第7話 俺と彼女と

 白い球体がこちらに目掛けて飛んでくる。

 カキンッ

 それをバットで打つ、空振る、打つ、打つ、空振る、打つ、打つ…。

 しばらくの間、不規則なリズムで金属音が鳴り続けた。


 それからしばらくして、ちょうど80球打ち終わったころ。

 武志が口を開いた。

「なぁ、残りの20球勝負しよーぜ」

 俺は汗を拭い、横を向く。

「ルールは?」

「より多くボールに当てたほうが勝ち」

「賭けるものは?」

 俺が尋ねると、特に考えていなかったのか武志は数秒だけ黙考し、こう言った。

「負けたらジュース一本おごり」

「乗った」


 自分で打ちながら数えて間違えてはいけないので、先に武志が打ち、その間に俺が回数を数える。


 そして打ち終えた武志がレーンから出てくる。

「何回当たってた?」

「18回」

「まぁまぁだな」

 確率的な話をすると打率は90%。少し厳しい気がした。

「じゃー交代な」

「ああ」

 俺はバットを手にレーンに入る。

 ふと上を向くと、空はオレンジ色に染まっていた。


 

「広行、ラスト!」

 気付けば残り1球となった。空振った回数は1回だけ、次に当てれば俺の勝ちである。

 最後の球が飛んでくる。振る瞬間に力を最大にこめ、バットを振る。

 そして、心地よい金属音が響いた。




「いやー、負けちった!」

「……こうも接戦になるなんてな」

 武志は爽やかな表情で笑い、俺は疲れきった声で返した。二人で話しながらビルを出た。

 ビルの入り口の近くにちょうど自販機があった。

「あそこで買っていい?」

「おう」

 武志はポケットから財布を取り出した。

 自販機の前に立ち、しばらく考える。

 迷いに迷った結果、ドクペと略される某胡麻博士を選んだ。

 缶を取り出し、礼を言おうとして武志のほうを向くと、不思議そうにこっちを見ていた。

「お前……それ飲めんの?」

「え?……あぁ、普通に好きだけど」

 一瞬、武志の言っている意味が分からなかったが、遅れて理解する。

 確かにこれは他のものでは例えることが難しい独特な甘さが特徴だ。そのため、人によって好き嫌いが激しく分かれることでも有名だ。

 どうやら武志はあまり好まないようだ。

 まぁ俺がそれを選んだのにはもう1つ理由があるのだが。

「もしかしたらこれを飲むのも今日が最後かもしれない」

「もうすぐ死ぬのか?」

 なんでそうなる。

「……これは首都圏以外ではあまり流通していないらしい」

 武志は少しだけ驚いたような顔をする。

「え、マジで?じゃあ向こうでは売ってないのか」

「たぶん」

 実際に向こうに行かないと分からんが。

「じゃー、最期のドクペってことか」

 まるで最期の晩餐みたいだ。

「やり残しはできる限り消しておきたいからな」

 その言葉を聞いた武志は心配そうな顔でこちらを見た。

「おい、広行……」

「大丈夫、わかってる」

 決してやり残したままにはしない。

 もう迷いはない。

「今日中に終わらせる」

「まあ、頑張れよ」

 そこで武志と別れた。





 そして俺は近所の喫茶店に入った。足を踏み入れると微かにコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

