紫陽花の色

 芸術


 僕の家は事業を営んでおり、それは実に安定していて傾くことを知らなかった。父は祖父から継いだ会社を何の問題もなく経営していたし、僕の兄は優秀で、将来は父のように会社を継いで、何の問題もなくその役目をこなすだろうと思われた。

 問題なのは僕の存在だった。僕は小さい頃から大体の事柄を平凡にこなせたが、逆に言えば平凡以上にはならなかった。家の中では幾度も僕の将来に関する話し合いが起きて、そこでは大体において父が楽観的な、母が悲観的な見解を示す。家中においては、ただただ僕が平凡な人間であるということが問題だったのだ。

 そうした中で、僕は芸術へとひた走った。家の人間は皆実学的なものを好み、美術的な、有り体に言えば金になりづらいものは教養としてしか知らず、それを楽しむことをしなかった。

 僕はそれ故に、芸術を好んだ。何をやるにも口を挟まれる他の学問などと違い、彼らは芸術の分野において無知であったために、何も言わずただ金だけを出す。彼らは恐らく、何をやるにも平凡な僕から何かしらの反論を受け、自分らが言い負けるのが恐ろしくて、口を挟めないのだろうと僕は考えた。

 彼らは僕が美大に行くと決めても、そのために部屋を買って欲しいといっても、それを止めようとはしなかった。ただ一人、父だけが応援してくれた。


 * * *


 非常に残念な事実ではあったが、僕はまた芸術においても『人並みに』物事をこなせた。僕の心に訴えてくる何かであったり、衝動であったり、僕がそういった感情を芸術の形で表そうとすると、それらはすぐにありきたりなものになるのだ。

 心はしっかりと動いている。それは揺れ動き、泣き叫び、衝動を起こす。だと言うのに、僕の生み出すものはそれを表現できない。

 僕が彼女と出会ったのは、自身の芸術に関する事柄についてじっくりと考え込んでいた時。六月の、長く続いた雨が終わり、初夏の空気が漂い始めた頃だった。僕は大学近くに植えられていた紫陽花を素描していた。百均で購入した小さな折りたたみ椅子の上に座り、無心に描き込んでいた。

 僕は紫陽花が好きだった。

 紫陽花の花は複数の小さな花が集まることによって構成されているが、その部位のうち一般に花と言われる部分は実際には装飾花で、中心に見えるごくごく小さな部分こそが本当の花なのだ。装飾花の部分は他の花で言うところの『がく』が発達したものに過ぎない。

 紫陽花のその様態は人間の群衆とよく似ていると僕は思っている。外に見える美しい部分は本質ではなく、目を凝らして見なければ分からない部分に本当の個人がある。しかしそれは群衆となることでモザイクアートのような一つの絵になる。もっとも、群衆もまた紫陽花と同様に、生まれ育った環境によってその色を変える。紫陽花の色は土壌の酸性度によって変わるのだ。育ちによって変化が生まれるというのもまた、紫陽花の持つ人間的な特徴だと言える。そしてその紫陽花に存在する群衆に似た、実際に存在する立体的な美は、例えその色を保持していようとも、押し花などでは表現し切れない。

 僕がその時に描いた素描はまるで紫陽花の押し花そのものだった。確かにそれは紫陽花の姿をしており、ここに手を加えれば色彩を持った絵になるだろう。だがそれは紫陽花の美しさを表せていない。実際の花と自身の絵とを比較し、自身の足りない部分を探している途中で、彼女はあらわれた。

「上手いですね」

 彼女はそう言って僕の手元にある味気ない素描を覗き込んだ。

「まだまだ。これじゃ駄目だよ」

 そう返して僕は彼女の方を見た。その顔が想定よりも近くにあったので、僕の鼓動は一瞬だけ乱れた。

 垂れ目がちな黒茶色の目に、ほんの少し赤みがかった頬。なだらかな輪郭を持った、女性と少女の間に立つようなその顔。その自然な化粧の粉末から素の彼女を想像して、僕はぞっとした。彼女は自身の美しさに自覚的で、それが他者を遠ざける要因になりかねないのを理解していて、化粧と身のこなしとでわざと俗な風に気取っていたのだ。きっと素の彼女はもっと怜悧な、研ぎ澄まされた刃物のような美しさを持っているに違いないと僕は確信したのだ。

