Bohemian Rhapsody
喉にひりつく感覚。熱されていく身体。浮いていく感覚。
酒というのは五感で味わう嗜好物だ。その味だけでは決して判別出来ない要素が多量に詰まっている。たった一杯のショットグラスの裏側には、探究心と冒険心、そして山程の歴史が控えている。
俺の部屋には、そんな大事なものが沢山詰まっているんだ。正確にはそれを飲み干した後のものが、大量に。
「ああ、面倒臭い……」
資源ごみの回収日。次に出す新人賞の日程。バイトのシフト。親からの仕送りが来る日……汎ゆる情報が波のように寄せては引いて俺の頭を撹乱する。それら全てを、ストレートのジンが押し流していく。世の中の大体の出来事というのは、酔いの波には勝てないように出来ている。洒落臭い面倒事も全て、ショットのジン一つでKOだ。俺の頭の中では、イギリス軍の兵士が機関銃を掃射し、ドイツ軍の兵士をなぎ倒している。そいつらは首からプレートを掲げて機関銃手に突撃していくのだ。それら一つ一つにはしっかりと意味がついているが、この際それはどうでもいい。何故なら全て『面倒事』であることに変わりはないからだ。
面倒事は薙ぎ倒されていく。ジンのジュニパーベリーの風味が脳天を貫き、喉を通って俺を串刺しにする。その手際の良さときたらワラキアの串刺し公ヴラド・ツェペシュも驚きの早さだった。しかし、ショットグラスの容量はほんの僅かだ。混じりっけなしのジンはすぐに切れる。純粋なものとはすぐに消耗し、擦り切れてしまうものだ。
時計を見た。時間は七時四十二分。曜日は木曜。何の問題もない。次の日のことなど丸ごと忘れ去って、酒でいっぱいの海に肩まで浸かって溺れてしまおう。そんなことを俺は考えついていた。どうせそれもいつものことであった。
■ □ ■
俺はしがない作家志望だ。その日その日を親からの仕送りとバイトで稼いだ小銭で暮らし、残った時間と金の大半を酒と肴と執筆に費やしている、いわゆる一つのボヘミアンだ。
ボヘミアンというのは、ボヘミア人(チェコ人)のことではない。定職につくことなく、世間から背を向けて、伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な者を、昔はボヘミアンと呼んだのだ。
時代じゃない? そんなのは分かっている。言っちまえば、作家志望なんていうの自体時代じゃないんだから、そんなことは言いっこなしだと俺は思う。
さて、今夜の話だ。俺にも行き着けのバーが一つある。その名も『キラークイーン』だ。聞いたことのある響きだと思う奴が居るかもしれないが、これはイギリスの音楽グループ『クイーン』の有名楽曲の名前をそのまま使っているのだ。聞き覚えがあると思うのはきっとそれだろう。そのバーは俺の家の最寄駅から歩いてすぐの雑居ビルの地下階の一室に収まっている。
年若いバーテンダーが一人で切り盛りしているそのバーはいつも仄暗く、小物を落とした日には次の日の朝になるまでそれは見つからなくなってしまう。定休日は水曜日で、それ以外の日は毎晩やっている。開店時間は夜八時からとなっているが、店主の調子やその日和如何で前後することもある。小さなバーじゃよくあることだ。
俺は酒と煙草の匂いと埃の舞う自室から逃げ出すような調子でもって外に出た。既に日は落ち、街灯の光が夜道を照らしている。
ああ、酒だ。酒が飲める。今日も美味しい酒が飲める! この例えようのない至上の幸福に、俺は思わずスキップで歩みを進めてしまう。幾人かが俺の方を、何か触れてはならないものを見るような目で見てきたが、気にするものか。俺は今から酒を飲みに行くのだ。ただそれだけのことで後ろめたい気持ちになる必要など、何処にもないではないか!
