夜に鳴く蝉

 八月十八日。深夜十一時、二十三分。

新宿歌舞伎町のビルとビルとの間に、丁度浮島のような形になっている広場がある。過去は元東急ミラノ座。今はTOHOシネマズ新宿前にあるその広場はシネシティ広場と呼ばれている。

歌舞伎町は夜の街だ。昼と夜ではその表情がまるで違う。例えば昼の歌舞伎町がナチュラルメイクだとするならば、夜の歌舞伎町はフルメイクなのである。

その、歌舞伎町シネシティ広場にて、一人の少女が、体育座りで顔を埋めて一人、泣いている。少女はオフショルダーのトップスに如何にも作り物っぽい黒のレースがついたキュロットスカートに安物のブーツを履いた、今風の派手な服装をしている。

飢えたハイエナのような、客引きやホストの男が少女に声をかけるが、少女はそれを意に介さない。少しして、無視されていると感じた男達は短く罵倒語を発し、そこを去る。時間が経てば、少女は巡回の警察官に補導されてしまうのだろうが、幸か不幸か、少女に声をかけたのは、先述したようなハイエナのような男でも勤勉な警察官でもない、また別の、一人の少女であった。

「そんなところで何してるの?」

 少女が目を上げるとそこには、驚いたことに、セーラー服を身に纏う少女が居た。それも、夏のもっとも暑い時期であると言うのにその少女は長袖のセーラー服を着ている。

もう一人の少女。即ち、うずくまっている方の少女は言った。

「……あんた、学生? 学生がこんなところで何をしてんのさ」

 そう言われた方の少女は、何一つ悪びれることなく、自信に満ち満ちた表情でこう返す。

「女子高生がただ一人、夜の歌舞伎町を歩いちゃいけないなんて法律。この世界の何処にも存在しないんだよ」

 すると、もう一人の少女は笑って返した。

「なに、それ。おかし……普通、補導されるよ。あんたがもし本当に女子高生ならね」

 すると少女は、くすぐられた時のように自然に、朗らかに笑う。

「あはははは。信じてくれたんだあ……そういう仕事だよ。そういう服を着るのが仕事の一環なの」

「成程ね。で、何の用?」

 と、少女が問うと、相手は途端に目をそらし、右手で頭をかく。

「うーん。うーん……なんか、他人と思えなくってさ。なんか嫌なことあったんでしょ。君を見れば誰だってそう思うはずだよ。違うかな?」

「まあ、そりゃね。それ以外に何を考えつくんだって感じ……でも確かに、ここに居続けてもいいことないんだよね。ポリ公もうろついてるしさ」

「わー、不良の言い方だ」

「あんたが言えること?」

「それもそうだね!」

 そう言って、セーラー服の少女は夜の街に不似合いな、朗らかな笑みを浮かべる。

「じゃ、どっか行こうよ。ここではない何処か」

「ここではない何処か、って?」

「うーん。少なくとも、勤勉な警察官の目に入らないようなところ、かな?」

 行こう。そう言ってセーラー服の少女はもう一人の少女の手を取り、歩き出す。

その瞬間に、思う。セーラー服の彼女はまるで、男の子みたいだなあ……と。


* * *


 歌舞伎町を抜けて区役所通りに出た二人は、すぐさま道行くタクシーを拾い、それに乗り込んだ。

「区役所通りを真っ直ぐ行って、明治通りの交差点左に曲がって下さい」

 セーラー服の少女は全く言い淀むこともなく、言い慣れた感じで指示を出す。タクシーは走り出した。

「ねえねえ」

 セーラー服の少女がもう一人の少女に話しかける。

「何。あたし、タクシー代出せないよ?」

「そんなのはどうでもいいよ。私が出す」

「金持ちなんだ」

「そうかもね」

 一瞬だけ、セーラー服の少女の顔に陰が差すのを、彼女は見た。

「それよりさ。香水、もっといいの使った方がいいよ?」

「なに、それ? 余計なお世話」