「もっと下手な人はきっと沢山いるはずですよ」

 と彼女は答えたので、僕もまた生意気に言葉を返した。

「絵が下手な美大生が居てたまるか」

「まあ、確かに!」

 言って、彼女は微笑んだ。

 それが僕と彼女とのファーストコンタクトであり、本当の意味での僕の芸術の出発地点であった。

 僕と彼女はそれから何度か会い、話をした。話した内容は別に大したものではなかったが、彼女のことを色々知ることが出来た。彼女は僕の通う美大のインカレサークルに所属していて、僕と出会った時もその用事で来ていたらしい。

 彼女の話すことは、同じ大学という場所に居ながらまるで別の世界の出来事のように感じ取れた。誰と誰が付き合っているとか、別れたとか、あることを切っ掛けに関係がこじれたとか、そういう風な話を延々と繰り返した。普段の僕であればつまらなく思うような話であるのに、彼女が話すとそれは何処かの社交界の話のように聞こえてくる。

 僕はある時、彼女に言った。

「なあ、君をモデルに作品を作らせてくれないか」

 すると、彼女は笑った。

「なに? ヌードモデルか何か?」

「そんなわけないだろ!」

 僕が必死に否定すると、彼女はますます笑う。

「え、だって美大の人ってみんなそうやって人のこと口説くんだもん。笑っちゃうよそりゃ。そんなにあたしの裸が見たいのかって」

「違う。そうじゃない。僕は何だったらデスマスクでもなんでもいい。ただ君を題材に取らせて欲しいというだけなんだ」

 僕は照れ隠しも相まって、勢いで言葉を放っていた。デスマスクとはなんだ、僕は彼女を殺すつもりなのか。

 しかし彼女は笑いながらも、真面目に言葉を返してくれた。

「ははは、面白いこと言うね君!

 じゃあ、じゃあさ。仮に君の言うことが本気だったとして、君は一体何を作りたいと思ってるの」

「芸術だ。自分が美しいと思った何かをこの世に残しておくための何かを作るんだ」

「じゃあその、残す意味って何よ」

「人は死ぬ。人だけじゃなく、あらゆるものはいずれ消え去る。どんなに頑丈に見える機械も、どんなに美しいものもいつかは消え去る」

「何それ。ニヒリズム?」

「似てるけれど、少し違うな。何物にも意味などないというのがニヒリズムだが、僕はこの世に価値を見出している。それは美しい花だったり、君のような美しい女性だったり、そういったものの価値を僕は認めている。けれど、いずれ君も歳を取る。歳をとれば君だってお婆ちゃんになるわけだろ」

「まあ、そうだね……」

 彼女はそう返しながら、心底嫌そうな顔をした。自身の老いを想像したのだろうと思う。そしてその気持ちはよく理解出来た。

「君の気持ちはよく分かる。美しいものは美しいままであって欲しい。それが自分であれば尚更だと思う。

 それは決して自惚れじゃない。寧ろ、世間の人々がもっと早期に気付くべき真実なんだよ。僕だけじゃない、芸術家は皆それを自覚するべきだ。芸術とは、美しい何かを美しいままにするものなんだ」

「その方法は?」

「まだ分からない。だけど、きっといつか見つけ出す。僕はずっと芸術家で居るつもりだから」

「ふーん。そう」

 彼女はわざとらしく頷いて見せる。その後に一言、不意に手に持ったものを落とすような調子でこう言った。

「なんか似てるかもね。君とあたし」


 * * *


 それから僕と彼女は仲良くなった。彼女は僕の通う美大の中でも有名らしく、幾人かの友人は彼女の浮気性や男に対する態度等々を話し、親密な仲にならない方が良いと忠告した。

 けれども僕は、それでも彼女に近付いていった。彼らの忠告は無駄であるどころか、寧ろ僕の背中を押す結果に繋がった。彼女のその何者にも縛られない生き方そのものが、彼女の美しさの源であることに気が付いていたからだ。
























 肉体

 

 長方形の木に、彫刻刀が刺さる。軽い音と共に木は削り出されていき、特定の形に向かって縮小していく。荒々しく削られた木の像は、風や波によって侵食された岩石を思わせるものがあった。