■ □ ■
バー『キラークイーン』は決して綺麗なお店じゃない。勿論それは掃除がなされていないとかそういう意味ではなく、単純に設備が古いのだ。分厚い一枚板の木でしつらえられたそのカウンターはそれこそ木の年輪の如き重厚さを持ち合わせているし、数々の調度品はそれぞれ、シックな空気に似合うだけの古めかしさがあり、とても美しい。
ただそれを、黴臭いと考えるような連中も居る。この店に対する悪評というのは大体がそのようなものだ。勿論それも、バーという空間に対する一つの考え方だろう。阿片窟じみた暗がりの中、ショットグラスにアブサンやらジンやらを淹れてたらたらとそれを飲み続けるような酒の愉しみ方もあれば、明るい空気の中で軽やかにカクテルやビールを飲みたいと考える奴も居るだろう。酒の数だけ飲み方があるのだから、そういったミスマッチングはある程度仕方のないことだと俺は思う。
この店の扉には、オープンと書かれた一枚の札がかけられている。どうやら今日のバーテンは時間通りに店を開いたらしい。俺はすぐさま扉を開き、中へと入る。扉につけられたベルがからんからんと金属質な音を鳴らす。見えない暖簾をくぐり、小さくバーテンダーに目配せする。
「こんばんは」
バーテンはそれだけ言って、グラスを磨き続ける。実に冷静で洗練された所作だ。これは無愛想ではなく、バーテンダーが自分自身を店に置かれた調度品の一つであるという考えを持っているから、それに不釣合いな表情を顔に浮かべないというだけなのだ。
店内は無表情で個性のない照明で照らされている。キッチンの棚の中には俺を含む様々な客のキープボトルやカクテルのベースとなる沢山の種類のリキュールが仕舞われている。
俺は言った。
「マティーニをロンググラスで並々と。ジンはボンベイ・サファイア。ベルモットはチンザノ・ドライ。オリーブはなしで」
「承りました」
バーテンはすぐさま俺の注文した酒を作りにかかる。
マティーニ。カクテルの王様とも呼ばれるこのカクテルはその配分、飲み方だけでもかなりの種類があり、酒にうるさい客に語らせればそれだけで一夜を過ごせるような、シンプルだが奥の深い一杯だ。
この頼み方は恐らく、おおよそ一般的なものとは言えない。しかしここのバーテンは何も言わず、ただそれを作り出してくれる。その魔法の手でもって。
「お待たせしました。マティーニのロング。オリーブ抜きです」
「いつもすまんね」
俺がそうお礼を言うと、バーテンは一言。
「私はあなたの欲するままに、一杯のカクテルを作ったに過ぎませんので」
そう答えてくれる。彼は実に酒をよくよく理解してくれている。
ロンググラスの中に注がれた透明なマティーニ。そう、これこそがキラークイーンにおける俺の中での定番。俺にとっての至高の一杯だ。
勿論、行き着けでもなんでもないバーで一杯目にこんな面倒臭い注文をすれば、それこそ雇われのバーテンダーやらバーテンドレスなんかからは顰蹙を買うこと間違いなしであろうが、そこは馴染みとしての俺の顔と、混み具合を考慮して頼み込むのだ。
そう。今夜は木曜日。バーを含む飲み屋が一番混雑するのは金土の二日間か、或いは祝前日。つまり酔い潰れて次の日が丸ごと便器との真摯なお付き合いで全て消滅しても何とかなる日であることが多い。その点、祝前日でも何でもない平日の木曜日というのは楽なもので、店にもよるのだろうが、最低でもこのバーでは閑古鳥が鳴く。手が空いているので、多少面倒な注文でも暇潰しがてら付き合ってくれる、というわけだ。
■ □ ■
俺が今日この日、このバーに来たのには理由がある。それは勿論、この店のバーテンの腕が卓越しているというのもあるが、美味い酒ならどこでも飲めるし、簡単なカクテルなら家でも作ることが出来る。このバーにはある備品が一つ存在するのだ。丁度この店の雰囲気によく合っている、実に味な装置だ。
