青春の残影

 マジックアワー。太陽が地平線に没していき、夜が訪れるまでの数十分。光源となる太陽が姿を消し、影の生まれえない状態が作り出される貴重な時間。一日二十四時間のうち、たった数十分しかないのに、誰もその貴重さに気付かず、人々はマジックアワーを毎日生き続けている。

「マジックアワー……魔法の時間、か」

 魔法なんて見たこともない。でも、奇跡を見たことならある。

「マジックアワー、綺麗よね」

 今居る彼女の、存在そのものが、僕にとって魔法のようなものだった。


     ■ □ ■


 朝、くだらない授業が始まって、日が傾き始める時間には授業が終わる。中二病引きずって学校を馬鹿にしてるわけじゃない。本当にくだらないんだ。

僕が通うのは少し特殊な定時制高校。僕は一部と言って朝の部に所属しているが、単位制でもあるため、昼間や夜間の授業も取ることが可能だ。しかし、その授業の内容は基礎というのをすっ飛ばしている基礎も基礎な内容ばかりで、元々大して頭が良くない僕でも鼻で笑ってしまいそうになるようなものしかなかった。

「はあ……」

 僕の小さなため息に、周りは何も反応せず、授業は滞り無く進んでいった。海に一つ石ころが投げられた時みたく何も起こらず、平然と時は進んでいく。ため息一つで変わってくれるほど、世界はお人好しじゃないってことだ。勿論、このつまらない授業もね。

「あら、時間きましたね。はい、今日はおしまいですお疲れ様でしたー」

 そんな風に、慌ただしく教師は言葉を繋げていく。この学校は何故か知らないがチャイムが存在しないので、こうやって教師が時間を認識するまで授業が続く。僕は、素直にチャイムを鳴らせばいいと思うんだけどね。授業の終了と同時に僕は席を立ち、今の僕にとってすごく大切な『魔法の時間』に足を運ぶ。

廃校前の校舎。この校舎は昔、中学校だったもので、僕もそこの生徒の一人だった。偶然にも僕とその同期はこの中学校最後の卒業生となった。少子化に伴い中学校の統廃合が行われ、今ではこの校舎も解体の日を待つばかりとなっている。愛校心なんて言う感情のない僕からすればこの学校の存在は至極どうでもよい。けれど、僕には一つだけ心残りがあった。

薄暗い校舎の中。乱雑に置き捨てられた机は夕日に照らされ、その身を超える大きな影を形作っている。僕が歩を進めるたび、積もっている埃が浮かび、窓から差す日がその埃を映画館のシアターみたいに映し出していた。元々体力のない僕は階段を一段上がるために深く呼吸して、埃ごと空気を吸い込み、噎せてしまう。

「けほっ。んぐ……っ!」

 マスクでも持ってくるべきだろうか。たかだか数ヶ月手をつけられていないというだけでここまで埃は積もるものらしい。

息を切らしながら、ようやく僕は屋上のドアまで来た。ドアノブを回すと、錆びついた金属が擦れる時特有の不愉快な音が鳴る。僕は体重を乗せて、重いドアを押し込むようにして開いた。屋上は、何もかもが橙色に染まり果て、夏特有の生暖かい空気も、屋上に吹く風が忘れさせてくれる。

「今日も来たんだ」

 左目の斜め下に泣き黒子を抱える彼女もまた、夕日に照らされていた。

「今日も来たよ」

 僕は優しく、その言葉に答える。そして、今丁度僕らの間に『魔法の時間』が訪れた。

「綺麗ね。この時間は……」

 『魔法の時間』に居る僕らは、二人共影が消え失せていた。今世界は何事もなく蠢き、アリみたいに沢山の人達が只々毎日を何事も無く過ごしている。そんな中で僕ら二人はこの『魔法の時間』を心の底から享受している。それ自体が僕にとってとてつもなく贅沢なように感じ取れて、幸せな気持ちになれた。

「ねえ」

 僕は、彼女に話しかける。

「なあに。どうかしたの?」

 僕は答えた。

「今こうやっている時も、この国では自殺する人が居るだろう。どう思う?」

「どう思う? って言われても、する人にはする人の事情があるわ。貴方や私がとやかく言えることはないんじゃない?」

「それでもだよ」

「……なら、そうね。別に、不幸な人に限った話じゃないわ、自殺って。拡大解釈したら、だけれど」

「それは、どういうこと?」

「日々人は少しずつ自らを殺していると言えるはずよ。今の状況に対する不満、自分はもっと出来る、もっと違う場所に居るべきという違和感。何も変わらない毎日に対する不満とか、そういう感情も全部自分自身だわ。でもそんな感情、たまに誰かに漏らすことはあったって不平不満として叫ぶことはないでしょう。中にはそれに従って自分自身や環境を変えようとする人は居るのかもしれないけど、それは間違いなく少数派だわ。きっと大多数の人たちは少しずつ自分の感情を殺していくんだと思う。これも、一種の自殺じゃないかしら?」

 僕は、その言葉を深く、深く考えたのちに言った。

「そうだね。それなら案外、この世界が不幸そのものなのかもしれない」

 最低でも彼女は、そう感じ取ったんじゃないかと僕は思った。

「そこに道があるのと同じように、当たり前にある不幸を知らないことも、幸せの一つになると思うわ。みんなが不幸ってわけじゃないのよ」

 そうして『魔法の時間』は終わりを告げ、空は群青色に染まり始めた。

「じゃあ、僕は行くよ」

 僕が言うと、彼女は後髪をひかれることもなく、当たり前のように答えた。

「そう、またね」

 またね、なんて言うさり気ない一言が僕にとってとても嬉しかった。そして、彼女が僕に何故帰るのか聞かないのも、とても助かる。

だって、言えないだろう? 彼女の、長く美しい綺麗な黒髪から始まって、夜の闇に溶けていってしまいそうだから、なんて。


     ■ □ ■


 今日の授業はまた一段と下らないものだった。世界史の授業なのだが、教師が言う話がまったくの嘘なのだ。

「女性は戦争に協力しないから社会的地位が低くなる」

 そんなわけはない。英仏百年戦争での英雄ジャンヌ・ダルクにクリミア戦争で有名になったフローレンス・ナイチンゲールに、歴史上戦争に関わった女性は多いし、ジャンヌ・ダルクは戦って、魔女として火刑に処されている。近年ではイギリスにおいてマーガレット・サッチャーがフォークランド紛争でアルゼンチンに宣戦布告を行なっている。戦争の引き金を引いたのだ。まるで間違ったことを教える教師に憤りを感じるほど、僕は学校に対して熱心ではないのだけど。でも、そんな教師のくだらない話を交えた授業も少しの時間で終わりを告げた。