「だってさぁ、折角可愛いのに。こんな安物の甘ったるいいちごミルクみたいな匂いじゃ馬鹿にされちゃうよ」

「ああ、そう」

 可愛いのに。彼女はそう言ったが、同性の言う"可愛い"はあまり信用出来ないと少女は思った。その言葉には多分に御為ごかしやお世辞が混じっているものだからだ。

「あ、すいません。大久保通りを過ぎた辺りで止めて貰えますか?」

 セーラー服の彼女が言うと、タクシーは丁度サイゼリア・ジョナサンがある辺りで停止した。タクシーの料金が決定される。

「支払いカードで!」

 彼女はそう言って、胸ポケットの膨らみから一枚のカードを取り出し運転手にそれを渡す。運転手はいそいそと印紙をクリップボードにくっつけて、ペンと共に彼女へ手渡す。彼女は慣れた感じにささっと名前を書き、タクシー運転手にそれを手渡す。

『大場菜月』

 それが彼女の名前だった。


* * *


 タクシーを降りた二人は、セーラー服の彼女の強い希望でサイゼリヤに入った。

「私ね、ここのパルマ風スパゲティが物凄く好きなの」

「庶民的な金持ちもいたもんだね?」

「ふふ。安上がりな女なの、私」

 彼女はそう言って、家のソファにでも座るかのような調子で席に座り、もう一人の少女はその反対側の椅子に座り込んだ。

「私はもう決まってる。君は?」

「あたしも決まってる。あと、あたしの名前は明菜だから。あんた菜月って言うんでしょ?」

「およよ。何処でそれを知ったのかな?」

「さっきタクシーの中でそう書いてた」

「なるほど。そういうことだったのかあ」

 言いながら、セーラー服の少女は呼び出しボタンを押す。

「パルマ風スパゲティにドリンクバー!」

「あ、あたしはイタリアンプリン」

「ドリンクバーはいいの?」

「いいんだよ。私は水で」

「じゃ、それで。以上です」

 注文を終えると彼女はスキップするような足取りでドリンクバーに向かい、帰る頃にはその手に緑色の炭酸飲料を手に持っていた。

「私ねえ、メロンソーダが好きなんだ」

「好きなものが多いってのはいいことだね」

「……本当にそう思う?」

 菜月は唐突に、真剣な表情でそう言い出すので、明菜はそれを誤魔化すように小さく咳き込むように、笑った。

「なんよ、突然。好きなものが多くて悪いことなんかないっしょ。普通の話だよ」

「それもそっかぁ」

 そんな他愛もない会話をした後、明菜は自分が水を持ってきていないことに気が付き、席を立った。そして、明菜が戻る頃には既に注文したものが来ていた。

その大して多いでもないものを食べ終えてから、菜月は明菜に質問する。

「で結局、なんであんな場所で一人だったの」

「大体もう察してるでしょ。男にフラれたの」

「いい人だったの?」

「最悪。セックスは乱暴だしくっさい煙草吸うし、挙句の果てに『もう飽きた』って。たった一言。それだけで全部終わり」

「悪縁が切れた、とは思わないのかな」

「……まぁねぇ。悪い男って言えばそれまでなんだけど、惚れた時はそういうのって見えないもんじゃん。で、いくらそいつが嫌だなあとか思っても、やっぱり何処かで大事に思ってる。だから、フラれれば辛いし凹む。みんなは知らないけど、あたしはそうなんだよ」

「ふうん。そんなものかあ」

「そう。そんなもの」

 明菜がそれを話し出してからはずっと、ただただ一方的に明菜だけが話し続けた。

学校に居ても面白くないこと。

成績が良くても褒めて貰えないこと。

親や周りの反応を期待して不良っぽいことをしてみるが、何も良いことはないということ。そんな話をずっと、ずっとし続けた。菜月はそれを黙々と聞き続ける。たまにドリンクバーに行ってはメロンソーダを補充しながら……。