それはレコードプレーヤーだ。
俺は音楽好きだが音響マニアというわけではない。しかしやはりこのバーのようなオーセンティックでコンサバティブな空間には、この取り回しのしづらいレコードプレーヤーが存在していて欲しいのだ。
基本的にこの店では、店名につく通りクイーン等のどちらかと言えばポップなブリティッシュ・ロックを流していることが多いのだが、客の少ない時間帯であれば、バーテンダーにリクエストをして店内にある好きなレコードをかけてもらうことが出来る。店に置かれているレコードの種類は様々で、最近は中古屋で売っていたものをそのまま持ち込むような常連も何人か(俺も含めて)存在するので、バリエーションは増える一方なのである。
「店主、EL&Pのトリロジーをかけてもらってもいいかな」
「いいでしょう」
彼はレコード棚からあの黒い円盤を取り出す。
俺はプログレッシブ・ロックが心底好きなのだ。ゆらゆらと波間を漂い、時に嵐が吹き荒れるようなシンフォニックな響きが、強い酒をくいと飲み込んで、喉に通ったアルコールの辛みが口の中に篭もるあの感覚と実によくマッチするのだ。
こうして、俺の中での酔いは一つの完成を見る。後はもうずっと飲みたいだけカクテルを腹に収め、財布の中身をばら撒いて、これからのことを全部忘れ去るだけでいい。
「店主。ジン&ITを。チンザノ・ロッソと、いっとう安いジンで合わせてくれ」
「かしこまりました」
そんな風に、俺が二杯目のカクテルを頼むと、入口のベルが軽い調子でなりだした。俺はそれを酒屋か或いは食材の業者が来たものだと思い、見向きもしなかった。しかし、その来訪者は言ったのだ。
「マンハッタンをロングでたっぷり、チェリーは抜きで。あとはいつも通りお任せで」
なんてスノッブな頼み方だ、と思わず俺は嫌悪感を覚えた。
「承りました」
バーテンはプロだ。眉一つ動かすことなく淡々と注文を受ける。
俺はその、ロングのマンハッタンを頼んだ奴の顔をじっと見た。
そいつは女だった。男の俺がマティーニを頼むように、女であるこいつはマンハッタンを頼んだんだ。
そいつは黒髪のショートで、毛先が水平線を保つように切り揃えられていた。前髪はいわゆるぱっつんという奴で、日本人形のようなその髪型からは何処か近寄りがたい空気が滲み出ていた。肌は、まるで白粉をべったりとつけたような白で、濃い目のルージュがそのキャラクターを際立たせていた。その睫毛はくるんとカールして瞼に届かんばかりであり、またこいつは耳に大きな丸い金のピアスをしている。服装は肩出しの黒いニットのトップスに、デニムジーンズを履いている。これもまた如何にもといった感じで、もし俺がこいつを自分の小説に登場させるとするなら、異性よりも同性にモテるような、バンドのボーカル兼ギターのメジャーデビューを目指す、音楽家としては冴えない、けれども性格のきつくてファンの多い美人。そんな風に描くだろうと思った。
そいつは俺の顔を一切見ることなく、バーテンへ言葉をかける。
「木曜なのに二人目なんて、珍しいね」
「そのようで」
バーテンは淡々と言葉を返す。その手元では、そいつが頼んだであろうマンハッタンが順調に作られている最中である。
俺に対する嫌味か。このスノッブめ。心のなかで俺はそう罵った。勿論口には出さない。それはマナー違反だ。
そいつは次に、俺の方を向いた。
「今かけているこのレコードは、あなたの趣味のもの?」
「ああ、そうだよ」
「ごめんね。この次は私の好みのレコードを流してもいいかしら」
「勿論」
拒否する理由はない。内心で彼女に対して何と思っていようと、客の少ないこの日この時間に、レコードを選ぶ権利は誰にでもあるはずだ。
そう。そう思っていた。彼女がそのレコードを指名するまでは。
「バーテン。この後はスレイヤーの血塗ラレタ世界をお願い」