「ねえ」

 僕は席を立ち、廃校舎へ行こうと思っていたら、一人の女の子に声をかけられた。

「なに?」

 ただ返答をしただけで、何故だかその女の子は嬉しそうで、その反応が僕には理解出来なかった。

「今日なんかイライラしてなかった? どうしたの?」

 どうやら僕はあの教師の文言に苛ついていたのが顔に出てしまっていたらしい。しかし、何故この女子は、初対面である僕に対しまるで友人の如く話しかけてきたのだろう。

「知りませんよそんな。そんなことよりあなた、誰ですか?」

 僕が事務的に返答すると、女の子は少し戸惑い、自分の髪を手で弄りながら言葉を返す。癖なのだろうか。

「あ、え……うん、そうだね。ごめん。あたしは菜月。朝宮菜月。君は?」

 問われた直後に、僕はこの女子から今すぐ離れるために考えた返答を言った。

「ユリック・ノーマン・オーエン」

「え?」

「詳しくは、アガサ・クリスティを読めばいいよ。じゃあね」

「え、待ってよ」

 僕はその女の子の言葉を無視し、駆け足で『魔法の時間』に向かった。

僕が息を切らしながら屋上に出て行くと、彼女は不思議そうな目で僕を見た。

「どうしたの? 息、切れてるじゃない」

 今、僕らの足元には影がない。良かった。

「間に合わせたくてね。マジックアワーに」

「そう。しっかり間に合ったわよ。良かったじゃない」

 彼女はそう言って、心なしか少しだけ嬉しそうな顔で僕に、微笑んだ。

「今、僕らには影がない。それがこの時間だよね」

 彼女は僕にちらと目配せし、無言で小さく頷いた。

「この影みたく、自分の存在をぱっと消してみたい。そんなことは、あると思う?」

「うーん、いっそ消えてなくなりたいって言う人は多いわよね。あるんじゃない?」

「僕は、君の話が聞きたい」

 彼女は顔を赤らめ、少しだけ俯くようにして僕を見つめた。その少しの間の後に、言葉を紡ぐ。

「そう、だなあ……。あるかもしれないわ。多分世の人の消失願望みたいなものは、全てを一からやり直したいというのもありそうだけれど、私はただ単純に逃げるために、その場、その環境から消える。そんな気がする」

 彼女が口を開くたびに時間は進み、『魔法の時間』は終わりに近付いていく。

「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。君の意見を聞かせてくれて、有難う」

「いいえ、どうってことないわ。またね」

 そのやり取りの後、僕は暗い学校の中を歩きながら、歯ぎしりする。

「一体……君に、何があったって言うんだ!」


     ■ □ ■


 日々の授業の中で気付いたことがある。この学校は少数の馬鹿と少数の阿呆と大多数の寡黙な人間で構成されている。馬鹿はその通りただの馬鹿で、授業中だというのに携帯電話を弄ってメールをしているような類の連中だ。次に阿呆が、群れる連中。例えば絵を描くのが趣味だと自称する人間やゲームが好きだと言う人間同士で、群れる。こんな連中は大概ゲーム好きならゲームと、絵を描くのが好きなら絵の話ばかりをする。それを見ながら僕は思わず冷笑してしまいそうになる。過去に三島由紀夫は、こう言った。

『下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。』

 全く以て正論だと、彼らを見ていると僕は心底そう思う。恐らくだけれど、彼らは嘘でなくゲームや絵を描くことが好きなんだろう。けれど同時にそれを愛する自分、行う自分自身やそれに対する目線が好きなんだ。これを不純だと言わずして何と言うんだ。

 しかし、それ以上に僕を含めた大多数の沈黙者はさらにどうしようもない。学校というコミュニケーションが前提となってくる空間において、その大前提を放棄しているんだ。どうしようもないと言う他無い。そこで僕は事情があるから他と違うなんて言うほど僕は愚かではない。寧ろ、自覚しながら放棄している僕は他の大多数よりもさらに劣っていると言えるだろうし、それは事実なんだから。

「はぁ……」

 今度のため息は、自嘲的なニュアンスを含んでいた。けれど、目の前にある問題を解決するまで……問題? 違うな。向かっていくのが幸せなのに、それを問題だなんて。

「ねえ」

「なんだよ。授業中に」

 唐突に聞こえてきたその声に対し、ぶっきらぼうに返答した。その声の主は、昨日話しかけてきた女子生徒だった。

「何言ってんの。授業はもう終わってるよ。先生も居ないし、授業受けてた生徒だってみいんなどっか行っちゃったよ」

 その発言を聞いた直後に僕は立ち上がり、周りを見た。なんで気付かなかったんだ。

「教えてくれて有難う。僕は行く場所があるんだ。すぐに行かなくちゃいけない」

 僕の言葉に、女の子は心底悲しそうな顔を作ってみせた。

「え、なんでよ。少しぐらい……」

「マジックアワーは、すぐに終わるんだよ」

 僕は既にまとめ終わった荷物を手に持ち、部屋を出ようと思っていた。

「ちょ、ちょっと!?」

 その女の子は、行こうとする僕の肩を掴み呼び止める。

「なんだい? 僕は行かなくちゃいけないと言っているのに」

 僕はイラついてると思わせるため、自分で出来る限りの顰め面を作ってみせた。

「あはは、似合わないよー? それ」

 僕は精一杯怒ったつもりで居たのに、女の子はそんな僕を見てくすっと笑う。

「何にせよ、僕は行くから。止めないでよ」

「……少し話そうよう」

「いいや、時間がないんだ」

 僕が言うと、女の子は見て分かるぐらいにしょげた顔で言った。

「そっか。じゃあ、またね」

 末尾についたその言葉は、屋上の彼女と同じ……またね、だった。

あの女の子との会話があったのにも関わらず、『魔法の時間』が始まる前に、僕はあの屋上へ辿り着くことが出来た。

「今日は早かったわね」

「毎日ギリギリじゃ僕の体力が持たないよ」

 僕のその言葉を聞いて、彼女は優雅に笑みを浮かべた。

「そうね。私も、貴方が倒れるのは本意ではないわ」

「ねえ、君は……」

 僕が質問しようとすると、彼女は僕の開きかけたその口に人差し指を添え、言った。

「……待って」

 僕が口を一文字に結ぶと、彼女は大きく夕日が見える空を指差した。

「綺麗でしょ。折角早く来たんだから、楽しみましょう?」

 屋上から見える夕日は街を徐々に影で黒く染めていき、地平線と夕日の間には陽炎が揺らいでいた。昼間に差した人々をじりじりと焼く暑さは影を潜め、今の僕らには暖かさを感じる心地良い温度が直に感じ取れた。

 そうしてやがて夕日は地平線に沈み、『魔法の時間』が訪れる。

「さっきの続き、言ってもいいかな」

 僕の言葉に、彼女はこくんと一つ頷いて見せた。

「君は、幽霊って居ると思う?」

「……そうね。居てもおかしくないと、私は思うわ」

「それは、なんでだい?」

「何故って、人の念は強烈よ。私だって、思い残しがあったら幽霊になっちゃいそう。恨みだけじゃなく、後悔でもそうなる気がするわ。成就してようやく、居なくなる。そんな幽霊になりそう」