* * *


「……でさあ。あたしんちの親父の稼ぎが少ないのに、無理してあたしに塾とか予備校通わせて、んでこうなったわけでしょ。最悪よね、親からすれば」

「ははは。まあ、子供がどう育つかなんて想像つかないもんね」

「……でさ。あたしずうーっと喋ってるけれど、菜月の方はどうなの。セーラー服着て歌舞伎町歩くような人生送ってきたんでしょ?」

「そうだねぇ……じゃあ、私の話もそろそろしようかな?」

 菜月がそう言った瞬間、近くを通りがかる店員は言った。

「ラストオーダーですけど、何か頼みますか?」

「え、ラストオーダー?」

 菜月はそう言って目をパチクリさせているので、明菜はそこに割って入るようにして言葉を挟んだ。

「あの、すいません。ここって何時までですか?」

「二時までです」

「あー……成程。そういうことか。注文はいいです」

「承知しました」

 店員が去ると、菜月は私に問うた。

「ラストオーダーって、何?」

「もうこれ以降は注文出来ませんよ、って意味」

「なんで注文できないの」

「そりゃあ、店が閉まるからだよ」

「ええーっ! それは、困ったなあ」

「何。あんた閉店時間も意識しないで店入ったの? それなら隣のジョナサンにしとけばよかった」

「だって、パルマ風スパゲティ好きなんだもん」

「駄々捏ねるな。で、閉まる前に出ちゃおう。支払いはどうする?」

「私に任せて!」

 菜月はそう言って、胸を張りながら会計に向かう。

「支払いカードで!」

 菜月が言うと、店員は困惑した様子でこう返す。

「すいません。カード使えないんです」

 それを聞いた菜月は顔を真っ青にして明菜の方を見た。

「仕方ないなぁ……」

 そう言って明菜は財布からお金を取り出し、それを支払った。

店を出てすぐ、菜月は深く息を吸い、そして吐き出す。

「びっくりしたよう。まさかカードが使えないなんて」

「サイゼはカード使えないんだよ」

「私、カードって何処でも使えるものだと思ってた」

「……あんた、案外世間知らずなんだね」

「女の子には欠点があった方がいいと思うよ」

「そういう話じゃないんだけどな……で、どうするのさ。隣のジョナサン入る?」

「……いや。それより、何処か公園に行きたいな。このへんにそういうの、ない?」


* * *


 サイゼリヤを出た二人は、少し歩いたところにある戸山公園の大久保地区はいこいの広場に辿り着く。

「しっかしさぁ。真夏の夜に公園に来ることもないと思うんだよね。だってさ、蚊とか居るじゃん。刺されるのいや」

「ごめんね。少しで終わるから」

「何が?」

 これ。そう言って菜月が胸ポケットから取り出したのは……煙草だった。

「ええ、あんた煙草吸うの?」

「意外?」

「意外も意外。それに……あんた」

「? どうしたの」

「あんた、吸ってんのラキストなんだ」

「ん、あー……本当だ。そうだね」

「ラキストの臭い、あたし嫌いなんだよね」

「ああ、もしかして」

「そ。私をフった奴が吸ってたの。ラキスト」

「ごめんね」

「なんであんたが謝るのさ」

「女の子には幻想が必要なのだ」

「……今更だけど、あんたわりと適当に物を言うんだね?」

「あっちゃあ。バレとりましたか」

「そりゃあね……好きに吸いなよ。私をフった男の臭い煙草をさ」

「はいはい。ごめんつかまつりますう」

 そう言いながら菜月は、胸ポケットに入れていたライターの火をつけて、手慣れた調子で煙草を吸い始める。

「あんたの胸ポケット、ドラえもんの四次元ポケットみたいだね」

「だって、カードに煙草。ライターぐらいしか入ってないもん。スマホはスカートのポケット」

 言って、菜月は煙草の煙を口からふっと吹く。

「それだけじゃ不安にならない?」

「んー……大体、カードは使えるから、そんなに不安じゃないかな。泥棒とかカツアゲとか、あったら怖いじゃん?」