 無作為に、けれどもどこか感性に沿うように削り出された木をじっと見つめる。この段階でようやく僕はこの木から何を形作るかを決めた。

 玄関から、鍵を挿す音がした。年季の入った鍵はすんなりと回転せず、多少の苦戦を持ち主に強いながらも、最終的には錠前の動く音と共に扉は開かれる。僕は手を休めて扉に目をやり、一連の動作を見た。

「ただいまあ」

「おつかれさま」

 就活生時代そのままのレディーススーツを着た彼女は、自分の履いていた黒のパンプスを玄関へぞんざいに投げ捨てながら、僕の方を見ていた。

「また彫ってたんだ。今度はなに?」

「ううん……多分、羊」

「決まってないんだ」

「決めてから彫るの、苦手なんだよ」

「それでよく仕上げるところまでいくよね。本当、なんか芸術家って感じで、いいと思うよ」

 そう言って彼女はソファに座り込み、リモコンを操作してテレビをつける。気怠げで手慣れた動作だった。

 僕は言った。

「ちょっとしたお遊びだよ」

 その言葉に彼女は言葉を返さず、その目はテレビに映し出された芸能人と、テロップの文字を追っていた。

 あれから僕と彼女は、好き合っているのかそうでないのか分からない半端な状態を維持し続けてきた。

 環境的な変化は数多く存在する。彼女が経済的事情から僕の家に転がり込んできたり、僕がウェブデザイン関連の会社に就職したり、色々なことが起きた。けれどもその心中には何一つ変化が起きていないように思えた。仕事の上で僕は芸術家的な精神を打ち捨てなければならなかったが、同時に芸術的なセンスを働かせなければならない場面が存在していて、僕の中にある芸術性の完全な破棄を認めなかった。そこには彼女の存在も大きく関わっているのだろう。彼女が何か言わずとも、彼女がそこにただ存在しているだけで僕は芸術の存在を意識せざるを得ず、僕の心にはいつか何かを形作らねばならないという感覚が強く残り続けている。

 それに対して、彼女はあまりにも彼女のままでありすぎた。

「ねえ、ストッキング脱がせてよ」

 テレビ画面を見つめたまま、彼女は唐突にそんなことを言い出す。

「そういう気まぐれはやめてくれよ」

「だって面倒臭いんだもん」

 言って、彼女は僕の方を見た。ソファに臀部を深く沈み込ませ、そのしなやかな脚を揺らし、僕の官能を煽る。

「しょうがないな」

 口ではそう言いながらも、内心では溶岩のような欲望が渦巻いていることが自分にも分かった。彼女もそれを知ってか知らずか、無防備に脚を放り出して、睫毛のかかるその黒い瞳で僕の顔をじっと見ていた。彼女は微笑んでいた。

 僕は、彼女のストッキングに手をかけた。それは丁度彼女のくびれの下から臀部にいたるまでのなだらかな曲線の合間に掛かっている。その肌にはストッキングの赤い締め付け後が残っていた。もったいぶるように、ストッキングを少しずつ脱がせていく。

「あんまり力入れると、破けるからね」

「分かってるよ。それと、立ってくれないと脱がしづらい」

 手を離すと、彼女はその場ですっと立ち上がった。僕は再度手を掛ける。ストッキングは彼女の臀部を通り過ぎて、その細い太ももに差し掛かった。僕がふと目線を上げると、小さなリボンがあしなわれた水色の下着があった。

「じろじろ見てないで、やることやって」

 その言葉が如何に酷なものなのか、きっと彼女は理解した上で言っているに違いないと僕は考えた。

 彼女の言う通り、再度僕は作業に戻る。その手はゆっくりと彼女の肌にそって加工していく。抵抗を感じることもなく、綺麗な肌の上を指でなぞる。彼女のその肌には、何の瑕疵も存在しないと思われた。