直後、バーテンはロングのマンハッタンをそいつの目の前においた後、言った。
「かしこまりました……宜しいでしょうか」
そう言ってバーテンは俺の方を見たので、俺は頷いた。しかし内心は違った。
そいつの選曲を聞いた時、俺は思わず卒倒しそうになった。この野郎、いや女は何と言うものを流そうと言うのだ。俺の趣味の真反対を行くアルバムだ。キンキンと響き渡るギターとボーカルのシャウト。題材に取られているのは旧ソ連の歴史に残る殺人鬼アンドレイ・チカチーロに旧日本軍の七三一部隊といった、如何にも悪趣味なものどもで、血塗られた世界というアルバムタイトルに相応しく、曲調はとにかく激しい。曲に合わせて頭を揺らした日には脳震盪を起こして近くの病院の世話になっちまうような、そんな曲ばかりが詰め込まれている。
俺は彼女に言った。
「メタルがお好きで?」
彼女は言葉を返した。目を細めて、優雅に微笑みながら。
「ええ、大好きよ。とくにスレイヤーとか、メガデスとか」
「へえ、そうなんですか。私はプログレッシブ・ロックが好きなんですよ……ここで会ったのも何かの縁です。一杯奢りましょうか」
俺は遠回しに帰れと言っている。そういうつもりだった。
「あら、どうしましょう。タリスカーの十八年でも頂こうかしら」
今この瞬間、俺の中でのこの女のあだ名は決まった。単純明快だ。クソ女だ。或いはアバズレでもいい。
タリスカーの十八年だと! ショット一杯で四桁を超えるような酒を人に奢らせるような馬鹿がいるのか。ふざけてんじゃねえぞ。
「バーテン、マンハッタンのグラスが空になったら、彼女にグラスホッパーを一つ」
どうせこのスノッブのクソ女は、たかがスクリュードライバーやらルシアンやらアレキサンダーと言うような、女殺しのカクテルを頼んだところでびくともしないだろう。それならばせめて人を選ぶカクテルを選んでやる。
グラスホッパー。これはペパーミント・リキュールとホワイトカカオ・リキュール、それに生クリームを組み合わせたカクテルだ。名前の由来はバッタだ。バッタの英名だ。そしてその名の通り、淡い緑色をしている。特徴はその濃ゆい、実に濃ゆいミントの香りだ。
実のところを言うと、俺はこのカクテルがわりと好きだが、人を選ぶカクテルであることは間違いない。
俺の飲むジン&ITが大方なくなってきた頃、彼女のリクエストしたレコードは流れ始めた。
ギンギンギン、ドンドンドン。アーアーアーア。そんな感じだ。とにかく何かが鳴っている、それだけは理解出来る。ボーカルは何かを叫んでいて、それは宙を響かせる。しかし多分その歌詞に意味はあまりない。とにかく叫んでいる。スラッシュ・メタルの語源の如く、繰り返し鞭を打つようにボーカルが叫び続けている。
ああ駄目だ。やはり趣味に合わん。しかし、あからさまに否定出来るほど俺も度胸はないし、酔ってもいない。ああ、どうすればいいものか。
すると、彼女は俺の手元にあるロンググラスを見て、言った。
「あら、空ですか。良かったら私も一つ奢りましょうか」
その時点で既に、嫌な予感がしていた。こいつはきっと、俺と似たようなことを考えているに違いないからだ。
「バーテン、彼にはスレッジハンマーを一つ」
ほらきた、このクソアマめ。分かり易すぎるんだよ! あんまりにも捻りがないもんだから、俺は思わず笑ってしまいそうになった。
スレッジハンマー。日本語で言えば破城槌、つまり城を壊すためのハンマーのことを指す。この時点でお察しだとは思うのだが、物凄くきつい一杯だ。
つまりこういうことだ。このクソアマは俺に強い酒を一杯呷らせて、さっさとこの場からご退場願おうと考えているわけだ。ちょっとしたにわかのスノッブならいざ知らず、俺は酒にも強いし、スレッジハンマーぐらいならすいと飲み切ることが出来る。今に見ていろ!