 そう話す彼女の足元には、影がなかった。『魔法の時間』の効力だろう。

「うん、そっか。今日も僕の質問に答えてくれて、有難う」

 僕はその言葉を最後に、この日『魔法の時間』から抜け出し、普段と変わらぬ、全く以て不変なる日常へと戻り始めた。


     ■ □ ■


 中学校に入ってからの僕は、今の高校ほどじゃないけれど、やはり退屈さを感じていた。何せ中学生と言えば何故だか反権力的な思想を持ったり、英語が苦手な癖に洋楽を聴き始めたりするようなことが多いようなお年頃なわけで、僕も例に漏れず多少そういった傾向があった。そうして僕は、詩を書き始めたんだ。その原因は、中学生特有の痛々しさとはまた別の理由もあって(もっとも、痛々しかったのも確かに事実なんだけど)その時の担任教師は『みつを』の詩がとても好きで、教室内にもみつをの詩がどんと飾られるぐらいだったのだけど、僕は彼の詩が大嫌いだった。彼の紡ぐ詩を読んで癒される人も、また頑張ろうと再起する気持ちが蘇る人も、世の中には多分沢山居るんだろうけれど、それも含めた上で僕は、彼の詩が大嫌いだった。彼の詩は頑張れと言ってみたり、かと言えば失敗したのを慰めるふうな言葉を使っているように見えて、具体性も深さも何もないのだ。真に困っている人に必要なのはただただ優しいだけの言葉じゃなく、現状を打開するための行為だったり、何にせよもっと具体性のある何かなんであって、あの言葉で癒されるのは所詮悩みもその程度、という風に僕は感じていた。勿論、そのような言葉で癒される程度の悩みであることは悪いことじゃなく、寧ろ良いことではあったのだけれど、当時の僕はその詩で癒されることはなかった。何せ、僕の悩みは『周りの人達が何を考えているか分からない』ということだったんだから。僕は小学生の途中まで、至極一般的な子供だったように思うし、事実そうだった。けれど、小学生高学年になり始めてから、クラスの雰囲気が変わった。みんなが居るところでは何も言わないのに、その場に居る人の数が少なくなると、クラスに居る友人の名前を出し、全員が口々に罵り始めたんだ。その時僕は、少なからぬ恐怖を感じた。クラスの中では笑顔で話すのに、いざ本音を話せる場となったら一緒になって罵倒を始める。今、槍玉にあげられているクラスメイトと同じように、僕もまた別のところで槍玉にあげられているのではないかと思うと、それが怖くてたまらなかった。そして、そんなことを一切考えずただただ槍玉にあげられたクラスメイトを非難出来る彼らの精神性も理解出来なかった。何故、自分もそう言われているのではないかと考えないのか。僕はこの出来事以来、周りに居るクラスメイトが一体何を考えているのかがまるで分からなくなってしまった。いや、元々僕も、クラスメイト達もみんなお互いのことなんて詳しく知っちゃいなかった。ただ、知っているつもりで、その場に居ないクラスメイトを非難することによってお互いが本音を共有していると思い込んでいるだけだったんだと思う。そして、それ以前の僕もきっと、お互い分かり合っていると勘違いしていたんだ。だから、僕は中学校に入ってから上辺だけの付き合いしかしてなかった。悪く思われないように、彼らの薄っぺらさに合わせた。そうすれば陰口を言われることもないだろう。しかしそれと同時に、信用に足る人が周りから消失した。僕は休み時間になると、自分で作った詩作専用ノートに詩を作るのが日課になっていた。詩が唯一、僕の疑問や悩みを吐き出せる存在で……。

そんな時に、僕は彼女を見つけた。

彼女はいつも窓の外を見つめていて、それでいて何故か空を見ていないような気がした。彼女は空でなく、もっとどこか遠いところを見つめている。そんな気がした。僕はそんな彼女に興味を持ったけど、結局何もしなかった。当時の僕にとって彼女もまた信用出来ない人たちの一人だったんだと思う。


     ■ □ ■


 問題解決に近付いている。僕はそう思いたがった。現状からして、彼女の反応から分かることは少ない。けれど、毎日僕が来て質問をしても彼女は嫌がることをしない。寧ろ、快く答えをくれる。それは、彼女が解決を望んでいるのか、それとも……終わりを、望んでいるのか。今の僕には全てが分からない。何かしらのきっかけが必要なんだ。きっかけが……。

「君、この部分分かる?」

 意地の悪い教師が、授業に集中していないように見えたらしい僕を指名し、解答を求めてきた。

「一九一九年のヴェルサイユ条約は元々アメリカが提示していた勝者も敗者も存在しない講話とはならず、とくに自国を戦場とされ、総人口のかなりの部分を消耗したフランスの意図もあって、ドイツを再起不能となるまで追い詰める目的で、このような天文学的数の賠償金を要求した。しかしこれが、後のナチス政権誕生の……」

「あ、もういい。分かった。やめていい」

 歴史の解説を僕に求めるほうが間違っている。僕は、今まで生きていた人々がどのようにして他人を理解しようとしたかを調べるために歴史の資料を散々に漁ったんだから。ちなみに、僕が歴史を調べた結果分かったことは、歴史上に残る行動は感情ではなく利害に基いて決定されているのであって、誰もお互いの感情を理解しているわけではないということだった。

「ねえ、君のさっきのさ。凄かったね。歴史好きなの?」

 ここ数日僕に対して声をかけてくる女の子は、この授業の終わり際にもそんな風に話しかけてきた。

「学問として特別好きなわけじゃないけど、あの教師が気に食わないだけ」

 この授業の世界史教師は、以前女性は戦争に参加しないと言い放った教師で、正直言って大嫌いだった。間違ったことを教えて、何が教師だ。

「へえ、そうなんだ。でもあたしなんて、好きだと言える教師は一人も居ないよ? 君はどうなの?」

「……君は、そんなくだらない質問をするため僕に声をかけたのかい?」

 僕はその女子の質問に対し、質問で返した。すると女の子は先が少しだけカールしている茶色い髪の先っぽを指で弄りながら、答えた。

「え、えっと……その。お話、しない?」

 またこれか。

「前も言っただろう。僕には時間がない。君は暇でも、僕に暇はないんだよ」

 すると女子は僕の顔をじろーっと覗き込みながら、言った。

「……君、何部?」

「一部」

 女子は、含みのある笑みを浮かべ、言う。

「……今日は木曜日だよ。この後二部生徒のロングホームルームがあるから、君は暇になるんじゃないかな?」

 そう言われてから、僕は手早く財布から時間割を取り出すと、確かに僕はこの後の時間に授業を入れていなかった。

「ほら、ないじゃない。ね、少しぐらいいいでしょ? それともあたしのこと、そんなに嫌いなの? 正体不明くん」

 正体不明と呼ばれ、一瞬頭上にクエスチョンマークが浮かんだけれど、すぐに意味が理解できた。

「U.N.オーエン。何者とも判らぬ者、そういうこと?」

「『そして誰もいなくなった』も『オリエント急行殺人事件』も読んだよ。今まで本なんて読んだことなくて大変だったんだから!」

 どうやらこの子は、僕の言ったことを真に受けてアガサ・クリスティを読み漁ったらしい。推理小説の入門として適しているかは微妙なラインのように思えたから、過去に適当な発言をした自分自身を少しだけ恥じた。

「……近くの公園でかまわないかな。噴水があるところ」

「夏なのに公園なんて行ったら暑くないかな」

「大丈夫。噴水の近くで風通しもいいから、そこまで暑くないよ。それに、刺すような虫も居ないんだ」

 その場所は、僕が普段コンビニで買った昼ご飯を食べながら読書するお気に入りの場所だった。

「じゃあ、行こうか」

 その言葉に、女の子はこくんと小動物的に頷いて、僕の後を追った。勿論その公園は僕が普段食事に使う場所だから学校に近く、歩いて五分をかからない場所にある。その公園は市営住宅の近くにある小さな公園で、マンションの配列が奇跡的にもこの場所へ風を運ぶような形になっているのか、定期的に涼しげな風がこの公園へ吹き抜ける。真ん中にある小さな噴水も相俟って、夏でありながら視覚的にも体感的にも涼しさを感じさせてくれる貴重な場所になっている。

まず女の子を先にベンチに座らせて、その後に僕が座った。

「大丈夫? 暑くないかな」

「うん、大丈夫」

 そんな返答とは裏腹に、女の子の顔は少し赤くなっているように見えた。

「うーん……。ならいいんだけれど。で、何の話をするんだい?」

 僕がそう聞くと、女の子は待ってましたとばかりに話を始めた。学校のこと、学校に入る前のこと、好きな教科や好きな食べ物、映画や漫画の話もされた。僕も、彼女に関する事以外の全てを答える。そして、答えるたびに女の子は可憐な笑みを浮かべてくれた。