 そうして僕は、彼女のストッキングを脱がし終えた。そこには、上は仕事着のまま下半身だけ下着一枚になった、ちぐはぐで現実味のある女性の姿があった。

「お疲れ。じゃ、あたし寝るから」

 彼女はそう言って上の仕事着を脱ぎ散らかし、下着だけの姿になってロフトへ続く梯子に登った。

 僕は一人取り残された。つけっぱなしのテレビと、彼女の衣服と共に。僕は分身を取り出し、自身を慰める他なかった。

 思えば彼女はずっとそうだった。自身の肉体の美しさについて誰よりも理解していて、それを利用することに長けているのだ。傍から見ると無頓着に見えたり、だらしのないように見えたりするそれは全て、彼女の中に存在する確固たる計算の元で行われている。彼女はそれを常に武器として使い、今までの人生を生きてきた。

 この家に彼女が転がり込んできた時もそうだった。この部屋は僕が彫刻をするにあたり、親に頼み込んで拵えられてもらった特別な部屋だった。部屋割りだけならロフトつきの1LDKでしかないが、大きい音が出ても漏れることのない防音壁に、収納におさめられた素焼き用の窯があった。そして部屋もロフトも、僕の持つ道具や美術書を収めるのに十分なスペースがあった。

 僕が彼女と付き合い始めた時、彼女は僕の部屋に来るなり、この部屋をシェアさせて欲しいと申し出た。その厚かましさを軽い笑顔で有耶無耶にして、彼女は共同生活の利点について、現実的な問題を薄めに、そこにある肉感を強く、生々しく主張した。彼女のその手管に、僕は拍子抜けするほど容易に屈したのだ。

 彼女との共同生活には様々な問題が起きもしたが、彼女の主張した肉感に関する部分については、ほぼ嘘はなかったと言っていい。彼女の美は芸術的であり、ただ彼女が何となく選んだ服を着てそこに立つだけで作品として成り立ってしまうような、罅一つ見受けられない完全な美しさがあった。

 僕は思い立って、ロフトに昇る。既に寝入ったであろう彼女の安眠を妨害しないように、一歩ずつ慎重に足をかけていく。

 そこには、下着姿で無邪気に眠る彼女の姿があった。静かに寝息を立て、毛布を乱し、横向きに寝る彼女が居た。その姿は、起きているとはまるで違う、無垢な少女の顔を曝け出していた。


 * * *


 僕の仕事はウェブデザイン事務所の営業職だった。僕にホームページ制作の経験があり、美大卒の称号もいい感じに箔が付くというので、親のコネで入った会社だった。

 僕はその事務所の中でも特に美的センスが必要とされるウェブ広告の部署に所属していた。しかし、だからと言ってそれらの顧客に美的センスがあるというわけではなく、寧ろセンスのない彼らのために、良いデザインを噛み砕き、戯画化し、彼らの好む場所で説明をしなければならない。そういった洗練の先にはデザインセンスも欠片しか残らず、初期に想定された広告の効果も失せる。

 ここにおける営業の仕事とは、過剰労働に文句を流す設計者やデザイナー、案件を取りたい会社側、取り敢えず流行に乗って二束三文でウェブ広告でも出すかという理解のない顧客の間に挟まって、押し込まれた負担をあちらこちらに分散させるところにあるのだ。もっとも、大体は現場に無理が出てしまう。立場が弱いからだ。

 今回の案件も、いつもと似たりよったりの仕事だ。ある大手スーパーのウェブ広告を作成するというので、実際の内容について細かい部分を詰めるという建前の元、実際はバーで相手のお偉いさんを接待するという内容だった。

 僕は上司の付き添いの元、指定されたバーの予約席に座った。店全体が木で設えられた深みのある色合いをしているのに、やたらと明るいライトの健全さがそれを台無しにしている。席もボックスとカウンターのある場末の居酒屋のような配置をしていて、正直僕にとっては不愉快極まりない。この店は、内装と値段だけがやたら格式の高い、けれど酒場の不健全さを醸し出すことの出来ない不完全で中途半端な場所だった。

 相手は約束の時間丁度に来た。その人物の口調から、体躯から、趣味から如何にも腐敗に適した、菌が跋扈するのに相応しいぬるさを僕は感じ取った。

 商談は早々に飲みの場に変わり、相手はしたたかに酔い、くだらない話をし始めた。彼は値段のかかれていない酒を頼んでは飲み、上司もそれに程々に付き合い、相槌を打つ。僕も所作を真似て頭をかくんかくんと動かしながら、控えめに酒を飲んでいた。

