パラレルワールド・インターセクション
その壁は、配線で覆われていた。
無粋な色合いの壁は長く放置されていた家屋に這いずり回る蔦のごとく赤青緑黄と様々な色のケーブルに覆われている。部屋の温度はコンピュータにとって一番良い状態に設定されており、人肌には寒く感じ取れた。その中で僕は自らの口から規則的に排出される白い吐息に自分自身の存在を確認しながら作業を続けていた。
コンピュータでの作業は長時間に渡って行われていた。黒地に細くアルファベットの浮かび上がる中型のモニタを見つめながらただひたすらにキーボードを叩いていると自分が今何処に居るのか分からなくなることがあり、自らの吐息が私の居場所を示してくれなければ、いつの間にやら自分の意識が何処かに飛んでいってしまったやもしれない。
今や僕達が安心して生活出来る区域はじわじわと減少している傾向にあり、このコンピュータを通じて表示されるコンピュータユーザのオンライン表示のみが僕達以外の生存者が居ることを証明してくれた。その数もまた日々減り続けており、辛うじてオンライン表示をするも点滅を繰り返している場所は既にユーザが息絶えコンピュータのみが呼吸を続けている状態であろうことは容易に想像がついた。そうした生存者たちに私達の計画を話すと、その計画に誰もが賛同し協力を約束してくれた。
こうして、残された僕達にとって最後の希望となる計画の、その第一段階が今始まろうとしていた。構築されたプログラムの最終確認も終わり、今や僕がこのキーボードのエンターをいつ押すか。ただそれだけの問題になっていた。僕は意を決し、キーボードのエンターキーを押す。古ぼけたPCの無機的な動作音と同時に、胸の鼓動が早くなる。
接続を確認。即座に、決まっていた台詞を吐き、送信する。
「ハロー、ワールド」
■ □ ■
父は常に働いていた。父は母と共同でとある有名大学の研究室に住み込んで仕事尽くしの日々を送っていた。親の顔を見れるのはせいぜい週に一度、それも父母のどちらかのみだったし、親からの贈り物と言えば通販で注文されて送られてくるらしい冷凍食品とインスタント食品の山の印象しかない。
そんな僕の家庭事情を見かねてか、近所付き合いという言葉が絶滅の危機に瀕している都会に住んでいながら、隣近所の人達は僕によく世話を焼いてくれた。まず第一に冷凍食品はどうやって食べればいいのかを教わるところから始まり、おやつの時間にお呼ばれしたり、洗濯などの家事を手伝ってもらったり、たかが近所の万年留守番少年でしかない僕に対しこれだけのことをしてもらいながら僕は日々寂寥感を覚えずにはいられなかった。だから僕は夜が嫌いだった。夜になれば友人は居なくとも人は居る学校に行くことも出来ず、夜にお邪魔しては迷惑が掛かるため近所の人に会いに行くことも出来ず、小さかった僕にとっては広すぎるその家の中でただ一人取り残されることになるからだ。
そんな時、僕に友人が出来た。
その友人は時にエヌ氏であり、火星に降り立った死刑囚だったり、白い服の男だったりした。家の中にある、丁度僕の手が届く範囲にあった子供向け小説に出てくる登場人物たちが僕の寂しさを紛らわせてくれた。やがて背が伸びると共に手が届く範囲が増え、僕の友人も増えていった。それはやがて月の高性能コンピュータになったし、猫のピートにもなった。彼らは実際にその場に存在するわけでもないのに、いつも隣に居てくれた。これが原因かは分からないけれど、小学校では友達が一人も居なかった。というのも、どうにも彼らと話が合わなかったのが原因のように思える。しかし、それは当然で、SF小説を好き好んで読む小学生など気味が悪くて好かれやしないという単純な話だ。しかし、本の中の友人たちはそれを罵ることもなく、ただ僕の隣に居てくれた。
そうした、月一回しか親と顔を合わせず友人たちと語らい合うような生活が一切変わらないまま、僕は小学校を卒業し、家近くの中学校の生徒になった。
入学して変わったのは制服と勉強の内容ぐらい。そして僕が二年生になると、親が携帯電話を僕に持たせ始めた。僕からすれば『社会的に見て親という立ち位置に居る人』でしかない男性は、緊急時のためにとこれを手渡しした。それに加えて料金は一切気にせず使って欲しいという言葉が添えられた。男性の言葉に対して僕はただ儀礼的に一言だけ。
「ありがとう」
と言うと、男性は無言で淋しげに微笑を返した。そのやり取りの後に男性は家を出、僕はまた一人になった。初めは何となく携帯電話を開いては閉じてを繰り返したり、色々なボタンを押してみたりしたものの、僕にはどうしてもこれが魅力的な道具であるようには見えず、これを机の上にでもほっぽってしまおうと考えた。
しかし携帯電話は唐突に甲高い電子音を発し始め、僕にその存在をアピールした。その音はまるで自分を手に取れと脅迫するかのように部屋中に響き渡り、僕を驚かせた。携帯電話を開くと、そこには新着メール一件と表示されており、悪戦苦闘しながらもやっとの思いで開くことが出来たメールはタイトルなしで、その内容はただ一言。