そんな時間もすぐに過ぎていって、今から『魔法の時間』に向かわなければ間に合わない時間となった。

「ごめん。そろそろ行かなきゃいけない場所があるんだ。その……えっと」

「菜月だよ」

「ごめんね、忘れてた。でも、下の名前で呼ぶのはちょっと、駄目な気がするな」

「えー、私は構わないよ?」

「君は良くっても、僕は駄目なんだ」

 すると菜月さんは、いたずらな笑みを浮かべながら言う。

「じゃ、苗字教えてあげない」

「そんな……困ったな。学校の中で君を下の名前で呼んだりしたら、勘違いされてしまうじゃないか」

 すると菜月さんは、公園に来た直後と同じように顔を赤らめ、僕に聞こえないような小さい声で何かを呟いた。

「……いっそ、勘違いされたらいいのに」

「何か、言った?」

「ううん、何も」

 菜月さんのその言葉を最後に、僕らの間から会話が消えた。二人共何も言わず、ただ日が傾き始めつつある空のもとを並んで歩き続けていた。けれど気まずいこともなく、菜月さんに至っては何故だかとても嬉しそうに見えたのが不思議だった。結局、僕らは校門の前で一言。

「またね」

 とだけ言い合って、別れた。そうして僕は『魔法の時間』へ向かう。しかし、廃校の中は以前と明らかに違う、異変が生じていた。

今まで配列も何もなく、乱雑にただ置き捨てられていた机や椅子と言った類のものが整然と並べられ、埃の層が出来上がっていた床には複数の足跡が見て取れた。

「そっか。終わり、なのか……」

 永遠に続くものは存在しない。人はいずれ死ぬし、死ぬ前に居なくなることだって有り得る。国家という強大な存在ですら分裂し、やがて消滅するなんてのは歴史を見れば明らかで、そこから考えれば人や人の起こす行動や出来事、ましてや人と人との関係なんていうのはいつ消えるか分からない蝋燭の火と同じようなものだ。

「永遠、か」

 昔の僕は、そうなんじゃないかと勘違いをしていた。そうして今の僕もまた、同じような勘違いをしていたんだと思う。何となくただこの現状が続くと勘違いをする。失ってからその漠然とした永遠性が存在しないことに気付くんだ。

「さて」

 昔の僕と、今の僕は違う。昔、その漠然とした永遠性を否定したのは意図的か偶発的かはさておき彼女だった。けれど、今度はそうじゃない。今度は、そう。

「僕が、終わらせるんだ」

 そうして僕は、『魔法の時間』へと入っていった。僕の幸せな『魔法の時間』を終わらせるために。


     ■ □ ■


 二年生になって、僕はクラス替えで偶然彼女と同じクラスの、隣の席同士になった。周りの人全てが信用出来ないと思っていた僕に対し、彼女は特別僕に話しかけてくるでもない。それなら話す理由もないと僕は考えた。当時の僕は話しかけられれば話すし、周りから孤立しない程度の会話をしていた。しかしそれは自分の考えていることをさらけ出すものでもなく、ただクラスの中で普通に生活するために必要な言動しかしていなかった。そんなことを、僕が思っている何かを口に出してしまえばたちまち僕はクラス内で村八分の扱いを受けただろう。学校という空間は健全であるべきだと教師は壊れたレコードのように言い続けるが、その過剰な健全さの強要こそが逆に学校という空間に不健全さを発生させているということに、彼らは気付いていない。例えるならそれは、健全であるが故に起こるアレルギー反応のようなもので、クラスという一つの生物からあぶれるがん細胞があった場合、それを排除しようと試みる。実際の医学で、これが身体の中で起こった出来事ならば正しいが、がん細胞扱いされた人間はたまったものではない。そして何故だか皆自分が嫌いな人物やなんとなく嫌悪感を覚える程度の人物をがん細胞に仕立て上げようと毎日それはもう秘密警察の人間の如く工作活動を続けているのだ。全くもって馬鹿げている。しかし、そこで『馬鹿げている』などと口に出してしまえばこれ幸いとがん細胞扱いされ、罵倒されはみ出し者となってしまうのだ。そしてそれを教師も容認する。何故ならはみ出すものにも原因があると考えるからだ。最終的にそれは全責任をはみ出し者に押し付ける結果になることがほぼ殆どなのだけれどね。何にせよ、僕はそのはみ出し者にならぬように気をつける程度の会話はしていた、ということなんだ。けれど彼女と言ったらそんな護身も何もかもを無視し、たまに遠くを見つめているだけだった。彼女のそんな部分に興味を持ったのは事実だが決定的ではなく、一つのきっかけがあって僕らはお互いを意識し始めた。それはある日、僕が不用意にも詩作を行っているノートをそのままに放置していた時があって、彼女はそのノートの中身を見たというのだ。その言葉を聞いた僕はさっと血の気が引いていくのを身で持って感じ取った。恥ずかしいと思った。実際のところ自分の感情の吐露でしかないそれは、人に見せてない自分を見せるのと同義で、恥ずかしくないほうがおかしい。言われた時は休み時間だったが、僕の目にはその場が裁判所で、彼女は冷徹なる裁判官のように見えた。検察が居ないところを見るに人民裁判だろうと無駄な考察をする。何にせよ僕に弁解の余地はなく、ただ彼女の断罪を待つだけであったが、彼女は一言だけ。

「悪くない趣味ね」

 とだけ言い残し、いつも通りに外にある晴天を見つめ始める。そんな彼女の態度に内心とても驚きながら僕は、彼女に恐る恐る声をかけた。

「ねえ」

 彼女は目線を僕に移すことなく、ただ空を見つめ、平坦な調子で言葉を紡ぐ。

「なに」

「君は詩が好きなの?」

「いいえ、好きじゃないわ。例えばああいう綺麗事しか口にしない奴はね」

 彼女は振り向き、教室の後ろに飾られている文字列を見た。それを見て、自分の意見と彼女の意見が一致していることが理解出来た。

「同感だね」

 その言葉を吐き出し、僕は無意識に笑みを作っていた。

「……貴方、そういう表情も出来るのね?」

「そういう、っていうのはどんなだい?」

「貴方、笑うフリしか普段しないじゃない」

「君は人を観察するのが趣味なのかい?」

「そうね……」

 すると彼女は僕の方を向き、言った。

「最低でも、人に合わせて偽の笑みを浮かべられるほど面の皮が厚くないから、興味深かっただけよ」

 その笑みは、彼女が中学生であることを忘れかけるぐらいに、妖艶だった。

「ひどい言いようだなあ」

 僕はそう言いながら、何故だか彼女との会話がとても心地良くてしかたがなかった。


     ■ □ ■


 結局、僕は『魔法の時間』を終わらせることが出来なかった。しかし、残された時間が今こうしている間にも、逆さまにした砂時計の中でさらさらと砂が落ちていくように、僕と彼女の『魔法の時間』は減っていっているんだ。けれど彼女は、廃校の備品が整理され、じき解体されるであろうことを知らないかのように、終わりが近いことを話そうとしなかったし、僕も彼女に話す気が起きなかった。僕はやはり、彼女との時間を自分自身で壊すことに恐怖を覚えているのだろうか。もしかしたら、壊したそれはもう二度と戻ってこないのではないかと考えているのかもしれない。彼女は幽霊で、僕がそれに気付くと消えていってしまうのではないか、という三文小説のくだらないプロットのような妄想をしたりもした。しかし何にせよ、終わらせなければいけない。僕の目的も、『魔法の時間』を終わりにすることにあるのだから。

