第32話 Madness 1

土曜日


 午前中で授業が終わり、俺は陸上部のグラウンドの上で必死に働いていた。

「よし、一旦休憩!」

 顧問の掛け声とともに、部員たちは水分補給のためにマネージャーの方へ集まってくる。

 俺は近くにいたマネージャーの先輩に声をかけた。

「立川先輩の方へ配りに行ってきます」

「うん、お願い!」


 俺は立川先輩たちのほうへ近づき、他の人たちからボトルを配る。

 そして立川先輩にボトルを配ろうとしたときに、俺はわざとつまずいたふりをして上のほうにボトルを放った。

 投げたボトルは綺麗な放物線を描いてとんでいく。

「な……」

 ボトルは狙い通り立川先輩の顎に当たった。

 他の部員はそんな俺を見て笑い始めた。 

「ぷっ、菊野くんおもろいわー」

「いやマジでウケるわ」

 俺は恥ずかしそうな表情をしながら先輩に近づいた。

「すみません先輩、ボトル替えますか?」

「いや、大丈夫だよ。落ちる寸前にキャッチできたから」

 先輩は笑いながらそう返した。だがその表情は少しぎこちなかった。

「次から気を付けます」

 俺はそう言ってから先輩の横を通り過ぎると同時に、先輩の耳元で囁いた。


「二回も先輩の顔にボトルを当ててしまってすみません」


 俺の言葉を聞いた先輩はものすごい勢いで振り返った。

 先輩の表情からは驚愕や焦りが見て取れる。顔色もすさまじい勢いで青ざめていった。

 はい、ビンゴ。

「…………五時にゴミ捨て場のところで待ってます」

 俺は低い声でそう呟いてから、他のマネージャーたちのいるところへ戻った。




午後五時


 全く人の気配がしないゴミ捨て場で突っ立っていると、ジャリ、ジャリと足音が近づいてくる。

 音のするほうを見ると、立川先輩が近づいてきた。その表情は普段のような優しいものではなく、何かに憑かれたような表情だった。

「待ってましたよ、先輩。要件は分かりますよね?」

「…………」

 立川先輩は何も喋らない。

 俺は構わず続ける。

「実は先月の終わりに、公園で女の子に絡んでいた不審者を追い払ったことがあるんですけど…………あれ、先輩ですよね?」

「……何の話だい?」

 先輩はとぼけようとしているが、表情は固まっており、その声はやや上ずっていた。

「一応分かった理由を説明しますけど、昨日の学校帰りにした俺との会話を覚えてますか?」


『そういえば君の家は宣里山の辺りだったね』


「俺、これまで陸上部の人に『宣里山に住んでる』って言った覚えがないんですよ。なのに先輩は知ってた。そこであれって思ったのがまず一つ」

「それは…………君が宣里山から乗るのを見たことがあって」

「何言ってるんですか。先輩の家の最寄り駅は宣里山より学校側だから、俺が電車に乗り降りするところなんて見たことないはずです」

「! どうして俺の住所を……」

 先輩は驚きを隠せない様子だった。

「別にそれはどうでもいいじゃないですか。あと、あのときの人が立川先輩だって分かった決定的な理由……何だと思いますか」

「…………知らねえよ」

 先輩の口調からはいつものような丁寧さがなくなっていた。

「まあ、ぶっちゃけると偶然と勘なんですけどね」

「は?」

 先輩はキョトンとしている。

 俺は笑いそうになるのを必死に堪えながら続ける。

「昨日先輩と別れるときに、先輩の走ってる後ろ姿を見て違和感を抱いたんです」

「…………」

「そして宣里山で降りたときに偶然、あの時の女の子と会ったんですよ。そこで気づいたんです、先輩の走る後ろ姿と、あの時の不審者の逃げるときの後ろ姿がそっくりだってことに」

「な……それだけで分かるわけないだろ!」

 先輩は声を荒げた。

「でも事実として俺は分かったんですよ。フォームがめちゃくちゃ綺麗でしたし。あと陸上経験者でもないと私服や制服を着てあそこまで速く走れる人ってなかなかいないですよ」

「…………証拠はそれだけか?」

「あとは……強いて言うなら先輩がここに来てくれたことですかね」

 俺が答えると、先輩は歪んだ表情でクツクツと笑った。

「…………ああ、そうだ。君が言うあの時の不審者は僕だよ! だからどうした! 何が目的かは知らないが、証拠もないんじゃ君以外は分かりようもないだろ! 馬鹿じゃねぇの!?」

「はい、ありがとうございました」

「あぁ? 何言って…………っ!」

 俺はブレザーの内ポケットから細い筒状の機器を取り出した。ごく普通のICレコ

ーダーだ。

 それを見た途端、立川先輩が尋常じゃない速さで距離を詰めてきた。

「ざっけんなてめえ!」

 目をカッと開き、叫びながら襲い掛かってくるその姿はまるで獣のようであった。

 彼は俺からレコーダーを奪おうと手を伸ばしてくるが、俺が手を後ろに回したため空を切る。

「よこせって言ってんだろお!」

 そして先輩は左手で俺の胸倉を掴み、力任せに校舎の壁に叩きつけた。

「うっ!……」

 別に大して痛くもないが俺はわざと顔に苦悶の色を浮かべ、うめき声を出した。

 直後、先輩の右の拳が目前に迫ってきた。俺は避けずに顔で受け止めた。

「ぐっ……」

 顔に強い衝撃が走る。

 …………そろそろいいだろう。


 先輩が次の動作に入る前に、俺は先輩の左手を払ってから彼の空いた鳩尾に鋭く左ボディーを打ち込んだ。





 

 

 

 









 

  







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