「返信求む」
というもので、噂に聞く迷惑メールとも多少趣が違うと感じた僕は、題名を『返信』とした上で何も文字を書かずに返信をすると、一時間ほど立って返答が送られてきた。
「協力感謝する」
そしてこのメールこそが、僕が一生忘れられない数日間の始まりだった。
■ □ ■
実験の第一段階は何の支障もなく終了することが出来た。その結果を報告すると、ネットワーク上に存在する顔も見たことがない協力者たちは皆歓喜に震えた。縋れるものもなく、只々最後の日を待ち続けるだけだった彼らの日々に変化を生むことが出来たようだ。しかしそんな中にあって僕は、両親譲りの科学者風な懐疑主義的考えが頭をもたげてきた。つまり、このまま上手くいくことはないだろうという縁起でもない発想をしてしまったのだ。そうなくてもこの実験はまだ第一段階しか終わっていないのだから、成功というには些か早過ぎるきらいがあるというのもまた事実だった。
■ □ ■
また数日すると、同じアドレスからメールが届いてきた。
「貴方の住む国、現在の年月日について教えて欲しい。出来れば時間もだ」
二度も来てしまった以上、これが詐欺でもただの迷惑メールでも頭が個性的な人であっとしても最後までこのメールに付き合ってやろうと思っていた。無論、それ以外に携帯電話の使い道が考えつかない、というのもあったけれど。
「現在僕は日本に住んでいる。今は二〇〇七年五月十三日の夜七時十二分だ」
すると、判を押したかのように全く同じ内容のメールが送られてきた。
「協力感謝する」
このメールを見て、僕は一つ思い出した。最近ではメールの返答が送られるたびに自動でメールを返答する機械があるらしい。もしかしたらこのメールもその類なのではないかと考え、一つ実験を試みた。
「二度も協力したのだから、もうちょっと何か書いてくれないか」
このメールの二日後に返答された。
「すまない。心理的な問題もあってかどうも人間味に欠ける文章を叩きつけてしまっていたようだ。謝罪しよう」
文面が固いのは相変わらずだが、どうやら相手がコンピュータの類でないということは分かった。
「機械だと疑っていた。返答をありがとう」
と返信すると、相手は三時間後に返答をよこした。
「またしてもお願いでなんだが、電話をかけて欲しい。電話番号はまた送る」
何とも衝撃的な文面だ。
携帯電話に関する知識がない僕でも、この事態はまずいというのが分かる。何せこの相手は顔も住所も性別も分からないわけで、もしここで電話したとして、詐欺や恐喝の類だったなら取り返しのつかない事態になりかねないのではないかと思い始めた。
しかし、そんな僕の思索にかかわらず、相手は電話番号を送り、その上でもし僕から電話をかけるのに不都合がある場合、電話番号さえ教えてくれれば相手からかけても良いという言葉も添えられていた。
普通に考えればこの時点でこのやり取りを終え、ちょっとした冒険をしたことに対する満足感を得られたことにしてしまうのが賢明な判断ということになる。しかし僕は、どうせ携帯電話を使うのもこれで最初で最後だと考え、もし詐欺の類であれば携帯電話の電源を切り、今後一切電源をいれないことにすれば何も起こりはしない。そうすれば何の問題も発生しないと考えた僕はとうとう意を決し、送られてきた番号に電話をかけた。
電話の相手はコール四回分ほど僕を待たせてから、ようやく応答した。
「やあ、はじめまして」
その声を聞いて、僕はほんの少しの間固まった。
「人違いだったかな」
多少、震えた声で僕はそう言った。
「お互い名前を知らせていなかったのは問題だったね。お陰で確認がとれない、というわけさ」
「ははは」
僕はその言動が何だかおかしくて、少し笑ってしまった。成る程、この口調は確かに本人……『彼女』で間違いないだろう。
「何かおかしいところがあったのかな。そうであれば直すから、ぜひご教授願いたい。言い訳がましくてなんだが、僕は人と会話するのが久々なんだ」
声の主は想像よりも芝居がかった口調でもって僕に言葉をかけてくれる。
「いやね。実は少しだけ驚いたんだよ」
「それはどうしてかな?」
「実はね。君が女性だとはつゆほどにも思っていなかったんだ」
■ □ ■
僕は実験を続行しながら、現在の実験で行き交っているデータの量を見つめ続けていた。実験の記録は自動で保存されるようにしているとは言え、機械では捉えきれないデータの変化があるかもしれないという、杞憂となるであろう可能性の高い心配をしていた。そうでなくても偶然的にコンピュータがエラーを吐き出してしまえば、実験記録どころか実験そのものが全て無に帰す可能性だってある。この実験は、今使用されている装置がどれだけの量のデータを相手に送ることが出来るかという趣旨で行われている。だけどそれ以上に僕自身の気晴らしのような気がしないこともないのだ。何故なら、今の僕は昔と同じく近いところで言えば本の中ぐらいにしか友人が居なかったのだからね。