「でも、千円札一枚ぐらい突っ込んどいた方が何かと便利だよ。さっきみたいなこともあるんだし」

「うん……次からは、そうしようかな?」

 菜月は、白と紺の組み合わされたそのセーラー服とあまりに不似合いな煙草を吸い続けている。しかし、半端なところでそれを近くの灰皿に投げ入れた。

「? 最後まで吸わないの?」

 明菜がそう質問すると、菜月はまたあの、軽やかな笑いと共に言葉を返す。

「ははは……ちょっと、思ってたより重くって。駄目だねやっぱ……いつもは違うの、吸ってたんだけど」

 菜月のその様子を見て、明菜は深くため息をついた。

「はあぁ……なんつーかさあ」

「ん?」

「あんたはあんたで込み入った事情があるみたいだね」

「あら。分かっちゃった?」

「そりゃ、分かるさね。分からない奴は、大馬鹿だよ」

 そう話す二人の頭上には、この真夜中の見当違いな時間帯に、鳴き叫ぶセミがいた。


* * *


「なんか、汗かいちゃったね」

 戸山公園を出て、海城中学校の辺りを過ぎた辺りで、菜月は明菜に向かってそう言った。

「夏なんだから、外を歩けば汗ぐらいかくよ」

「何処かでシャワー浴びたいなあ」

「贅沢なことを言うんだね」

「だって私は、世間知らずのお金持ちだもの」

「どうやらお嬢様ではないらしいけど」

「それもそうだね!」

 そう言って菜月は、笑った。明菜も同じように、笑った。

二人は大久保近辺の入り組んだ道の中へと入っていく。その中にあったホテルを見て、得心したと言った調子で菜月は言い出す。

「そうだ。ホテル入っちゃおうよ!」

 それを聞いて明菜は赤面する。

「ばっ! 世間知らずも程々にしなよ。あれはラブホテルだよ。男と女がセックスするために入る場所!」

「それぐらい、知ってるよ。でも、ホテルとしても使える」

 言われてみれば、菜月は"そういう仕事"をしているのであった。

「支払いはどうするの?」

「カードがあるもん」

「成程ね……でもそれも、使えるところと使えないところぐらい、あるんじゃないかな」

「なら、使えるところが見つかるまで行って周ればいいじゃない」

「……分かった。分かったよ。参りました。降参、付き合ってあげる」

「やったぁ!」

 そう言って菜月ははしゃぎ、十歩ぐらいスキップで歩いた後、ふっと明菜の方を振り返り、言った。

「なんか、恋人同士みたいだね!」

 何を馬鹿なことを、と明菜は思ったが、それと同時に、悪くないと思ったのも事実だった。


* * *


 そうして、菜月と明菜は二人でホテルに入った。セーラー服を着た菜月を見て、外国人の店員は一瞬だけ怪訝な顔になるが、明菜を見るとそれもなくなり、先払いで料金を請求する。幸いにもカードは使用可能だった。

二人はルームキーを持って、狭苦しいエレベーターに乗り込む。四階の404号室だ。

ルームキーを差し込み、扉を開くと、菜月はわあいと言って、二人で寝るように作られたベッドに転がり込んだ。

「おっきー! やらかーい!」

 そう言って枕に顔を埋めて、脚をじたばたさせる。

「……子供か?」

 せめて靴ぐらい脱ぎなさいよ。そう言いながら明菜は靴を脱ぎ、室内にある椅子に座り込む。

「シャワーしよシャワー」

 菜月はそう言い出すなり、お風呂場に隣接する洗面所に入り、服を脱ぎ始める。明菜が洗面所のドアを閉めると、菜月は

「一緒に入らないのー?」

 と言い出した。

「こんな狭いお風呂、二人で入っても仕方ないでしょ」

 その言葉ももう聞こえていないようで、菜月は全ての服を脱ぎ終わり、風呂場に入る。

「あたしも、化粧落とさなきゃ」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、明菜は洗面所に入る。

「……酷い顔」

 フルメイクで仕立てたはずのその顔には涙の跡があり、目元は泣き腫れている。それが何処かおばけみたいに思えるので、こんなのを一緒に居る菜月はすごいなあと、他人事のように思った。