スレイヤーの血塗ラレタ世界のレコードが丁度ユニット731まで回ったぐらいの頃に、スレッジハンマーは俺の目の前に差し出された。女は美しいその顔で悪辣な笑みを浮かべていた。
俺は破城槌へ口をつける前に、こう言った。
「店主、次はいつも通りにクイーンを流しましょうよ。それが一番いがみ合いのない選択だと思うんでね。あなたもそう思うでしょう」
「ええ、そうね。実のところ私は、プログレッシブ・ロックの誇大妄想じみた世界観があまり好きでないのよ」
直截なその言い方に俺は思わず眉をひそめた。そいつの手元にあったはずの淡い緑のグラスホッパーは既に空になっている。
俺はグラスを掴み、スレッジハンマーを一息に、けれど味わうように舌の上で転がしながらそれを飲んだ。
ウォッカの痛みとも似たきつさが鼻に喉に、そして脳天へと突き通る。ライムの酸味も破城槌の香り付け程度でしかない。しかし、美味い。良い酒だ。俺はバーテンのその腕前に感服した。
女は、露のついたそのグラスを手で弄びながら、俺とバーテンとを交互に見ている。次はどの手を打つんだ。言ってみろ、このクソスノッブのにわか野郎。そんな心の声が聞こえてきそうな嫌味な手つきで、何となくそれがただ何の背景もなしに見た時に、一枚の絵として実によく出来ているという事実に、俺は物凄く腹が立った。
俺はバーテンに一つ、質問をした。
「店主、ここで喧嘩が起きたことは?」
バーテンの眉が少し動いた。言いたいことは分かる。ここは古風で洒落た隠れ家であり、盃と灰皿を投げ合うアメリカ調の店とは違うのだ。
それでも敢えて、俺はこの質問をした。何故なら今から俺はこのスノッブなバンドガールを一つ打ち負かしてやろうと思っているからだった。
バーテンは言った。普段通りの沈着で、淡々とした口調でもって。
「酒場の話はお酒で決着をつけるべきでしょうね。殴り合うなら大通り、罵り合うならカラオケで。私はそう考えています」
バーテンの言い分はもっともであった。そうだ、どうせこの目の前に居る女だって、そして俺だって酒好きであることは間違いないのだ。それならさっさと酒を頼んで頼んで頼みまくって、相手を酔い潰して大通りで虹色の吐瀉物を吐き出す。それで全て世はこともなし。そうあれかし。アーメンラーメンホーリーシットである。
「すいません。テキーラは飲めますかね」
対面に居るそいつはすぐさま言葉を返した。
「勿論」
相手はもう、今から自分達が何をするのかについて十分理解をしているようであった。バーテンは二人の顔を交互に見て、小さく溜め息をついた。
「店主。叩かなければやってもいいよな」
「何をですか?」
「ショットガンだよ」
バーテンはもう一つ追加で嘆息し、渋々と言った体で了承してくれた。
ショットガン。名前からして既に過激な香り漂うこのキーワード、これは酒好き同士がやることの出来る一騎打ちだ。
やり方は簡単だ。テキーラとジンジャエールをハーフアンドハーフで注いだグラスを十杯ほどずらっと並べて、何らかの過程を経た後にそれを一気に飲む。
勿論テキーラは軽い酒じゃないし、炭酸飲料と混ぜて一気に飲み干すので、酔いが回ると一気にガツンと脳天を撃ち抜かれたように倒れてしまう。故にこれをショットガンと呼ぶ……らしいのだが、この呼称はどうやら日本ローカルのもののようで、本当かどうかは誰も知らない。
因みに本来のショットガンはこのグラスを机か何かに叩きつけて炭酸が吹きこぼれる前に一気飲みするという手法を取るのだが、これをやると机は傷付くし、手は汚れるし、挙句酔いが回ってくるとグラスが明後日の方向に吹っ飛んでしまうようなこともありえるので、禁止の場所も多い。
「さあ、あんた。何本勝負でやる? 俺は五杯でも十杯でも、あんたが泣いて飲むのを断るようになるまで飲み切ってやるぜ」
俺が言うと、そいつは笑った。
「あんたこそ、最寄りの救急病院調べておきなさいよ。一晩ぐらい世話になるだろうからね」
「言うじゃないか。じゃあ『取り敢えず』五本勝負と行こうか……なあ店主」
「なんでしょう」
既にバーテンは店にあるいっとう安いテキーラを持ち出し、ショットガンの杯を作る準備をし始めていた。
「そのテキーラ、何本ある?」
「ストックは三本で、他のも含めて八本といったところです」