■ □ ■
「さて、何から話したものだろうね。何せ、僕らはお互いのことをあまりにも知らなさすぎる」
僕の言葉を意に介すこともなく、『彼女』はそう言った。
「まず、お互いの名前を教えあうところから始めるべきだと思うよ。えっと、その」
「風早優だ。君の協力、とても助かっている。ありがとう」
僕の逡巡をよそに、彼女は滔々と自分の名前と感謝の言葉とを述べた。しかし、この一言で僕はまたさらに驚いた。
「すごい偶然もあったもんだね。僕の名前も同じなんだ」
「それは本当かい?」
「嘘をついたって得しないよ」
「それもそうだね……さて、君の自己紹介をお願いしたいのだけれど」
「じゃあ、そうだな。えっと、僕は君と同じ名前だ。風早優って言うんだ」
「うん、いい名前なんじゃないかな。もっともこの場合自画自賛になってしまうけれどもね」
「それも確かに!」
そう言って僕は少しだけ笑った。
「さて、短いが今日はこれまでだ。また協力をお願いしてもいいかい」
僕は何のためらいもなく、即座に答えた。
「勿論」
「では後に、今度は僕から電話をかけようと思う。何時になるか分からないのが申し訳ないけれど、それでお願い出来るかい? その日もし出れなかったら、次の日にまたかけようと思うのだが、迷惑ではないかな?」
「何も問題はないよ。何せ小説を読む以外に時間を裂くことがないんだ」
「へえ、じゃあ次はどんな小説を読んでいるか聞いてみるとするかな? では」
その言葉を最後に、電話が切れた。この夜の僕はどうやら妙な心持ちだったようで、ろくに眠ることも出来なかった。この高揚感か焦燥感か、全く判別のつかない感情が僕を支配し尽くしていた。次の日の朝、これは尽きようもない期待感に変わり、ついでに言えば多少僕を紳士的な気持ちにさせた。普段、学校以外で外出することのない僕は毎日を上の空で過ごし続け、暇があれば携帯電話を見つめている。渡された時は使う機会なんてないと思った携帯電話が今や僕にとって大切な、もう一人の風早優という点と僕という点とを繋ぐ唯一の細い線となったのだ。
次の日曜の夜、その細い線はまた僕らの点と点を繋げた。
■ □ ■
新たな実験のために、僕は時間をおいてまた彼に連絡をする。電話が繋がった丁度その瞬間にタイマーは前回の実験から丁度七二時間が経過したことを知らせた。
「もしもし」
若い少年の声が僕のヘッドセットから聞こえてくる。
「どうも。早速で悪いけれど、今そちらが何年何月何日なのか教えて欲しい。出来れば時刻も欲しいのだけれど」
ほんの少しの間を置いて、彼は答えを返した。
「二〇〇七年五月十六日の午後七時半だよ」
「成る程。ありがとう」
僕が言うと、彼は少し不機嫌になった風な口調でこう言った。
「まさかその一言だけで通話を終わりにするつもりかい?」
「それこそまさか、だよ。僕がそんな失礼なことをすると思っていたのか……」
「ちょ、そんなわけじゃないんだって!」
彼はからかい甲斐があるな。面白い。
「まあいいさ。今日はとことん話そうじゃないか、風早くん」
勿論、実験も兼ねている。この通信がどれだけ継続して行えるか、というチェックをするのが目的なのだ。
「いいね。そうしようか」
内心では、実験のためだとドライに考えているつもりだったが、本当はそうではないということに今気付いた。物言わぬモニタに映り込む私の顔には、確かに笑みがこぼれていたのだ。
■ □ ■
名前だけではない、趣味嗜好や境遇すら僕ら二人は似通っていた。通話時間は長時間に及び、顔すら知らないのに僕ら二人はまるで長い付き合いのある友人同士のようにお互いのことを語り合った。
電話を切った後に訪れる静寂すら、今の僕にとっては心地良く感じ取れる。恐らくこの地球上、多分日本のどこかに彼女が居ると思えば、今まであれだけ寂しいと感じたこの家の中も天国の心地となった。
その次の朝も、昼も、夜も。僕は彼女のことを考え続けていた。彼女の声を、見たことのない彼女の風貌を。勉強なんて身が入るわけもなかった。この時点で、僕は気付いていた。これは、小説でしか見かけたことのない感情の一つだ。
僕は、恋をしていた。
しかしあの電話の後、彼女からの連絡は途絶えた。三日目までは良かった、五日目に変だと思い始め、一週間を過ぎた頃にその感情は真反対の方向を向いていた。何か機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。ただ忙しいだけなのではないか、もしかしたら彼女の身に何かあったのではないか。そんな考え方が次々と浮かんでは消えていく。線は切れてしまったのか。そういうふうに思い始めた頃合いに、また線と線は繋がった。あの日、この携帯電話にメールが来た時と同じ音を鳴らし、自らの存在を強調した。僕はすぐさま携帯電話を開いて、確認する。