「1名様でしょうか」

「後でもう1人来ます」

「それでは一番奥のテーブル席へどうぞ」

 案内された場所に俺は座り、スマホをカバンから取り出す。

 そしてメッセージアプリを起動し、深呼吸して、何度か見直してから遥にメッセ

ージを送った。

 時刻は5時半。今日は部活動はないはずだが、あとは遥の気持ち次第だ。


 10分後、メッセージに既読がつく。返事はないが待ち続けることにした。



 さらに20分後、カランカランという鈴の音とともにドアが開き、制服姿の茶髪の女子が入ってきた。

 彼女は一瞬だけキョロキョロし、俺と目が合った。

 そしてカツ、カツ、とローファーを鳴らしながらこちらへ歩いてくる。その音はいつもより鋭く響いていた。そして彼女は無言で俺の向かいに座った。


 10秒ほど沈黙が流れる。やがて彼女がゆっくりと口を開いた。

「で、何の用?」

 今朝とは違い、何かを非難するような攻撃的な声が響いた。

 俺は唾を飲み、遥に目線を合わせた。

「俺、もうすぐ転校するんだ」

「……知ってる」

 彼女はぶっきらぼうに返した。

 確かに彼女は既にそれは知っている。

 だが、それしか知らない。

「遥にもう少し詳しい事情を話しておきたくて呼んだんだ」

「私には関係ないじゃん、どうしてそんな話を私にするの?」

 彼女の『関係ない』という言葉が少し刺さったが堪える。そもそも彼女にそう言わせた原因は自分なのだから。

「それは······遥が大切な幼馴染だから」

 ほんの一瞬だけ彼女の目に喜びの色が見えたが、再びその目は怒りで染まった。

「……そう」

 彼女は何も言わずに、じっと俺の目を見た。

 許されるかどうかは問題じゃない。俺はただ彼女に誠意を見せなければいけないのだ。今言わないと絶対に後悔する。

「······実は、もうすぐ両親が離婚するんだ」

 遥は少しだけ目を大きくして、すぐに元の表情に戻った。

「俺は父さんに引き取られることになったから、父さんの職場のある大阪に引っ越す」

「そう······なんだ……」

 今度こそ遥は驚きを隠せないようだった。さすがにそこまで遠くへ行くとは思っていなかったのだろう。

 そして少し間をおき、さらに続ける。

「……明後日に東京を出ることになった」

 彼女の表情が固まった。

 そして再び沈黙が訪れる。


 1分は経っただろうか。その1分は数時間のようにも感じられた。

 遥がおもむろに口を開く。

「広行はさ……」

「うん」

 彼女の瞳は僅かに潤んでいた。

「本当に私のこと、大切な幼馴染と思ってる?」

「思ってる」

 俺は間を置かずにに答える。

「じゃあ……なんでそんな大事なことを今まで黙ってたの?」

 彼女の声は震えていた。

 彼女の目には悲しみ、悔しさ、疑問の色が浮かんでいた。

 ……もちろん理由はある。

 外的要因と内的要因。

 確かに今回の件、外的要因は自分ではどうしようもなかった。

 しかし俺が伝えなければいけないのは後者だ。

「俺自身も、昨日の夜に初めて父さんから聞いたんだ」

 攻撃的だった彼女の目が同情的なものに変わった。

 だがそれで終わってはいけない。

 辛くても言わなければならない。

 それが彼女を傷つけたことに対する贖罪だ。

「だけどそれ以上に……」

 だんだんと胸が苦しくなる。息も少し苦しい。

「恐かったんだ……」

 動悸が激しくなる。まだ寒さも居座っている時期にも関わらず汗が流れる。

「話すことが……遥を傷つけることが……そしてその後の遥の言葉を聞くのが、恐

かったんだ」

「……広行」

 遥が俺を呼ぶ。

「一旦外に出よっか」

 彼女は僅かに笑っているように見えた。




 彼女についていった先は何の因果か、昨晩の公園だった。

「流石にまだ夜は寒いね」

「そうだな」

 その寒さのおかげか、さっきよりは冷静になれた。

「私ね……」

 彼女が話を切り出した。

「終業式の後、よく考えてみたんだ。広行が私に話してくれなかった理由。もちろん最初はね、何か言いづらいことがあるんだろうなーって思った」

 次第に彼女の表情が暗くなる。

「でもね、考えれば考えるほどネガティブになっちゃって······広行にとって私は悩みを打ち明けれるほどの関係じゃないのかな、とか、わざわざ引っ越すことを知らせるほどの関係じゃないのかな、って······私は広行のことを大切な幼馴染と思ってるけど、広行からしたら私はただのクラスメイトに過ぎないんじゃないかって」

 彼女は涙をこぼした。

「それで······教室で広行に目を逸らされたとき、私は広行に嫌われてるんじゃないかって思いこんじゃって······」

 彼女は静かに泣いていた。

 もしも今朝、あるいはホームルームの後、彼女に伝えていたらここまで思い詰めさせることはなかっただろう。

 それに、伝えないだけならまだしも、目を逸らして逃げたのは最低だ。擁護のしようもない。

 遥を傷つけたくないとか言っておきながら、最も彼女を傷つけたのは俺だった。

「不安にさせたり、逃げたりしてごめん」

 俺は声を絞りだした。他に何か言うべきなんだろうが、何も思いつかなかった。

「でもね……」

 彼女が寂しそうな笑顔で呟く。

「私も悪いの。そもそも広行をもっと信じてたら変に空回りしなくて済んだし。それに私、広行の気持ちとか事情をちゃんと考えることができてなかった」

「いや、それは……」

 遥が謝ることじゃない、そう俺が返そうとしたところを遮られた。

「私だって、もし広行の立場だったら何をすればいいか分からなくて何もできなかったと思う」

「……でも」

「だから、これでおあいこにしよ」

 その言葉は俺にとって思いがけないものだった。

「……いいのか?」

「うん。私だっていつまでも広行とギクシャクした関係でいたくないし」

 彼女は笑いながらそう言った。そういうことを直接言葉にできるのだから、本当に大した幼馴染だと思った。

「わかった、これでおあいこにしよう」

「……うん!」


 とりあえずこれで、やり残したことはなくなった。そのはずだ。

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