僕は次の日、高校を休んだ。『魔法の時間』を終わらせるための方策を練るためだった。母には身体の調子が悪いと言い、休みの口実にした。母の放任主義に軽い感謝の念を示しておきたいところだ。

さて、情報を整理しよう。彼女は僕の名前を忘れてしまっている。だから恐らく、あの中学校であった出来事も忘れてしまっている。僕は、彼女から記憶を引き出すために質問をし続けた。けれど彼女の記憶が蘇ることはない。僕が思うに、最終的な解決手段は存在する。問題は、その手段を使った時に、良い方向に傾くか悪い方向に傾くか分からないことだ。けれど、残された時間が少なくなっているという事実が僕に試行錯誤させる余地を残さなかった。

「やるしかない、か……」

 結論を出した僕は、『魔法の時間』を待った。一度決まってしまえば精神的な余裕も出始め、学校の女の子が読んだと話すアガサ・クリスティのミステリ小説を読み直したりした。そうしているうちに『魔法の時間』はすぐにやってきた。廃校へ向かうため我が家の玄関のドアを開けると、意外な人物がそこにいた。

「なんで君がそこに居るんだ」

 玄関を出てすぐのところに菜月さんが居た。

「話が、あったから……」

 その時の菜月さんの顔は、『彼女』とは全く別種の艶やかさがあった。幼さの残る顔に映る憂いを帯びたその表情は見た目に似つかわしくないもので、それが逆にアンバランスな美しさを醸し出していた。悩む女性を放っておけないという遊び人の男がよく話す言葉の意味が分かったような気がする。

「すまない。今日は出来ないんだ。明日に出来ないかな?」

 僕のその言葉に、菜月さんは首を横に振った。

「私ね。昨日ずーっと悩んでて、今日の朝覚悟を決めたの。けれど今日君は来なかったから……」

「一体誰からここの住所を?」

「君のとこの担任」

 あの教師、個人情報を保護するとかそういう目線が完全に抜け落ちているな。

「それでね……大切な話があるの」

「すまない。僕も今から大切な用事があるんだ。明日にして欲しいんだ。ごめんね」

 ぶっきらぼうに返しても良かったのに、何故だか僕は謝罪の言葉を口にしていた。僕の返答を聞いた菜月さんは僕のほうを見つめながら黙り込んでしまう。僕はその様子を横目に見ながら、その横を通り過ぎようとした。

「ねえ」

 しかし、足止めを受けた。

「……本当に急いでいるんだ」

 僕のその言葉から少し間が空いた後、菜月さんは衝撃的な言葉を口にした。

「君、あの廃校に行ってるんでしょ?」


     ■ □ ■


 休み時間になると、活発な生徒は校庭に向かい、お喋りが好きな女子生徒は教室の一部でグループを作って話しだし、内向的な生徒は図書室で読書をする。そんな時、どこにも属さずに居る生徒が教室内に居ると、人は沢山居るというのに、何故だか太平洋に浮かぶ小さな孤島に一人立っているような、そんな気分になる。しかしその孤島の立つのが自分一人ではなく二人だったらどうだろうか。

「詩は書かないの?」

 教室の窓から校庭を覗きながら、彼女はそう言った。

「詩を書くのは別に趣味じゃないし、なんで詩という形式に収めるのかって、ぐちゃぐちゃな心の中身の羅列よりは多少見られるものになるんじゃないかっていう試みでしかなかったんだよ」

 すると彼女は僕のほうを見つめながら言う。

「じゃあ、心のなかで思っていることを詩っていう形で吐露していた。ただそれだけってことかしら」

「大正解。大当たり。当たったところで景品一つ出せないのが残念だけれどね」

「そうね。それに私も今差し当たって欲しいと思うようなものもないし」

「あんまり高いものは駄目だけれど、何か欲しいのがあれば買ってあげられるだけの余裕はあるよ」

 この言葉は無理しているわけでもなく、事実だった。母は中学生になれば何かと入り用だろうと多すぎる小遣いを僕にくれる。けれど僕は結局使うこともなく、ただ僕の作った銀行口座の肥やしになるだけだから、それならいっそ彼女に何か買ってあげたほうが有意義なような気がしたんだ。

僕のその言葉に、彼女は普段の冷静沈着な表情とは全く違う歳相応の赤みを帯びた照れ笑いを浮かべながら返答する。

「やだ。異性同士でプレゼント渡し合うなんて。恋人同士みたいじゃない」

 この言葉に僕は思わず少し黙り込んでしまった。そんな僕を見て彼女は微笑し。

「あはは。私にそう言われても迷惑なだけよね」

「そんなことはないよ」

 これは本心だった。彼女は歳にそぐわない美貌、言ってみれば美少女と美人の中間に居るような顔付きで、身体は弱々しくかつ小さく、大して頭が良いわけでもない僕のほうが寧ろどう見たって不釣り合いなように思えてならなかった。

「そう? じゃあ、恋人でもなんでもない私が、厚かましくも何かを買ってとお願いした時、貴方はそれを快く承諾してしまうわけね」

「つまり、まあ、そうなるね」

 僕がそう返すと、彼女はいたずらな笑みを浮かべ、言った。

「……他の女の子にも、そうしているの?」

「ばっ」

 馬鹿な、と言ってしまいそうになる寸前のところで、僕は自らの口を塞いだ。

「そ、そんなわけないだろ!」

 僕のその反応が面白かったようで、彼女は目尻に涙を浮かべながら、少しの間笑っていた。何をそこまで笑わなくたっていいだろうに……。そう思いながらも、笑顔の欠片もなかった彼女が、僕との会話の時だけ笑顔を見せてくれる事実が誇らしくもあった。

「ごめんなさい。珍しく歳相応の言い方をしているなって思って面白かったの。だって貴方、いつも澄ました顔で言葉を話すじゃない。けれどその仮面が剥がれた途端にただの中学生になっちゃったんですから」

「けど、恋人同士みたいだと言った時の君も、普段の澄ました顔とは別人みたいな歳相応の表情だったように思えるんだけれど?」

 僕のその反論に、彼女はたじろいだ。

「……今回は引き分けね」

「そうだね。和平としよう」

 そうして僕らは顔を見合わせ、お互いに笑いあう。そう、この時の僕は久々に心から笑ったような、そんな気がしていた。けれど、彼女が歳相応の笑顔を見せたその時から、僕と彼女の間に生じる致命的な断絶の、その前兆は既に現れていたんだ。


     ■ □ ■


「それが君と何か関係があるのか!」

 僕は反射的に、そう口走っていた。全く無意識に僕は大声を出してしまった。

「ごめん」

「ごめんなさい」

 言葉が重なった。

「……その、さ。何で廃校のことを」

「だってあの場所、有名なんだよ?」

「それは、なんでだい?」

 菜月さんの次の言葉で、またしても僕は大きな声を出しそうになった。

「あの廃校、黒髪の女の子の幽霊が出るんだって」

「そんな馬鹿な」

「本当かどうかは知らないけれど、実際に見たって子も居るんだよ。そんな場所に」

 出来る限り冷徹に、僕は言葉を吐いた。

「それこそ……君には関係ない」

「けど、それでも……!」

 僕は菜月さんから目をそらし、腕時計を一瞥した。

「時間がない……!」

「ねえ、一体何の時間だって言うの?」

 菜月さんの嘆願するようなその問いに僕は何ら言葉を返すこともなく、あの廃校へむかって走り出した。


     ■ □ ■


 僕は回想する。あの日々のことを。あの日から休み時間の教室は、僕と彼女二人だけの絶海の孤島だった。彼女も楽しげで、僕も楽しかった。それだけで充分だった。

けれど、そんな日々も長くは続かなかった。普段放課後になると共にさっさと帰ってしまう彼女が、何故だか学校に残っていた。僕はそのことが気になり、校門の前で彼女を待った。やがて、フットサル部に所属している人気者のクラスメイトが顔を真赤にして、半分地団駄を踏むような調子で下校したかと思うと、少しして彼女がいつも通りの澄ました顔で校門に現れた。