「明後日の昼十一時、渋谷駅のハチ公像前で会おう」
メールには、そう書かれていた。
■ □ ■
運命の日。珍しく外出することになった僕は制服とは違う服を着て、外へ繰り出した。自分の境遇がそうさせるのかは知れないが、何故だか今見る外の風景は僕にとって新鮮なもののように思えた。別に、何かが変わっているというわけでもないのに。相手といつでも連絡が取れるようにと、常に携帯電話を握っている僕は、自分のことながら必死にすぎるように感じた。不安、なのだろうか。約束の通り相手が来るかどうか。自分の今すべきことがはっきりしていながら、こうやって思い悩むのは人の救いがたい性なのやもしれない。
約束の場所では雪が降っていた。住処を出た段階では多少曇りが勝っているぐらいにしか見えなかった空模様もいつの間にかどんよりとしたものになり、その雪はベンチや信号機の上に薄っすらと積もっている。時間は昼の十二時十二分。アバウトな時間設定に頭を悩ませた挙句、いくらか半端な時間に到着してしまったような気がした。
その時、携帯電話が鳴った。メールだ。
「二時になったら行動を起こして欲しい」
「いつになったら君は来るんだい」
僕はそう返答した。
「今は答えられない。お願いだ。二時になったら背の高い白人の、眼鏡をつけた男性が君の前を横切るはずだ。彼と五分ほど話をしてくれればいい」
「分かった。けれど、質問してもいいかい」
「なんだい?」
「君は本当に来てくれるの?」
「勿論だよ」
あまりにも珍しい五月に降る雪は、横断歩道の白い帯を隠し始めた。空を見上げれば今の心と同じ困惑した灰色が僕の目に映る。僕は指定された待ち合わせ場所で一人、道行く人達を見つめていた。時間は午後一時五八分、もう少しで二時になる。
「あのう」
街中の喧騒に混じり、僕のすぐ近くでそんな呼びかけがあった。
「……」
僕は、声のあったほうを向く。
「おお、気付いてくれましたか」
声の主は、どうやら僕に向かって話しかけていたようだ。
身長は恐らく僕よりも高く、眼鏡をつけていた。そして、あのメールにあった通りの白人だった。
「えっと、どうかされましたか?」
僕がいうと、彼は日本人とさして変わらぬ流暢な日本語でもって言葉を返した。
「ちょっと道が分からなくなったので、教えていただければと思いまして」
「えっと、どちらに向かわれるんですか?」
言いながら僕は携帯電話をちらと見る。丁度二時だ。あと五分間この場を持たせなければいけない。
「えっと、ドウゲンザカというのはどっちに行けばいいのでしょう」
「道玄坂ですか。何をしに行かれるんですか」
僕がそう聞くと、男性は不機嫌になったのを一切隠そうとしなかった。
「一体何の関係があるんです」
彼は表情一つ変えずにそう言った。
「いえ、旅行にいらっしゃったのかなと思ったんで、どちらに行かれるのかなあと」
「申し訳ありません。他の人をあたります」
男性は言って、その場を立ち去ろうとした。
「待ってください!」
まだ二分ぐらいしか立っていない。もっと彼を引き止めなければ!
「いい加減にしてください。ポリス呼びますよ。いいんですか?」
「そ、それは」
「いいか。付き纏うな。でないと本当に呼ぶからな」
彼は相変わらず流暢な日本語を、鋭い口調でもって僕に投げつけた。僕は、その場を立ち去ろうとする彼を呼び止めることは出来なかった。
「約束、果たせなかった……」
その時、僕の携帯電話が震えた。
「……電話だ」
相手は勿論、彼女だった。
「ごめん……約束、果たせなかったよ」
僕が言うと、彼女は笑った。
「いいや、きっと大成功だ」
「なんでそう言えるんだ」
「いいかい。今から僕が数をかぞえる。数字がゼロになったその瞬間、その成果が分かるって寸法だよ」
「な、なんだよそれ……」
意味が分からない。
「ほら、数えるよ。三、二、一」
ゼロ。おそらく彼女はそう言った。
しかし、その声が聞こえることはなかった。その声は背後から聞こえる数多の悲鳴と、何か大きなものが倒れ、擦れる非情な音でもって掻き消された。
「ね、言った通りだ」
僕は、振り向くことができなかった。何か悪いことが起きた。はっきりと理解出来る。僕が偶発的にこの惨劇と遭遇したのであれば、振り返ることは容易だっただろう。けれど、彼女は間違いなくこの惨劇を知っていたんだ。もし、僕が振り返り、惨劇の内実をその目に入れてしまったら、彼女の罪を肯定せざるを得なくなってしまう。
「君は……一体、何をしたんだ」
「したんじゃない。『起きた』んだよ」
「意味が分からないよ。ねえ、教えてよ」
「何をだい?」
「君が一体、何者なのかを。そして、今この場に君は存在するのか」
「同じ世界にはきっと存在する。そして今同じ住所の地点に行くのだって容易だ。けれど、きっと会うことはない」