 そこに変化が起きたのは、商談が始まってから丁度一時間ほど経った頃だった。店のドアが開き、二人の客が中に入ってきた。一人は日焼けした筋肉質の若い男性でもう一人は、彼女だった。二人ともスーツを着ていて、彼女はその男性の腕に掴まっている。その様子は強い男と弱い女という典型的な絵図となっていて、もし仮に隣の男が僕であったなら絶対に再現できないあろう空気を纏っていた。

 僕は彼らに釘付けになった。もはや商談どころではなかった。激しい感情の動きが身体中に伝わり熱となり、それが僕の身体を酩酊へと引きずり込んだ。

 接待相手がちらとこちらを見た。興味を逸らすために、上司が話を振る。僕は目だけをビジネスに向け、耳と心を彼女と男性の方へ向けた。

「ここ、良い店だろ?」

「うん。でも、高いんじゃないの?」

「気にすんなって」

 その会話から僕は、阿婆擦れた男女の臭いを感じ取ることができた。男にはマチズモが、そして彼女からは娼婦の如き媚びが滲み出ている。男は元来そういった気性があるのであろうが、見事なのは彼女の態度である。普段の僕には見せることのない、喉を鳴らす猫のような甘い女を演じ切っていた。

「なあ、君もそう思うだろう?」

 高級なウィスキーをハイボールにして飲み下しながら、接待相手は僕に声をかける。

「ええ、そうですね」

 僕がそういった返答をするごとに場の空気が一瞬だけ凍り、上司がその尻拭いをした。きっと僕はこの後上司に、もしかしたらそれよりも上の人間に叱りつけられ、相応の待遇に処されるやもしれない。そのような状況に追いやられることについて僕は声を上げて反発することなど出来やしない。けれども、僕にも同情の余地は存在していると思う。自身と結び付いた人間の裏切りを対面していて、冷静でいられる人間はきっと、そう多くはないであろうから。


 * * *


 僕は帰った。そこにはいつも通り、だらしない姿でテレビを見る彼女が居た。彼女は帰り道で買ったのであろうポテトチップスをつまみながら、何食わぬ顔で僕に声をかけた。

「あ、おかえり」

 ポテトチップス一枚が彼女の口の中に放り込まれ、咀嚼される。彼女はいじらしく、塩のついた自身の指を舐めとっていた。

「なあ。君は一体あのバーで何をしていたんだ。あの男とは、どういう関係なんだ」

 僕の質問を聞いて、彼女は微笑んだ。

「あれ、嫉妬?」

「そういうのじゃない。何故なら君と僕とは、義理堅さといったものとは無縁の関係を結んでいるんだから」

「なあんだ。分かってんじゃん。今更ショックだなんて言われたらどうしようかと思ったよ」

 彼女はそう言い放って、僕の言葉上の見栄の上にどっしりと座り込んだ。彼女はいつも通り、彼女だった。そしてこの時、僕の中にほんの僅かながら残されていた幻想は打ち砕かれた。

「君が移り気なのも、何者にも縛られないのもよく知っているさ。だからこそ君は美しい。

 だが、タイミングが悪い。僕はあの時、商談中だったんだ。そしてそれは恐らく失敗した」

 彼女はあからさまに不機嫌に、その口を尖らせた。

「何。それってあたしのせいだと言いたいわけ?」

「そうじゃないさ。ただ、運が悪かったと言いたいんだ。

 君は見られるべきでない場面を見られたし、僕は見るべきでない場面を見てしまった。これが幸不幸の問題なら、同情の余地はあると思うんだ」

 彼女はきょとんとした表情で、その裏に何の感情も紐付けずに、こう言い放った。

「あたしは別に、見られたってかまわないんだけど」

 その言葉を聞いて、僕は動揺を隠せずにはいられなかった。

「なんだって」

「だって、あたしと君は愛で結ばれていないもの。君はあたしが綺麗だからあたしのことが好きだし、あたしは君が面白いからここにいる。

 それって愛情とかそういうありがちで陳腐なものじゃなく、もっとこう何て言うかさ。損得の問題だと思うんだ。君があたしを縛れないってことぐらい、多分知ってたでしょ。知ってた上で、こうなってるんでしょ?」