「あら、待ってくれてたの?」

 そう言う彼女の頬は夕日に照らされて、少しだけ赤みがかって見えた。

「君が珍しく学校に居残ってるものだから、少し気になってね」

 すると彼女はシニカルな笑みを浮かべ、多少嘲笑するようなニュアンスが含まれる言い方をした。

「私に告白してきた男子が居たの」

 その言葉に、僕は少なからず衝撃を受けた。しかし、すぐにその衝撃は消え失せた。その代わりに僕を満たしたのは諦観に近い何かと自らを嘲笑する自分以外の何かだった。そうだ、彼女は美人で聡明で、それでいて自らの優れている部分をことさら強調しようともしない。冷静に考えれば、誰かが目をつけていて当然なんだ。そんな思考の連鎖も、彼女が次に言い放った一言で寸断させられることとなった。

「でも、断ったわよ」

 その言葉の後に、まさかと思った。彼女が断った相手と言うのはさっき下校した人気者の男子なのではないか、と

「……あの男子、クラスで人気者だよ。勿体無かったんじゃない?」

 すると彼女は、呆れたふうに首を横に振った。

「彼、私の見た目しか見てないんだもの。そんな男は嫌よ、私」

「どうしてそんなのが分かったんだい?」

「だって、君の笑顔が可愛かったから。なんて言うのよ? 他の女の子なら靡くのかもしれないけれど、それぐらいしか言うことないのって感じよ? 私にしてみればね」

 その言葉に何故だか僕は安堵感を覚えていて、その上不自然なことに僕は、彼女の内面がいかに美しいかをどう言葉で表現出来るかという思考をしていた。だが、当時は気付いていなかった。これが崩壊の序曲、第一歩だったということに。

 その日から僕は、教室に居ると何故だか誰かの視線を感じるようになった。それに付け加えて、教室内に不穏な空気が流れ始めていた。今まで誰もあぶれず、一個体だったクラスという巨大な生物に一人の異端者が、がん細胞が生まれた。そんな、不穏な空気が流れ始めていた。もしかして僕がそうなったのかと思った。けれど、そうじゃなかった。

 とある日の休み時間、彼女は教室に居なかった。その時僕は寂しいという気持ちに加えて、何故だか放置された飼い犬のような心持ちになった。飼われているわけでもないのに。僕は仕方なく、彼女と話すようになる前によく暇潰しに使った図書室へ向かおうとした。しかし途中の廊下で聞こえたその声で、僕は足を止めざるを得なかった。

「ねえ、何か言いなさいよ! 何か!」

 女子トイレから聞こえてきたその声は、どうやら尋常でない様子であると言うのがすぐに理解出来た。大方不良が後輩あたりをいびっているんだろうと思った。

「……要件は、何?」

 しかし、聞こえてきたのは意外にも彼女の声だった。僕はトイレの中の声が聞こえるよう、聞き耳を立てていると思われないよう、ある程度離れた場所で壁に背を預け、トイレからの声を聞いた。

「ねえあなた。あいつからなにか言われたんじゃないの?」

 その声は、クラス内の女子グループのまとめ役になっている女子生徒のものだった。そしてこの女子生徒は確か、彼女に対して告白してきたあの男子と付き合っていた……成る程、そういうことか。

「あいつって……誰?」

「この……!」

 この時点で僕には既に女子トイレ内の様子が目で見たように分かった。目の前に居ながら全く相手を意に介さない『彼女』と、それに苛立つ女子生徒。このまま暴力沙汰にでもなったら不利なのは『彼女』の方だろう。クラスの女子同士で口裏を合わせて、きっと何もなかったことにしてしまうに違いない。そう判断した僕は一つ策を講じた。口実つけて教師を一人トイレの前に呼び出したのだ。それも喧嘩があるなどと言わず、女子トイレに不具合があると言う話をだしにして、だ。喧嘩だと身構えるし、どうでもいい用件では教師は出っ張って来ない。我ながら調度良い塩梅の案件を作り出したなと感心する。

そんなふうにして教師を連れ出すと、調度良くトイレの方から声が響いた。

「いい加減にしなさいっ!」

 その声を聞いた教師はすぐさま。

「おいっ! どうかしたのか」

 と呼びかける。その呼びかけのすぐ後、二人はトイレから出てきた。

「おい、何かあったのか?」

「いいえ、何も」

 そう言ったのは意外なことに『彼女』だった。

「そうか。それは本当か?」

 教師の言葉に対し、『彼女』は首を縦に振った。

「ならいいんだ。でもあんまり大声は出すなよ」

 教師はそう言い残し、この場を去った。

「……なに」

「何って、それこそ何?」

 相手の女子は『彼女』を睨みつけるが、それを意に介することなく『彼女』は言葉を返している。結局、相手の女子は何も言わずに居なくなり、僕と彼女の二人だけがその場に残された。

「……ごめんなさいね」

 唐突に『彼女』は、謝罪の言葉を口にした。

「いきなりどうしたんだい」

「だってあなた、私を助けるために教師連れてきたんでしょ? 下手に事を荒立てないために別の適当な理由まで作って」

「へえ、よく分かったね」

「そうでなきゃあの教師、あんなすぐに引き下がるわけないでしょ? 事を荒立てるも穏便に収めるも、どちらも私の裁量に任せようって魂胆でしょう」

「全部正解。でも君からああいうふうに言い出すのは意外だったな。あのままお互い口を塞いでいれば不利になるのは相手のほうだったのに」

「けれど、ここで追い詰めたら逆に今度は表に出ないような嫌がらせをしてくるでしょうね。今回みたいに多少恩を売るようなことをしておけば、いずれ阿呆らしくなってやめるでしょ?」

「成る程。確かにそれはそうかも」

「だから、今回はこれでいいの。でも、そうね……」

「どうしたんだい?」

 僕がそう言うと、彼女は振り返り、僕の方を見た。長めのスカートと、黒く長い髪が一緒になって軽く棚引いた。そうして彼女は口元に人差し指をあて、ウインク一つ。

「……ありがと、ね?」

 その仕草に、僕の鼓動は早まった。

「……今の、ドキッとした?」

 意地悪く質問する『彼女』から目を逸らし、僕は返答した。

「……うん」

 そうして、僕と『彼女』の間に、少しの沈黙が通り過ぎていった。

「……あはは。やだ」

「どうしたの?」

「なんか、恥ずかしい……」

「あは、そうだね……」

 自らの頬が赤く染まっているであろうことを自覚しながら、僕は目線を『彼女』に戻した。すると、彼女の頬もまた、赤く染まっていた。その、目と目があう。しかし、そのタイミングで休み時間終了を告げる鐘が鳴った。「……戻らなくちゃ、いけないね」

「そうね……」

 自分からそう切り出しながら、僕は表現し得ないほどの名残惜しさを感じていた。そして同時に、こうも思った。『彼女』も同じことを思っていればいいな、と。けれど、こんな幸せな時間が訪れていながら、僕らの間にはそれ以上に大きく、暗い影が差し迫っていた。

彼女の身の回りには、彼女が言ったような地味な嫌がらせが続いた。上履きがなかったり、リコーダーがなかったりするような物がなくなる類のものから始まり、そこから椅子や机の中に画鋲がテープで貼り付けられているような実害を伴うものになりはじめ、やがてそれはさらにエスカレートし、ある日には彼女の机に赤い文字で大きく落書きがされていた。僕はその落書きを消す手伝いをしようとしたが、彼女に拒否されてしまった。