「どうして……僕はいくらでも待つよ」
「その場で何年も待ってもらうわけにはいかないじゃないか」
「いいよ。待つよ」
「冗談はよしてくれ」
「冗談なんかじゃない!」
「じゃあ、なんだって言うんだ」
「君のことが、好きだから」
言ってしまった。言ってしまった。遅かれ早かれ言うつもりではあったけれど、それでもまさか、勢いでなんて。
「……失礼なことを言うけど、君の正気を確かめたくなったよ」
「全く以て僕は正気さ」
「いいかい。君は顔も見たことがなく、素性も知れない女性に愛の告白をしているんだ。その自覚はあるかい?」
「あるよ」
「そうか……そうだな……」
「どうかしたの?」
「私の実験がもし失敗したなら、全てを話そうじゃないか」
その言葉を最後に、電話は切れた。
■ □ ■
実のところ、この実験において何が起これば成功で、何が失敗なのか。観測者である僕ですら全くその基準は分からず、成る程僕らは目標のないまま実験を行っていたのか、という事実を理解した。
「全く、お笑いだね……」
我々が、僕が今までやってきたこのサイエンス・フィクションじみた実験は恐らく失敗したのではないかと僕は予想している。
「実験は終了した。変化が現れたものについては早急に報告を願いたい」
こんな趣旨の英文を僕はネットワークを通じ、世界の生き残りたちへボイスメッセージとして発信した。
「驚いた。女性だったのか」
「いや全くだ。全然分からなかった」
「早いとこ口説いときゃよかったな!」
皆、変化など伝えることもなく、一抹の終末感を覚えながら、コメントを書き込み続けているのが分かる。今更、絶望したと漏らすような人間は誰一人として存在しなかった。もしこの結果で絶望するのであれば、とっくのとうに自分の首を括るかしているだろうからだ。結局この世界には、死ぬほど絶望も出来ず、死ぬほどの勇気もないような、僕みたいな人たちしか生きてはいないんだから。
「さて……最後の通信と洒落込もうかな」
■ □ ■
彼女からの連絡は、ずっと来なかった。僕はあの日から学校にも行かず、ただ呆然とテレビの画面を見つめ続けていた。ニュース番組では、僕があの日遭遇した事件について連日報道がなされていた。とくに、被害者の一人がロシアの外交官だったのが大きな焦点となっていて、国際問題に発展する恐れがあると言われている。
事件の顛末はこうだ。五月に降った雪に対し業者は万全の対策を施すことが出来ていなかった。その日、トラックを走らせていた男性は運転中に脳梗塞を起こし、死亡。ブレーキの効かなくなったトラックはその勢いのままにあの渋谷のスクランブルに突っ込んだ。結果多数の犠牲者が出たということだ。
彼女はこの事件が起こることを知っていたのだろうか? 知っていたとして、何故僕にあんなことをさせたのか。
「一体、何の目的が……」
延々と同じことを考え続けながら、ぼおっと僕はテレビ画面を見つめる。結論なんて出やしなかった。
しかしその時、携帯電話は鳴った。
僕は即座に着信を確認し、電話に出た。
「もしもし」
相手の声は、僕の期待していたものではなかった。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「……何のようですか。お父さん」
電話の主は、僕の父親だった。
「いや、最近どうしてるのかなってさ」
そう言って彼は困惑ぎみに笑う。
「そう言うのなら、顔を出すかすればいいじゃないですか。あなたの家ですよ? ここ」
「なあ、優。俺は父親なんだから、そんな他人行儀に話さなくたっていいんだぞ」
「目上の人に敬語を使うのは、そんなに変なんですか?」
「いや、そうじゃない。だが聞いたぞ。学校を無断で休んでいるんだってな。赤の他人ならともかく、親として俺はお前のことが心配でしょうが」
「ロクに顔も見せないで、都合の良い時だけ親づらしないでくださいよ」
「お前な、いくらなんでも」
「僕がそう言いたいよ。いくらなんでも、子供放っておいて、一発説教でもしようかって時だけ親づらするんだ。都合がいいじゃないか。ずいぶんと!」
「別に説教しようってわけじゃ」
「もういい。放っておいてくれ。今までと同じように。じゃ、またいつか」
「おい……俺が悪かったから、せめて話させてくれ」
「どうして話したいならくればいいじゃないですか。あなたの家に。じゃ、切りますよ」
言って僕が電話を切ると、またすぐに着信がきた。出るのが億劫だった。またあの父に違いないんだ。
■ □ ■
彼は中々電話に出てくれなかった。放置しすぎて拗ねでもしたのだろうか。
「まったく……」
電気も元素も、大体のものは予想通りの反応を示してくれるし、予想外の反応を示せばそれはとても珍しいことだ。ましてや、まったく予想のつかない実験なんて、危なくて出来たものではない。だが、年頃の男子の感情の動きなんてものは予想のつかない実験に他ならず、こんな危険なことをしていた人たちが居たのかと思うと、素直に感心した。