「ねえ、明菜! お風呂の入れ方これどうやるのー?」

 風呂場から声がする。世話の焼ける子だなと思いながら風呂場に向かおうとしたその瞬間、菜月が脱ぎ捨てたセーラー服の胸ポケットからはみ出しているあるものを見た。

『六本木高校一年 大場菜月』

 それは、学生証だった。そして、学生証を見る限りでは、彼女……菜月は明菜の二つ下であった。

「明菜ぁ。何で来ないの? そっち行っちゃうよ。えい!」

 菜月はそう言って、風呂場の扉を開く。一糸まとわぬ姿の菜月を見て、明菜はまた驚かされた。

菜月のその身体には、傷や痣があちこちについていたのだった。


* * *


 明菜は、手慣れた調子で風呂場のお湯と水の蛇口をひねり、温度を調節する。それを見て菜月は

「へえ、そうやるんだ」

 と、素直に関心している。

「それよりもさ、あんた」

 明菜が何かを言おうとするその前に、菜月は言った。

「どうせだし。シャワー、浴びちゃわない? 私、流すよ」

「……そうだね。分かった。服脱ぐからちょっと待っててよ」

「うん、いつまでも待ってるよ」

「そんなにかからないってば……」

 明菜が言った通り、脱衣は数分で終えられた。風呂場に入り、シャワーの蛇口をひねる。まだ十分に湯の張らない浴槽に座りながら、菜月は言う。

「背中流すってよく言うけど、どうやればいいんだろ?」

「黙って座ってなさいな」

「えぇ? でもなあ」

「いいの。慣れないことをするもんじゃないよ」

「それも、そっか」

 ひとしきり身体を濡らし、髪の毛でシャンプーを泡立ててながら、明菜は質問をする。

「あのさ。あんた……学生だったんだね」

「うん。そうだよ」

 あっけらかんと菜月は言葉を返す。

「そういう服を着る仕事って言うから、てっきり私はデリヘル嬢かなんかだと思ってたよ」

「嘘は言ってないもん。学生は制服を着なきゃいけない仕事だからね」

「そりゃ、詭弁だよ」

 そう言いながら明菜はシャンプーを洗い落とし、今度はトリートメントをやり始める。

「それに……その傷とか痣は何? 格闘技でもやってるの?」

「うーん……これはね。私のお母さんがちょっと怒りっぽくて。よく殴ったりするの」

「酷い。虐待じゃん」

「でもね、でもね。お母さんは顔とか手とか、あと脛とか、目に見えるところは殴らないんだよ。同じ女だからかな……優しいよね」

 何処が。そんな言葉を吐き出そうとして、それをぐっと堪える。彼女には彼女なりの、精神的均衡を保つための工夫が存在するんだと、自分自身にそう言い聞かせる。

「お父さんは何も言わないの?」

 トリートメントをしたまま身体を洗い始めながら、明菜は質問する。菜月は言った。

「お父さんは……今、別居してるから。離婚はしてないんだけど、お金だけは貰ってるみたい。私のあのカードも、お父さんの奴なんだ。なんか物凄いところで働いてるらしいんだけど、私にはよく分かんない」

「……そっか」

 泡立てたボディソープで身体を洗う途上、菜月はただ一人、呟くように自身の境遇を話す。

「それで私、嫌になっちゃって……お父さんのところに行ったの。優しくしてくれるかなって。初めは物凄く優しかった。不自然なぐらい……でも、父親ってこんなもんなのかなあって、その時は思ってた」

 明菜が手を止めた。

「あんた。まさか」

「そう。そういうこと……こういうホテルに入って男女がするようなことを、させられたの。びっくりした。あれほどびっくりしたことは今までに、ないかな」

「……そうだろうね」

「それで私、お父さんのところから出て、でも家にも帰りたくなくて」

「だから、あそこにいた」

「そう。なんか似てるなあって思ったんだ。この子も何処かでひどい目にあったんだって。そう思ったら居ても立ってもいられなくて」

 明菜は思った。自分の不幸なんて、この子の不幸と比べれば大したことはない、と。でもだからと言って、そう言って何になる? あんたはあたしなんかよりずっと不幸で可哀想な子だよと言ったところで、この子が本当に救われるのか? そう思えば、そう考える程、明菜は何も言葉を発せなくなっていった。