 その通りだ。確かに彼女は移り気で解放的で、何者にも縛られない。そういう存在だ。

 だと言うのに、何故か僕は今、実際にその奔放さを垣間見たというだけで、彼女に何らかの行為を停止させようと頭を回しているのだ。その何かは僕にも判別がつかない。ただ、その遊びをやめろと言うような、くだらない物事ではないはずであった。

「それなら、あたしが誰かと付き合ったっていいじゃない。最低でもあたしは、君のところから離れるつもりは今のところない。それで、十分じゃない?」

「じゃあ君は、一体あの男の何処がいいと思って付き合ったんだ。せめてそれだけは教えてくれないか」

 すると彼女は自身の顎に手をあてて、少し考える素振りを見せた後に、こう答えた。

「だって彼、物凄く男らしいじゃない。筋肉質で、力強く他人を引っ張っていくような、そんな感じがさ」

 それらの要素は間違いなく、僕の中に存在しないものであった。














 精神


 後に、あの時の商談が失敗に終わったことが分かると、会社内における僕の立場は非常にまずいものとなる。僕は縁故で採用されている身なので冷遇することも出来ず、かといって重宝することもなく、会社の中で宙吊りのままにされるように、重要な仕事は任されず、誰でも出来るような簡単な仕事だけをお情けで渡されて、後はただ無駄に時間と会社の資産を齧り続ける身となった。

 そんな僕に一人友人が出来た。彼はウェブ広告のシステムを担当するプログラマーで、優秀ではあるがどこか気味の悪い空気をその身に纏っていて誰も寄り付きたがらないのだ。僕は丁度手が空いているので、そんな彼と社内とを繋ぐパイプ役を任されるようになった。勿論その仕事はあってもなくても構わないようなものではあったが、今の僕の置かれた状況には実に相応しい仕事のようにも思えた。

 社内で彼を見つけ出すのは容易だった。作業中の様子が実に個性的だからだ。黒い髪をスポーツ刈りにして、度の強い丸眼鏡をつけ、極端な猫背でパソコンに向かうその様は如何にも怪しく、映画なんかによく出てくる研究室に篭ってばかりの変人研究者さながらであった。

 僕が社内で彼に連絡を行うようになると、自然に彼と話すことも増える。彼はいつも仕事をすぐに終わらせ、定時を越えてまで仕事をせず、定時のちょっと前には大体の帰り支度を終え、定時と同時にオフィスを去るので、社内での評判は良くなかった。それが許されるのは彼の技術力が高かったからであるが、僕は何故彼が定時にこだわるのかが気になり、ある時質問した。

「何故君はいつも定時に帰ろうとするんだい」

 彼はパソコンモニタを見つめたまま言葉を返した。

「定時に帰るのも労働者の権利だ」

「責めてるわけじゃないよ。ただ不思議なだけさ。君は普段から頑張って仕事をしているけれど、居残りすればもっとゆったり仕事をすることだって出来るわけだし。言っちゃなんだが、その方がお金も貰えて手当もついて得じゃないか」

 そこまで言ってようやく彼は僕の方を向いて話をするようになった。彼は手でタイピングを続けたまま僕に言葉を返す。

「なんだ。そういうことならそう言えばいいじゃないか。まあ、俺にも趣味って言うのがあるんだよ。定時に帰るのはそのためさ。何だったら今日でもついてくるかい」

 僕もどうせ社内で仕事があるわけでもなかったので、彼の趣味に付き合ってみようと思った。


 * * *


 彼は定時の時間になると、いつも通り手早く帰り支度を終え、タイムカードを切った。それに倣って僕も同じように会社を出て、彼の後についていく。会社の最寄りの駅から電車に乗り、二回ほど乗り換える。