「じきに核爆発でも起こるんじゃないか」
そんな非科学的なことを考えついたりする。実のところこんなのは初めてでどうすればいいのかまるで検討がつかないのだ。
「もしもし!」
「ずいぶんと出るのが遅かったね。申開きはあるかい」
いざ電話をしてみると緊張もなくすらすらと言葉が出た。その心臓は、高回転状態のエンジンのごとく鼓動しているというのに。
「いや、その、色々あってさ」
「うん、いいよ。怒ってるわけじゃない。少しからかっただけだから」
こう言うと彼は怒るかと思ったが、意外なことに彼は安堵したようだ。
「さて、話をしよう。自己紹介からかな」
「自己紹介なら前にしたじゃないか」
「いいや。話してないことはいくらでもある。例えばそう。僕の年齢は?」
「……知らない」
「現在の年齢は十七だ。普通だったら女子高生をやっているのかな? そうそうちなみに、生年月日は一九九三年五月一九日だ」
「一九九三年生まれで十七……それはおかしいよ。だって僕も同じ年の同じ日に生まれてるのに、まだ十三歳だよ」
「いいや、正しいんだよ。それは」
「どういうことだい。まさか、君はSF小説みたいなことを言い始めるつもりなのか。例えばそう」
「僕は未来の人間さ」
「ああ、先に言われた。つまり……え?」
「え、も何もその通りさ。僕は未来の人間だ。残念ながらネコ型ロボットではないし、猫のピートも連れてない。ウェルズに出てくるようなタイムマシーンすら僕の手元には存在しないよ」
「……証明する方法は?」
「前回の件だけでは不満かな」
「つまり君は、全て予測していたのか」
「そうさ。最低でも僕の知るかぎり、確かに事件はあったからね。全くの未知数で、僕が君に電話をしたその時点でバタフライエフェクトが発生するのではないかとひやひやしたものだ」
「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか、でいいんだっけ」
「その通りだ。まあ何にせよ、この場合はタイムリープ? それともワープ? 便宜上、タイムリープということにしよう。これそのものは完全に成功した。僕と全く同じ名前と趣味、性別以外は全て同じな君に電話が繋がったわけだからね」
「確かに不思議な話だよ。『性別以外全部同じ』だなんて……」
彼の今の言葉で、私は一つの重大な事実に気付いてしまった。バタフライエフェクト、タイムリープ、時間移動……。
「そうか、そういうことだったのか!」
「一体どうしたんだ!」
電話越しの彼を少し驚かせてしまったらしい。けれど僕からすれば、電話越しの彼以上に僕のほうが驚いていると確信できる。
「今から、確認をしてもいいかい?」
この実験を始めたその時点で既にミスを犯していたのか。その確認のために、僕は彼にそう聞いた。彼は、二つ返事で了承の意を示してくれた。
■ □ ■
「君の両親は研究者なんじゃないか」
彼女からの質問は、そんなところから始まった。
「そうだね」
僕が返答する度に、彼女が緊張していくのが分かった。
「次に、恐らく両親は研究に没頭するあまり家に来ず、君は冷凍食品で成長してきた」
「……全く、その通りだ」
気味が悪くなってきた。何故彼女は教えてもいないことを、まだ短いとは言え十年以上生きてきている僕の過去を言い当てているのだろう。
「恐らく、小学校の修学旅行には出なかった。表向きは病気だと言ったが、実際のところは友人が居なく、参加する気がおきなかったからではないか?」
「……そうだ」
「そうか、そうか。そういうことだったんだな……! ふふ、ふふははは!」
彼女は、電話越しに笑い始めた。
「一体どうしたっていうんだ……」
「はは、はは……いや、済まない。全くのお笑いでね。全部失敗だったのさ」
「どういうこと?」
「君は僕なのさ。そして僕は君なのさ」
「意味が分からないよ……」
「意味も何も、そのままの意味さ。今から君に話すのは、SF小説もびっくりの理論だ。それでもいいのなら、聞いて欲しい」
「勿論。勿論だよ。聞くさ」
「まず、僕の実験は両親から引き継いだものでね。政府の支援のもと、僕の両親はタイムマシンの研究をしていた」
「政府? 日本の政府かな、それは」
「その通りさ。妙だと思うだろ? でも待って欲しい。あとで全てが分かる。タイムマシンの研究は難航したが、ようやく時空の流れのようなものを把握することができた。だがそれはとても急で、かつ苛烈なものだった。人間どころか、単細胞生物ですら世界単位でその存在を消滅させてしまうんだ。ところが僕の両親は何をしたのか、電波のみを時空の流れに乗せられる、という理論を打ち立てたんだ。僕の計画は、それを忠実に守って実行しただけなんだよ」
「まるでSF小説だ」
