臓に悪い!
おかげでドアを出ることもできずに、大声をあげて地団駄を踏んだ。
なのにその人は私の恐怖心なんてお構いなしに、
「うーん、まあ、そんな感じかなぁ」
なんて言って、何かを考えるように腕を組んだまま首を傾げた。
「でもさぁ、それなら分かるだろう? 久々のお客さんで嬉しかったんだよ。しかも、こうして会話ができるなんて」
ねえ?と同意を求められても、頭が真っ白なままでは彼の言い分の正しさは分からない。
「呪われたり……寿命が縮んだりは……?」
「しないしない」
首を振りながら彼は、カーペットの上にへなへな座り込んでしまった私の前にしゃがみ込んで顔を覗いた。
「それならシュウもマリもあんなに長生きしてないだろう」
「祖父母のことを知ってるの?」
「勿論さ。ここに来たのも二人のおかげだ」
「もしかして、水曜日の三時にラジオを掛けるっていうのも」
「シュウが気を利かせてくれたのさ。僕を連れて歩けないからね」
ただし、君に僕が見えるかどうかまでは考えていなかっただろうけどね、と付け足して言う。
深く深く、息を吸った。
彼の優しそうに見える笑顔も手伝って、だんだんと心臓が落ち着いてくる。
そうすれば、部屋の中では今もラジオから音楽が聞こえているのに気がついて。
「さ、まだ始まったばかりだ。とりあえずは席に座って、ゆっくりと音楽に耳を傾けようじゃないか」
立ち上がらせようと手を伸ばしてくれる。けれどそれの意味の無さに途中で気がついたらしく、照れくさそうに肩を竦めた。
「ところで、君の名前を聞いてもいいかな?」
「杏奈、です」
仕方なく自分で立ち上がって、まだ膝が震えているのをどうにか抑えて、改めて、目の前の幽霊か何か分からないその人を見上げる。
やっぱり昔の癖なのか、握手を求めるように手を差し出して、
「アンナ。いい名前だね。僕はアントニオ・サリエリ。呼び方は好きに選んでくれていいよ」
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