「ねえ、明菜」

「……何?」

 その声は、自分でも驚くぐらい弱々しかった。

「一緒にお風呂、入らない? 私と明菜なら二人で入れると思うんだ」

「いいよ……ちょっと待ってね」

 身体を洗い流した後、明菜は菜月が既に入っている浴槽に身を浸す。するとたちまちお湯は溢れ出した。排水溝が水を流し切れず、プラスチック製の椅子が水の上に浮かぶ。

「溢れちゃったね」

 菜月は言った。明菜は浴槽に湯を注ぐ蛇口を締め、言った。

「あたしたちがこうやって蛇口を締めたり開けたりするだけで、世界が一変しちゃえばいいのにね」

「うん。私もそう思う……ところで、このボタンはなんだろう?」

 そう言いながら、菜月は浴槽近くのボタンを押した。すると部屋が暗くなり、浴槽のそこからライトが差した。

「わあ、すごい! 綺麗!」

 菜月は本当に嬉しそうに、そう言って笑う。

「……ねえ、明菜」

「ん、どうしたの?」

「なんで、明菜が泣いてるの?」

 え。そう言って自身の頬を触ると、お湯とは違う別の液体が流れ落ちているのが分かった。

「明菜が泣いたら、私も悲しいよ……悲しくなっちゃうよ。ねえ……明菜?」

「なんだよ」

「私も、泣いていい?」

 明菜は無言で頷いた。

二人の少女の泣く声が、シャワールームの中で反響した。


* * *


 いくらかの時間が過ぎてから、二人は風呂場を出た。そこから先はお互いのことを名前で呼び合いながら、自分達が今までに受けてきたことや、或いは嬉しかったことについて話をした。

しかし、全ての夜がそうであるように、空は明け白み始め、やがて朝になる。二人はまた服を着て、二人で人の少ない大久保通りを歩く。

「あぁ、スッキリした!」

 菜月は、心底楽しそうに、そう言った。

「ねえ、明菜」

「なあに?」

「明菜の家は、どこにあるの?」

「高島平」

「……そっかぁ。私はね、吉祥寺。だから電車は、反対だね」

「うん、そうなる」

「離れ離れだね」

「悲しい言い方するなよ」

「それもそうだね」

 でも、それは事実だった。

「ねえ、菜月とあたしでさ。電話とかメアドとか、交換すれば……」

「嫌」

「……なんでよ」

「私、今夜のこと……明菜とのこと。日常の中に組み込みたくないの。携帯電話の中にある一つの情報。私が取り扱う日常世界の一部に、明菜を、押し込みたくない。今夜のことは、私にとって特別だから……だから、嫌」

「難しいこと言うんだね」

「うん。でも、そういうことなの……明菜のことは大好き。でも、大好きだから、そうしたくないの……ねえ」

「今度はなあに?」

「明菜は私のこと、好き?」

 少し間を置いた後、明菜は応える。

「うん、好き。大好き」

「やったあ!」

 そう言って菜月は笑うので、明菜も同じように、笑っていた。


* * *


 そうして、あたし達二人は、大久保駅のホームで別れていった。

雑然とした新宿駅ホーム。朝のラッシュに巻き込まれて、電車内に押し込まれながら、明菜は考えた。

あたしと菜月とは、あの公園に居た、夜に鳴くセミのようだな、と。そう思った。

見当違いな時間に、見当違いな方向に向かって鳴き叫ぶ。あたし達二人は、そういう存在だった。

「また会えるかな……?」

 その希望が望み薄であることを承知しつつも、車窓から東京の夜明けをみながら、あたしはそう一人ごちた。


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