「いやはや全く以てその通りだ。僕だってそう思う。でね、僕の今居る世界と言うのは一年中雪が降っていて、かつ放射能に汚染されていて、人の住める地域は地下にしかない状態になっている」
「それって、まさか……!」
「そのまさか、さ。核戦争が勃発し、世界中放射能だらけになったんだ。この戦争の際に、敵政府の要人を過去に戻って暗殺する機械を開発するという名目のもと、僕の両親はタイムマシンの研究を始めたんだ。丁度、核戦争末期の頃だった。政府もやけになったんじゃないかな」
「その要人っていうのは?」
「君の時代だと、ロシアで外交官を務めていた人物になるね。諜報活動のため、護衛をつけずに移動することがあったみたいだ」
「……まさか」
「あの日、君の世界で被害にあっただろう人間の一人さ。彼はタカ派で有名で、こっちの世界ではハト派の人と争い勝利したカリスマ的存在なんだ」
「つまりもう核戦争は起こらないってこと?」
「正直、タイムリープでの歴史改変なんて前代未聞だから、もしかしたら起こるかもしれない。けどそれは分からないんだ。起こらないことを祈るけどね」
「……言われてみれば、それもそうか」
「さて、本題だ。両親の理論によれば、時空の流れに耐えうるパッケージと、それで運べるものとが書かれていた。その中の一つに電波があったってことさ。今電話しているこれだよ、これ」
「成る程……」
「そして、そのパッケージに糸をつける。この糸の長さによって移動できる時間が指定できるということだ。これを時空の流れに乗せて過去に電波を送りつけるんだ」
「ううむ、よく分からない理屈だなあ」
「たとえるならそう、僕と君が川辺にいて、君が五メートル後ろの位置にいたとしよう。この時の五メートルというのが時間、川が時空の流れを表すものだと考えていい。次に僕は、木箱に五メートルの糸をつけ僕自身は糸の根っこ部分を持ったまま、川に流した。するとどうなる?」
「川に木箱が流されて五メートル後ろに居る僕の場所に、木箱が届く?」
「正解だ。このたとえで行けば木箱が電波となる。そして、これが両親の打ち立てた理論なのさ。けれどこの理論にも誤算があった」
「……誤算?」
「今のたとえだと、君は僕の後ろに居た。でも全く違ったんだよ」
「……つまり?」
「君は川の対岸に居たのさ。そして、時空の流れは真っ直ぐではなく、斜めに流れていたということだ。SF小説でよくあるだろう。パラレルワールド、というものさ。世界と世界とはあくまで平行であって、決して交わることはない。けれど、その世界と世界の間に横たわる時空の流れという大河に木箱を流すとあら不思議、隣の世界に木箱が届く。そういうことだったのさ」
「つまり、君と僕とでは住んでいる世界が違う」
「そして君と僕は、別世界上の同一人物。研究者の両親を持つ性別以外全く同じな、風早優その人だった」
「えっとじゃあ僕は、その……」
「そう。君は君自身に恋してたってことさ」
その事実に、僕は愕然とした。恋をした相手が別世界の僕だったことではなく、別世界である以上、僕と彼女が会うことは絶対にないということが分かったからだ。
「つまり、僕がどう君の世界を弄ろうとしてもどうなるかは未知数だし、どう弄ったとしても僕の世界は変わらなかったのさ。もっとも、平和で時間があれば、両親はもっと完璧な理論を打ち立てることができたと僕は思うけどね」
「……そっか」
「さて、最後に君に忠告をして、お別れにしよう」
「嫌だ。お別れなんてしたくない。僕は君が好きなんだ。心底君が好きで、君以外有り得ないんだ」
「忠告一つ目。見た目も分からない女性に恋焦がれるのはやめておくこと。いつか騙されるぞ」
「やめてくれ、そんなの」
僕は、君の最後の言葉なんて聞きたくない。
「忠告二つ目。平和な時代を楽しみ、学校とかそういったものにもっと真面目に取り組むこと。君は幸福なのさ」
「……うう、ぐ」
いつの間にか、僕の目には涙が浮かんでいた。大粒の、頬をつたう涙が。
「忠告三つ目。親は大事にしよう。君の母親は実のところ結構良い人だし、父は不器用な上にあがり屋で、大切な話は事前にお酒を入れなきゃ話せないような人だ。優しくしてやって欲しい」
「うん、分かった。分かったよ……」
だから、行かないでくれ。
「最後に。こんな僕を好きになってくれて有難う。告白されるなんて、人生で初めてなんだよ」
「……普通の恋人同士に、なりたかったよ」
「うん、否定しない。でもね、異世界である以上君の世界の行末は分からないのさ。君の隣に僕が存在しえないように、僕が君の未来を変えることも出来ない。そう、つまりこういうことだ。君の将来はまだ記録されていない。誰のだってそうだ。未来は自分で作るのだ。君も良い未来を作り給え!」
その言葉を最後に電話は途切れ、僕と彼女とを繋ぐ細い糸が繋がることは、もう二度となかった。
■ □ ■
現実と物語では違うところがある。物語は区切りがあるが、僕らの現実には続きがあるということだ。
