第38話 Golden week 1
四月三十日 夜
「ただいま」
家に帰ってきてリビングに向かうと雪がソファに座っていた。
俺に気づくや否や彼女の表情が明るくなる。
「あ、おかえり。今日もバイト?」
「うん」
結希との一件の後、俺は派遣のバイトを始めた。
特に予定さえなければ、休日には派遣先の倉庫でひたすら段ボールや物品を運ぶ仕事をしている。
ちなみに今日は月曜だが振替休日であるため学校はない。
「朝からずっと力仕事してて疲れない?」
「まあ、慣れたら大したことはないかな」
しんどいのは確かだが、時給も千五百円と普通のバイトよりも高いのでやりがいはある。
「ふーん。何か買いたいものでもあるの?」
「え……」
別に買いたいものがあるわけじゃない。基本的に遊びに出かけることもなければ、お金がかかる趣味もない。
じゃあなぜかと言われると、夏休みにある目的で使う予定があるからなのだが……あまり雪には言いたくない。
正確に言うと岸田家の二人には言いたくない。恐らくいい顔はされないだろうから。
「いやー、まあ、色々あって…………」
そんな風に言葉を濁す。
「……私には言えないようなことなの?」
雪は目を細める。顔立ちが大人っぽいだけあって威圧感がある。
なにか適当に答えといたほうがいいだろうか。
「実は、髪を染めようと思ってて」
さすがに適当すぎただろうか。
そんなことを考えていると雪はソファーから立ち、真剣な表情をしながらこちらに迫ってくる。
そして俺の両肩を掴んできた。痛い。そして怖い。
……もしかしてバレた?いや、何も余計なことは喋ってないはずだ。まさか読心術が使えるとか?
「だ、ダメだよ!こんなにも綺麗な髪を痛めるなんて!」
「…………え?……あぁ」
なんだ、急に詰め寄ってきたから何かと思えばそんな理由か。びっくりした。
雪の言うように俺は髪質には恵まれており、最低限の手入れもしているため髪はサラサラだ。
ただ、そんなに必死になって引き留めるほどのものだろうか。
「ほら、見て?こんなにも艶があって指通りもいいのに……」
そう言って雪が俺の髪を触ってくる。
見てと言われても自分では見ることはできない。あとくすぐったい。
「別に、雪だって綺麗じゃん」
彼女の髪はロングだが、しっかりと手入れをしているのか毛先を見ても全くパサついているようには見えない。
「私のことはいいの。でも、でも……広行が染めるのはダメ!」
端っから染める気などはないが、なぜそこまで俺の髪にこだわるのだろう。少し気になる。
「……別に俺が染めたところで雪に不利益はないと思うけど」
「いや、あるよ!だって…………」
だって?
「広行が黒髪じゃなくなったら、こう、可愛さとか守ってあげたくなる感がなくなっちゃんうじゃん!……あ」
雪は「しまった」とでも言いたげに手で口を覆う。
へえ、今まで俺のことをそんな風に見ていたのか。なるほどなー。
俺はスマホを取り出し、美容室の予約アプリを起動する。
「ひ、広行?何してるの?」
「ん?明日の放課後にカラーしたいから予約する」
「ちょっ——ダメ!」
雪は俺の手からスマホを奪い取り、スマホを持ったまま手を高く上げる。
「返せ!」
「絶対にいや!」
スマホを奪還しようと背伸びをして手を伸ばすが、雪のほうが身長が高いせいで届かない。
くそ、妹に物を取られて取り返せない兄とか嫌すぎる!
「この……あっ」
お互いにスマホばかりに気を取られて上を向いていたからか、俺の足と雪の足が絡まった。
そして雪が俺のほうに倒れ掛かってきて、ドンっと背中が床に着く。
「いった…………雪、大丈夫?」
「うん。そっちは大丈夫?どこか打ってない?」
「特に痛いところはないかな…………ていうか」
「?」
雪はきょとんとしている。
仰向けになっている俺の上に雪が馬乗りになっているというこの状況。
これを真理さんに見られたらあらぬ誤解を受けかねない。さっさとどいてもらわなければ。
「雪、一旦離れよう。この体勢はあまりよくな——」
そこまで言ったところでガチャリとドアの開く音がする。
音のしたほうに視線を移すと真理さんが立っていた。
「あら、広行君。帰っ……何をしているのかしら」
真理さんの声のトーンが急降下し、目も鋭くなる。いつもはニコニコとしているだけに圧が凄い。こうして見てみるとやはり二人は親子だなと思ったが、そんなことを考えている場合じゃない。
「え?…………あ」
雪も自分たちの体勢がマズいと言うことにようやく気付いたらしく、顔を赤くしながら俺から離れた。
「あら、そうだったの。ごめんなさい勘違いしちゃって」
その後、なんとかして俺は真理さんの誤解を解くことができた。
「てっきり雪が広行君を襲っているのかと」
「そ、そんなことするわけないじゃん!」
まあ、あれは傍から見たらそう見えてしまっても仕方がない。
「それはそうと……」
真理さんが俺と雪の方を見る。
「二人とも、三日はちゃんと空けてる?」
五月三日、憲法記念日でありゴールデンウィークの初日でもある。
その日は父さんも仕事がないので四人でビュッフェに行くことになっていた。
「ちゃんと空けてますよ」
「私も」
俺と雪が答える。
「そう、じゃあ安心ね」
真理さんはそう言ってほほ笑んだ。
虐げられることもなく、安心して家にいられるということ。
人によってはそんなの当たり前のことだろうと思うかもしれないが、俺にとっては天国そのものだ。今でもときどき、目の前にある景色は全て夢なのではないかと思う。
そんな素晴らしい環境に身を置けているはずなのに、目の前の二人を見ていると何故か自分がひどく惨めに感じられ、居心地が悪い。
そして、そんな風に感じてしまう自分が嫌になった。
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