すると、女はじっと俺の顔を見た。その目に篭もる力に、俺は少しだけ震えた。スノッブだろうが何だろうが、男は美人を見れば多少身構えはするのだ。
「あんた、一本で済むと思う?」
俺は簡潔に答える。
「間違いなく三本は行くね。あんたが潰れたって俺が飲むからな」
「それなら、今この店にあるテキーラ全部今のうちに勘定に入れておくべきよ。あんたも私も飲み過ぎで火星に吹っ飛びでもしなければそれぐらいは行くでしょうよ」
丁度その頃、血塗ラレタ世界のレコードが終わり、店主はクイーンのレコードをかけ始めた。
流れ出した曲は、デス・オン・トゥ・レッグス。ボーカリストのフレディ・マーキュリーが恨みを持つ何者かに捧げた曲だ。今の俺のシチュエーションにぴったりだ。ああ、そうさ。待っていろ悪党め。お前のその綺麗な顔面がテキーラ臭い胃液で匂い付けされるのを俺は心待ちにしているんだ。
「あら、いいじゃない。私、クイーンも大好きなのよ」
そう言って悪党はその細くて白い指でレコードを指差す。その爪は鮮明な赤で塗り染められていた。
「俺もクイーンは大好きだ。とくにボヘミアン・ラプソディが好きだ。まるで俺の人生みたいで、それでいてお前の末路にもよく似ている」
俺が返すと、そいつは笑った。冷凍室に入れられたドライ・ジンみたいにとろんとしていて透明で、怪しげな笑みだった。
「まるでそうね。全くもってその通り。だから私はあんたが大嫌い。マティーニで面倒臭い注文つけるクソスノッブで、気取り屋のあんたがね」
「奇遇だな。俺も同じことを思ってた。まるで自分が女王であるかのようにマンハッタンを面倒臭い頼み方してすいすいそれを飲んで、さっさと退場して欲しいと思っていてさ。全くその通り、同じ言葉を返してやろうじゃあないか」
彼女は笑う。そして、道端に居るボロボロの野良猫を見るような、そんな風な目で俺を見た。そして、彼女は歌いだした。
「これは現実か? それともただの幻なのか?」
美しい歌声だった。それは透き通っていて、それで居て琥珀色で、まるでウィスキーの注がれたショットグラスのようだった。ボヘミアン・ラプソディの和訳であることが、俺には一発で分かった。
俺もまたそれを、歌で返した。
「まるで地滑りに遭ったみたいだ。現実から逃れることは出来ない」
バーテンは俺達を尻目に、淡々とショットガンを作っていく。ガンスミスも驚きの精密さでもって、淡々と。
「目を見開いて、空を仰ぎ見るがいい」
俺の番だ。
「俺は哀れな男さ。だが同情は要らない。いつも気ままに流離ってきたのだから」
弾丸は込められていく。俺達の机の前に、一杯、二杯、三杯……。
「いいこともあれば、悪いこともある。どっちにしたって風は吹くのさ。私にとって大したことじゃない」
そうして弾丸は並んだ。お互い五発ずつ。美しく泡立つその弾丸を、俺達は手に持った。
「ママ、たった今人を殺してきた」
俺は彼女の顔をじっと見た。美しかった。こいつじゃなければ惚れていた。俺はそう思った。
「あいつの頭に銃口を突きつけて、引き金をひいたら……」
奴は死んだよ。そう言うところで俺達は一発目のショットガンを撃った。
「軽い軽い。さあ二発目よ。勿論、付き合うわよね?」
「勿論さレディ。このアバズレめ!」
「クソスノッブめ!」
二発目の銃弾は嚥下された。表情に出さずとも、俺は笑っていた。彼女もそうだ。目から笑みが溢れている。なんという光景であろうか。
三発目の銃弾。実に美味い。安いテキーラでなければ失礼にあたるこの飲み方だが、これは美味いのだ。本当に美味い。やれば分かるが、実に美味い。
空いたグラスがバーテンの元へ吸い込まれていく。そして四発目の銃弾がお互いの手元へ吸い寄せられる。
ダーン。四発目だ。飲んだくれのブルースがあるのなら今すぐにでも歌いたいような、そんな気分だ。
そして五発目。最後の弾丸は撃ち放たれた。俺達はお互いの顔を見た。この世でもっともご機嫌な表情だった。
「俺ぁあんたがね、いい女なような気がしてきたよ」
「奇遇だね。あたしもそんな気がしてきたよ。あたしは最高の女なんだってね」
「やっぱりお前は最低最悪だ」
「違いない」
そう言って、俺達は笑った。最高の夜だ。まさしくそれは、退廃者たちの狂詩曲<ボヘミアン・ラプソディ>であった。