「しかし、最後があのバック・トゥ・ザ・フューチャーというのは、多少気取りすぎたかなあ……」
彼の中での僕のイメージが崩れていなければいいのだけど。
そう考えながら、僕は両親の眠る冷凍室に足を運んだ。これから何年世話になるか分からない、暗く、冷たい部屋だ。
「いつか僕達と、僕達の世界を掘り起こす人たちが現れることを祈ろう」
そして僕は、残された最後の冷凍カプセルに身を委ね、冷たい眠りについた。
■ □ ■
僕は一人、部屋で泣き続けていた。今まで口を利かなさすぎたせいなのか、今の僕の感情を吐露するのに際し、有用な言葉が何一つとして浮かんでこなかったんだ。
「なんで、こんなに辛いんだ。どうしようもないのに、されようもないのに、何故悲しく、辛くなきゃいけないんだ。それならいっそのこと、恋なんてしなきゃよかったのに!」
「そんなことはないさ」
声がした。男性の声が。
「……誰ですか」
「んんー、知らないのか? 父さんだぜ父さん。ダディでもいい」
声のしたほうを見ると、多少怪しい足取りでもって、父は僕のそばに座った。
「すまん。大事な話をする時は、酒がなきゃ口が開けないんだ。許してくれ……」
本当に、彼女が言った通りだった。
「……父さん。僕をこんなに放っておいて、一体何の研究をしているの」
「んー……話せば長くなるぞ。いいのか」
「いいよ、どうせ休むし」
「はは、そうか。なら始めよう」
「え、いいの?」
「何が?」
「学校」
「どうせ今から行ったってどうしようもないだろ」
「まあ、そうだけどさ……」
それでいいのか。父親として。しかし、父親は僕の心情など知らぬままに話を始めた。
「嫁とは高校で出会ったんだよ。結構適当な理由でなあ。お互い面識もなかったのに高校で成績トップを争ってたからってんで互いの耳に入ったのさ」
「面識もないのに?」
「周りの連中がよ。女の話をしたがるんだよ。だけど俺はそんなのとは縁がないからさ。話すことがなくなるわけよ」
「へえ」
「そこで困ってしまった友人はこう言うんだ。あの人ならお前とも釣り合うだろう。それが」
「……お母さん?」
「そういうことさ。普段ロクに誰とも口をきかないのに、話しかけるとダムが決壊したような勢いでしゃべりだす、そりゃ可愛い女子高生だったよ」
「ああ……えっと、心底どうでもいい」
僕の返答を聞くと、父は笑った。
「すまんすまん。つい惚気けちまった。そんなこんなで付き合い始めた俺達は大学へ行って、そのまま大学で研究者としてメシを食っていくことになったわけさ。けれどここで、一つ問題が起きる」
「どんなことがあったの?」
「嫁がな。仕事やめて専業主婦やろうか。そんな風に言ったんだよ。俺は勿論即座に研究者を続けたほうがいいといった。嫁の頭の出来は下手すりゃ俺よりもいいんだ。勿体無いったらないだろ?」
「……確かに」
「けれどあいつはな。研究者である以前に、自分は一人の女性で、あなたのお嫁さんなのって乙女なこと言ったんだよ」
「また惚気け?」
「いいや。惚気けには違いないが、こっちはどうでもよくない話だ。何せ、お前が関わっている」
「え?」
「続きだけどな。俺はほとほと困り果てた。生まれてこっち乙女心なんて考えたこともないからな。お互いだんまり決め込んじまって。先に口を開いたのは嫁でさ。なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの」
「せめて、子供が欲しい。夫婦であるという証のために。その子には苦労させるかもしれないけどでも、欲しいんだって」
「……」
「今お前が、優が苦労してんのはさ。分かってるんだ。俺と、俺の嫁が悪いんだ。全部そう、俺らが悪い。本当にすまない」
言って、父さんは頭を床にこすりつけた。
「やめてよ、父さん」
「父さんなんて呼ばれる資格もないと思ってる。本当だ」
「い、いやさ。便宜上でも呼び名がないと困るというか……でさ」
「どうした」
いつのまにやら父は土下座の態勢から、大の字の形に姿勢を変えていた。飲み過ぎだ。
「じゃあ、大切な息子をほっぽってさ。一体今なんの研究をしているの」
「……ぶっちゃけ、俺からすればどうでもいい研究さ」
「なあんだ」
「その言い方はないだろう。俺だってやりたくて今の研究してるわけじゃないんだからさ」
「じゃあ、一体何の研究をしたいの?」
僕がそう聞くと、父は顔を赤らめ、こう答えた。
「笑うなよ……タイムマシーンさ」
「本当?」
「本当だよ。俺はマジでタイムマシーンを作りたいんだ。今やってることは全部そのためなのさ。馬鹿にするか?」
僕は答えた。
「馬鹿にしないよ。だって、父さんの研究が成功するのは、未来の僕が証明しているんだからさ」
そうだよね? 優。
了
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