「ごめん、今はやめて頂戴」

 『彼女』に何らかの理由か事情があってそういう風に言ったというのは理解出来たが、それでも彼女に拒否されたという事実だけが僕の中でリフレインした。


     ■ □ ■


 夕方。僕はマジックアワーのただ中をひたすらに走っていた。『魔法の時間』のうちに僕が彼女の元へ辿り着くことは出来そうにない。けれど、それでいい。今日この日に僕と彼女のマジックアワーは終わりを告げる。僕はその覚悟をした上で今、あの場所に向かっている。あの夏の日、僕はもう永遠に彼女と会うことはないと思っていた。しかし、そうじゃなかった。もしかしたら僕は、ようやく来た二度目のチャンスをふいにしようとしているのかもしれない。それでもこの現状は僕から見て歪なように思えた、だからこそ僕はリスクを覚悟の上で走る。あの日から止まってしまった僕と彼女の時間を元に戻さなければいけない。


     ■ □ ■


 次の日、彼女は学校に来なかった。その次の日もだ。既に試験も終わり、夏休みまであと少しというところで、彼女は来なくなってしまった。憂鬱になるテスト結果の話は聞こえなくなり、そこらじゅうから夏休みの計画の話が聞こえ始めるような中で、僕は一人喪失感に苛まれていた。今まで彼女が居たあの席には今誰も座っていない。ただそれだけでこの教室のその部分だけが大きく、ぽっかりと穴が空いてしまったようにすら思う。僕は授業中も、合間の休憩時間もただただずっと誰も居ない彼女の席をじっと見つめていた。そんな感情を抱いたまま、明日には夏休みになるところまで来た。その日、夏休みを迎えるにあたって、一度教科書を持ち帰らなければいけないので、僕はスクールバッグへと教科書を詰め込んでいる中で、あるものを見つけた。それは手紙で、そこには彼女の名前つきで、短い伝言が書かれていた。

「今日の魔法の時間に、教室へきて」

 書いてあるのは、たったこれだけ。魔法の時間とはなんのことだ? と一瞬だけ考え込んで、すぐに思い出した。彼女が少し前に魔法の時間の話をしていたことを。その僅かな時間、影が消え失せる。しかし世の人はその一日に一度だけの貴重な時間の存在に気付かない……。それなら、僕は夕方まで教室に残っていれば彼女に会える。内心では、この手紙がいつ書かれたものか分からない以上、もしかしたら彼女は昨日かもっと前にこの教室で僕を待ち、そして僕が来ないことに落胆失望し、一人教室を後にしたのかもしれない。けれども僕は、ただ彼女に会えるかもしれないという事実に救い難いほどの喜びを感じ取っていった。ただ可能性だけがあるというだけなのに。けれど僕は、当たり前のように放課後、彼女を待った。誰も居ない夕暮れの教室の中でただ一人佇んで、そうしながらたまに外の部活動している生徒を見下ろしてみたり、かと思えば来ないんじゃないかと言う予測がふと頭をよぎり嘆息するといった行為を繰り返していた。落ち着かず、本でも読もうかと考えたが結局僕はこの落ち着かない状態を維持し続けた。誰かが見ているわけでもないのに何となくいじけている様子を誰かに見てもらいたかった、そんな気分だった。やがて日が暮れて夕方になり何となく嘆息が増え始め、校庭を見ることがなくなった。何せもう部活すら撤収してしまっているし、校内に居る生徒もごくわずかだろう。誰も居ない教室、待ち人は来ずただ一人時間を浪費する。これはこれである種ビターエンドの心地があるなと一人自嘲気味に笑った。まるで僕は道化師だな、と。

その時、音がした。

僕はさして期待もせず、その音が聞こえた方向に目を向ける。

「……待たせた、ようね」

 彼女は、来た。僕の足は一瞬だけ震え、一瞬だけ視界がぐらついた。

「……今日で良かったんだね?」

 僕の口から漏れ出た言葉は、そんなしょうもない一言で、なのに彼女は前と同じように薄い笑みでもって僕に答えてくれる。

「ええ。来てくれるか不安だったけれど」

「それは僕も同じだったさ」

 僕のこの言葉の後、ほんの少しだけ僕らの間に沈黙が訪れた。けれどそれは決して不快なものではなく、寧ろ心地よさすら感じていた。

「……ねえ」

 沈黙を破ったのは、彼女からだった。

「どうしたんだい」

「心配、かけたかしら?」

「勿論だよ。心配した」

 僕がそう言うと彼女は頭を下げた。

「……ごめんなさい」

 僕は彼女に近寄り、言った。

「頭をあげてよ。ね?」

 すると彼女は僕にしなだれかかり、僕のほうをじっと見つめ。

「だって私、あなたにだけは……嫌われたくないもの」

 潤んだ瞳で僕を見つめ、そんな風な言葉を口に出した。

「大丈夫。ちょっと待ったけど、来てくれたからね。君を嫌う要素なんて何一つ存在しないよ」

「そう? でも……」

 そうして彼女は目を伏せる。彼女の肩に手を乗せると、彼女が軽く震えているのが分かった。

「ねえ」

 彼女は熱に浮かされたような瞳でもって、僕の顔を見上げ語りかける。

「恋って、何なのかしら?」

「……ごめん、分からない」

 結局のところ僕は未熟なんだ。自分で色々なことを知っていると思い込んでいるだけで実際のところ何も知っちゃいない。せめて彼女に答えるだけの知識が欲しかったと今になって後悔している。けれど彼女は、そんな僕を嘲ることもなく、微笑みかけてくれる。

「……そう、私もね。実のところ恋とか愛情とかって言うのが何なのか、何一つ分からないの。殺したいほど愛してる、も。好きだから離れるというのも、全部愛や恋という言葉で一括りに出来るの。じゃあ結局、恋とか愛って何なのかしらね……?」

 彼女は、彼女以外の何かに突き動かされるように、必死に言葉を紡ぎ続けた。

「私……自分ではそこそこ頭が良いと思ってた。けれど、結局こんなことも分からない。未熟だわ」

「それは……」

 僕もだよと言おうとしたところで、彼女の細く白い指が僕の唇に添えられ、言葉が遮られた。

「……だから、ね……?」

 その華奢な手が僕の肩に置かれ、彼女は少しだけ背伸びをし、僕の目の前で、その言葉を囁いた。

「恋の勉強を、二人で……しよ?」

 言葉の直後。彼女の重みがほんの少しだけ肩にかかると同時に、彼女と僕の唇が薄く触れ合った。

それは、きっと甘美で何かしら美味なるものだと思い込んでいた。けれどその数瞬に味覚を刺激する何かはなく、ただ心の中だけにはちきれんばかりの充足感と甘美な心持ちだけが胸に残っていた。僕らは二人見つめ合う。そこに言葉は必要もなく、ただ一つの行動さえとれば事態は理想的な方向に向かう。僕は彼女を抱きしめ、ハッピーエンド。そのはずだった。