■ □ ■
何発の銃弾が放たれただろうか。それはマカロニ・ウェスタンか或いはジョン・ウー監督の映画みたいに、訳の分からない数の銃弾が放たれた。その数が二桁を超えた辺りから、二人共カウントするのを諦めたような気がする。酒というのはそんなものだ。
「……ああ。ああああ。ああ」
そんなことをぶつぶつ、言葉にもならぬ呻き声を、うめき。うう、うぐぐぐ。ああああ。んぷっ。んんん。
「……あんた、案外……弱いわね」
「テメエ……テメエこそ」
相手もきっと同じだろう。脳みその中でスレイヤーがガンガンドラムを鳴らしているであろう。きっと本望だろう。スラッシュ・メタルが生で聴けるのだから。
バーテンはぱん、と一拍手を打った。
「今日は店仕舞いにしましょう」
「儲かったろ?」
俺がそう言うと、バーテンは苦笑した。
「金曜の夜に向けて、テキーラを補填しなきゃなりません」
「そりゃご苦労なこって」
女はそう言った。誰も笑わなかった。
俺と女は猫背になって下を向きながら、財布の中にある一万円札を一人一枚ずつ叩きつけた。するとバーテンは言った。
「足りませんけれど……」
まじかよ。どうすりゃいいんだ。ああ、俺は一週間もやしだけで生活するしかないのか。
女もまた、長財布の中を見て項垂れている。
バーテンは言った。
「二人は常連ですから、ツケにしましょう。今夜だけですよ」
俺達二人は平謝りだった。また次の木曜にこようと、そう心に決めた。
二人で肩を組んで外に出ると、既に日がその額をさらけ出していた。二人共、咳払いのようにけほけほと言っている、これは吐き気と戦う者達特有のものだ。
飲むんじゃなかった。嗚呼その通りだ。飲むんじゃなかった。そう思ってもどうせまた飲むだろうに、酔いが悪い方に入ってくるといつもそう思うのだ。頭痛と吐き気と倦怠感とが三重奏で寄せては引いてを繰り返す。
「おう、おう、おおお。おえっ」
セーフ。ギリギリセーフだ。まだ中身は出てない。俺は口から虹色の吐瀉物を出さずに済んでいる。
「さっさと吐いちまいなよ」
「お前こそ」
「あ、あああ。ああ、あううう」
こっちもギリギリセーフだ。何とかなっている。
俺は女をコンビニ前に立たせ、気持ち悪さが俺の胃を完全に押し上げてしまう前に、急いで買い物を済ませた。二日酔いの胃薬に酔い止め薬に、ペットボトルの天然水を四本。そしてしじみの味噌汁を二つ。現金はないので交通マネーだ。
そうしてまた俺は女と肩を組み、すぐ近くのネット喫茶のカップルルームに入室した。ここもカードに対応していたので助かった。こいつと俺はカップルでもなんでもないが、道端に捨てるのはあまりにも忍びない。
俺は女を横にして、その横で薬を全部飲んで、そうした後に頭を抱えて唸り声を上げながら、やがて眠りについた。
二時間ほどたった頃、俺は目を覚ました。最悪の気分だった。頭はガンガンするし、腹の底に澱んだアルコールが溜まり付いているような感じがして、とても気持ちが悪い。女はまだ眠っていた。寝ゲロしてないだけ立派だと褒めてやりたいところだが、睡眠の邪魔をするわけにも行かない。
俺は一人部屋を出て、シャワールームに入った。当たり前かつクソッタレな事実として、タオルと石鹸は有料だ。
俺はその、閉所恐怖症の人間が気を失ってしまいかねないような狭いシャワールームに入り込み、身体を洗い、歯を磨いて、その上に服を着た。服からは、アルコールと煙草の臭いがした。
部屋に戻ると、女は既に目を覚ましていた。
「最悪の朝へようこそ」
俺が言うと、女はボサボサと頭をかき、答える。
「あんた、まだ酔っ払ってんの?」
「いいや。気分が悪くて最悪だ。寝るわけでもないのに女を連れ込む羽目になったしさ」
「……あんた、やってないでしょうね」
「やってねえよ。テメエの服でも確認して、信用ならねえならゴミ箱にコンドームでも入ってないか確認してろ」
そう言うと女は本当に服を軽くチェックし、言った。
「信じることにするわ。あんたがチェリーで助かったよ」
「そーそ。昨晩貴方がマンハッタンから抜き出した、砂糖漬けのチェリーに御座いますよ」
「あっそ」
女は少しだけ笑った。いつもそうしてりゃあいいのに、と心の底から思った。
「その袋に薬と水がある。飲めば少しは楽になる」
「……やけに親切ね。惚れた?」
「酔っ払いの気持ちはよく分かるんだよ。減らず口閉じてさっさと飲みな」
「へいへい」
女はそれらを飲み、天然水のペットボトルを一つ空け、言った。
「もう朝でしょ。喫茶店で茶しない?」
「構わないよ。確かルノアールがあったはずだしな。出るか?」
「そうしましょ……ところでさ」
「あんだよ」
「このしじみの味噌汁、貰っていい?」
「たりめーだろ。勝手に持ってけ」
俺が返すと、彼女はまるで少女のように笑った。インスタントのしじみの味噌汁を持って。
■ □ ■
ルノアールはモーニングの時間だった。新聞を持ったおっさん達が複数人座り込んでいる。
俺は女に聞いた。
「煙草、どうする?」
女は煙草を吸うジェスチャーをしながら、言葉を返した。
「吸う吸う」
「じゃ、喫煙席だな」
ガラスで区切られた喫煙席へ俺達は通された。そこで俺達は各々モーニングメニューを頼んで、互いの煙草を見せあった。
「今時葉巻? 最悪のスノッブね、あんた」
「そういうお前もキセルかよ。お里が知れないな。ブリテン島から出てきたのか?」
「そりゃ、どうだろうねえ」
結局のところ二人は、俺達は背伸びして背伸びして、背伸びし続けた結果頚椎が奇形発達したような、そんな人種だったのだ。それはきっと俺の言葉ではボヘミアンとか言うのだろう。
モーニングはすぐに運ばれてきた。女はヨーグルト、俺はサンドイッチだ。それらを口にしながら、俺達は会話する。
「お前さ。何かバンドでもやってたのか」
「よく分かったわね。小さなスタジオでたまにライブして、自費でしょうもない枚数のCD売ったりしてたわよ」
「分かるに決まってんだろ。如何にもな見た目してやがんだからよ」
「で、そういうあんたは何? 文字に関係してるんじゃなくて?」
「作家志望さ。しがない作家志望。落選作は数知れず、さ」
「やっぱり。あんたも、それこそ『如何にも』よ」
そう言い合って、俺達は静かに笑った。
「で、お前は歌をどっかに売り込んだりするのか?」
「いいや。私、歌やめるのよ」
「なんでさ」
「売れなかったし、それに歳食ったら実家戻って見合いしろってずっと言われてたんだ。だから、歌やめるの」
「意地通せ……なんて無責任なことは言えねえな。芽が出ない辛さは俺もよくよく分かってる。お前はよく頑張ったよ……これも、無責任なんだろうな」
「全くよ。全く無責任だわ……私だって悔しいんだから。でも、ありがとね。言われるとやっぱり安心するよ」
「ボヘミアンも楽じゃねえさ。退廃するにも色々必要だよな」
「何、それ。ボヘミアンって何よ」
「退廃的な生活をする芸術家のことさ。俺はそう読んでるんだ」
「成る程ね、昨日の夜はボヘミアン・ラプソディだったってわけだ」
「そういうこったね」
食事が終わり、コーヒーを飲み終わるまで、二人は無言だった。話さなくても、それで十分だった。俺達は今、世界で二人だけのボヘミアンだった。
「会計はどうする」
そうして俺達は現実に戻った。
「私が払うよ」
「金ねーんだろ」
「あんたこそ。私だってカードぐらいあるし……それに、しじみの味噌汁よ」
成る程な、そう言ってじっとそいつの目を見た。
二人はルノアールの出口で、最後の言葉を交わした。
「シーユーボヘミアン。もう二度と会うことはないでしょう」
「よければまた来世で会おうぜ。シーユーアゲイン、ボヘミアン」
■ □ ■
家に帰った俺は、惨憺たる現実に目をやった。積み上がる空き瓶空き缶。引き裂かれた不採用通知。そして長年付き合ってきたノートパソコン。
気分が悪いままなので、俺は迎え酒をすることにした。
耐熱グラスにアブサン。そしてライター、角砂糖、専用スプーン。
アブサンを注いだ上にスプーン、スプーンの上に角砂糖を乗せ火をつける。赤と青の入り混じった火がよく映える。俺は燃え溶けた角砂糖をアブサンに混ぜ込んで、それを手に持った。
アブサンのボヘミアン・スタイル。有名な飲み方の一つだ。
その一杯を思い切り天に突き上げ、こう言った。
「ボヘミアンの繁栄と衰退に、乾杯!」
了
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