「あなたたち、何してるの……?」

 以前、トイレに彼女を呼び出したあの女子生徒が教室の入り口に居た。

「ごめんなさい。また今度にしましょ」

 女子生徒の存在に気付いた彼女は、僕に対して手短にそう言い、駆けていった。

「待って!」

 僕は彼女を追いかけようとした。けれど。

「……待って」

 女子生徒が制服の裾を掴み、僕を引き止めた。

「なんだよ」

 無意識にきつい言い方をしてしまったせいか、女子生徒は少しだけ肩をびくつかせた。

「……あ、あの」

 女子生徒は出そうとしている言葉が出かかっている状態のまま、僕を見つめていた。

「……早くして欲しい。お願い」

 僕の懇願でようやく、女子生徒はその言葉を口に出した。

「……好きです」

 僕はその言葉の意味を理解出来なかった。

「ごめん。ちょっと意味が」

 すると女子生徒は苛々と恥ずかしさとをごちゃまぜに言葉を吐き出した。

「……もう! 何回言わせるつもりなの? あなたが好きです。これで満足?」

「冗談?」

 僕がつい本音を口に出すと、女子生徒は顔を真赤にしてまくしたてる。

「冗談なわけないでしょ? そんなにあたしのこと嫌いだったの? ねえ、そんなに?」

 僕は女子生徒の発言を信じることにして、言葉を考え出した。

「あの、さ」

「なに……?」

「……好きだ、と言うのはいいけれど、君はもしかしてそれが理由で彼女をああやって虐めたりしたのかい?」

「……それは」

「それが理由なのかと聞いているんだ!」

「決まってるじゃない!」

 この言葉を聞いた時、僕は頭に流れる血液が突如沸騰したかのような錯覚をおぼえた。

「……君は」

「なに?」

「君は人がどう人を好きになるかを理解しているのか!」

「知らないわ、そんなの!」

「彼女は、彼女がたとえ僕にとってそういう人ではなくただの友人だった場合ででも、僕は君にどうしようもないほどの怒りを覚えたろうね! 分かっているのか。君は彼女を傷つけただけじゃない。自分自身の恋を自分で汚し尽くしたんだよ!」

「なによそれ。意味がわからない。そんなに理屈っぽく話されたって何一つ分からないわよ」

「ごめん」

 僕はそれを唐突に口走った。意識して出したわけじゃない。でも後悔の念は一片もありはしなかった。

「……それって、そういう意味よね」

 この子の質問に対し、僕は布をナイフで切り裂くような調子で言葉を返した。

「僕は、君が嫌いだ」

「……そう」

 僕が思っていた以上に、この子はあっさりとした返答をした。

「じゃあ、追いなさいよ」

「誰を」

「私なんかよりよっぽど大切なあの子を!」

 この言葉でようやく僕は彼女のことを思い出し、そしてその直後に僕は取り返しのつかないことをしたと思い、それをずっと後悔した。

彼女は、学校のどこを探しても見つけられなかった。


     ■ □ ■


 この魔法の時間の中にある校舎を歩く時、僕はいつもあの日のことを思い出した。あの日起きたこと、あの日の後悔。それがずっと僕の心の上にのしかかっていた。その重さは絶妙で、僕の心が崩れぬように苦痛を与え続けていた。泣けるなら、泣きたかった。狂えるならいっそ狂ってしまいたかった。絶望のうちに心が壊れるのなら、それでいいと思っていた。けれど、彼女は現れた。あの日と同じこの時間に、決まってこの学校に姿を見せるようになった。僕は今、核心に迫る質問を彼女にぶつけようと思う。


     ■ □ ■


 普段身体を使って体重を乗せなければぴくりともしない錆びついたドアが、何故だか今日は押すだけでたちまち勝手に開いてしまった。屋上には風が吹き、その真ん中に彼女は立っている。

「今日も来たのね」

 いつもと変わらぬ口調で、彼女は言った。

「ねえ、一つ聞いてもいいかな?」

 すると彼女は、微笑みとともに答えを返す。

「私は、あなたに閉ざす口を持ち合わせてないわよ」

 その言葉は信頼の証。僕はそう思った。いや、思いたがった。けれど僕の最後の質問は彼女を裏切ることになるかもしれない。けれども僕は……。

「僕は……っ!」

「どうしたの?」

「僕は、悲しかったんだ。償うにも償えない。僕の悪かったところも分かりえなかった。ただ運が悪かっただけなのか、それすら知れなかった」

 一拍置いて、僕は言葉を繋いだ。

「何故君は、居なくなってしまったんだ!」

 魔法の時間の後、彼女の姿はどこに行っても見かけることはなかった。学校内は勿論、学校周辺の色んな場所を探した。自分でストーカー染みていると思いながらも、彼女の住所を訪ねさえした。けれど、彼女を見つけることは出来なかった。彼女はとあるマンションに住んでいたと聞いて、その住所の場所まで行ってみるとそこは空き部屋で。マンションの住人に彼女のことを聞くと、苦い表情を一つ浮かべた後に、何も知らないとだけ言葉を返した。

「あの日から君は、僕の狭い世界から消え去ってしまった。どんなに探しても、君を見つけることが出来なかった。そうして僕は君の居ない色褪せた世界で生き続けた」

「そう……」

 僕の言葉を聞いた彼女は、悲しげに目を伏せた。

「だけど、唐突に君は現れた。廃校手前のこの学校のこの屋上。『魔法の時間』に、君は現れたんだ。僕はそれを奇跡だと思った。僕の見知らぬ誰かが僕に機会をくれた。君と話し、笑い合える。そんな機会を、僕にくれたんだって思った。でも」

「永遠じゃない」

 彼女は、悲しげにそう呟いた。

「そう、この時間も永遠じゃなかった。いつか消える砂上の楼閣でしかなかったんだ」

「この時間も? 違うわ。永遠に続くものなんて存在しないのよ。学校に通いながら、友達と話したり喧嘩したり、恋したりされたり。またそれを失ったり。全部、永遠じゃないのよ。体験しているうちは永遠のように感じ取れるこれらもやがていつか終わるの。だから……」

「だから、君は消えたというのかい」

「私は、私自身が今何をしようとしているのかをこの世の誰よりも一番理解しているの」

 彼女はそう言い切った。そうして、潤んだ瞳でもって僕を見つめる。

「……ねえ、聞いてくれるかな」

「どうしたの……」

 そう返した彼女の頬には、一筋の涙が伝っていた。

「僕は、君に対する愛情を永遠のものだと確信しているんだ」

「……ええ、私もそう思っていたわ。けれど、もう今じゃ何もかも全て遅すぎたのよ」

「一体、何が遅すぎたっていうんだ!」

「さよなら。愛しい人」

 彼女はそう残し、一人走り去っていった。

 僕は彼女を追おうとした。もう後悔はしたくなかったから。けれど……。

「待って!」


     ■ □ ■


 私は、今すぐに走り出そうとする彼の姿を見て、反射的に叫んでいた。

「待って!」

 私の言葉に、彼は足を止めた。

「……菜月さん、か。どうしたんだい」

 彼は、泣いていた。

「私、私ね。君のことが」

 この言葉を遮って、彼は言った。

「ごめん」

 即答だった。

「……うう」

 私まで泣きそうになってしまった。

「君が言おうとしていることは分かった。けれど、余計なお世話かもしれないけれどさ。僕みたいな男はよしておいたほうがいい。昔のことが忘れられないんだ、結局のところ」

「……君は、過去を追い続けるの?」

「過去の価値は、過去を持っている本人にしか分からない。けれどね、一つだけはっきりしていることがある」

「それは……何?」

「過去の人間は、絶対に失敗しないんだ。ずっと美しいままで、その人の思考の中で生き続けるんだよ。永遠に、美化され続けて」

「じゃあ……」

 私は、永遠に追いつけない相手と勝負していたんだ。

「じゃあ行くよ。僕は、過去を追い続ける」

 そういって、彼は走り去っていった。私は彼を引き止めることすら出来ず、ただただ、泣き続けていた。



        了

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