「一体どこに向かっているんだ?」

「ついてからのお楽しみだよ」

 彼が向かっていたのは海だった。東京湾に面している港の堤防で彼は小さな椅子と折り畳まれた竿らしきものを取り出した。

 海では大小を問わない船が行き来し、遠くにはレインボーブリッジが見える。潮風が容赦なく吹き荒んでいる。

「一体何を始めるつもりなんだ」

「見りゃ分かるだろ? 釣りだよ」

 その椅子に座り込みながら彼は手際良く竿を組み立てていく。

「こんな場所で釣れるのか」

「運否天賦だね。釣りは何処でやってもそうだよ」

 彼はいつから持っていたのか、小さなアサリの入ったパックを取り出し、そのうちの一つを針先につけた。

「何が釣れるんだ?」

「色々」

「随分と適当だな」

「アサリを食う魚なら何でも釣れるよ。針はそう大きくないから、大物は釣れないけれど、まあこの状況で大物が釣れたって困るしね。

 あ、動くなよ。動くと危ないからな」

 そう言って彼は、竿を振って餌のついた仕掛けを海へと投げ入れた。

「あとはまあ、赴くままに動かすだけだよ」

 彼は呟いて海を見た。その目の色を伺うことは出来ないが、会社の中に居る時よりも心なしか穏やかな面持ちとなっているような気がする。

「つまり、君の趣味は釣りってことかな」

「そうじゃない。色々な場所に行って、食えるものを採って食べるのが趣味だ。釣りはあくまで手段の一つに過ぎない」

「都内じゃやりづらそうな趣味だ」

「そうでもないさ。普通の奴には雑草にしか見えない草とか、君がよく見かける動物とかでも食べると美味しかったりするんだぜ」

「汚いんじゃないか、それは」

「そりゃ思い込みだよ。例えば俺の食べる野草が犬の小便を垂れた後のものだったとしても、茹でたり洗ったりすれば健康上の問題は何もない」

 僕の言葉に一つずつ答えを返しながら、彼は小さく竿を動かす。着いた頃と比べて風も穏やかになっていて、その身に感じる肌寒さも多少はマシになっていた。

「成分上は問題ないのに何となく汚いと思う。これはいわば現代に残った迷信だよ。美味しいものは美味しいし、まずいものはまずい。綺麗なものは綺麗だし、汚いものは汚い。どんなに綺麗だと言っても、駄目な奴にとっては汚物だし、他人から見て汚く思えるものでも、人によってはご馳走なんだ……お、なんかきたな」

 彼はその手を細かく動かし、竿を操る。竿の根本につけられた糸を巻き取る装置のハンドルを回して糸を手繰る。その速度は早くもなく遅くもなく、何処か焦れったさを感じるものだった。

「もっと早く巻き上げないのか」

「そうすると針から魚が外れちゃうんだ。勿論、遅すぎても外れる。丁度いい加減っていうのがあるのさ」

 そう言って彼は淡々とハンドルを回し続ける。ある程度時間が立つと彼は立ち上がり、堤防の縁によって海を覗いた。

「おめでとう。釣れたよ」

 他人事のように、彼は言った。その手元には水族館で見たことのあるユーモラスな形をした魚があった。四角い形をしたその魚は小さなひれを揺らして、宙を泳ごうとしていた。その姿は滑稽だった。

「それ、なんだっけ。見たことある」

「ハコフグだよ」

「食べられるのか? それ」

「食べるかどうかは君次第だ。何かを食べるという行為には責任が伴うものさ。君が体調を悪くしても俺は責任を取れないからな」

「じゃ、逃がすのか?」

 僕がそう質問すると、彼はにっと笑いかけてきた。

「君が食わないなら、俺が食うけどね」

 その笑みは不気味で純粋で、そこからは悪意に等しいものは何一つ見出されなかった。


 * * *


 その日から僕らは仲良くなった。彼は意図的に孤独を選び、僕は社内において孤立し続けていた。

 僕はたびたび彼の趣味に付き合い、色々な場所へ遊びに行った。思えば僕は家族と一緒に遊びに行った記憶がない。ただ何処かに行ったということだけはあっても、あの家族の中に居たという不愉快な感覚だけが染み付いていて、遊んでいるという自覚を持つことが出来なかった。そういう意味では僕は彼から遊びを教わったと言っても過言ではない。

 彼は奇矯な人物ではあった。雑草と見分けのつかない野草を採ったりしているならまだ良い方で、ある時などは道端の蛙を捕まえ、即座に首を切り、小さなコンビニ袋にそれをしまいこむようなこともあった。しかし、そういった行為に悪意はなく、彼はただ自分が美味しいと、食べられるのではないかと思うものを収集しているに過ぎないと分かってからは、それらの行為を恐れることはなくなった。僕もまた彼を信用し、自分の芸術の話をするようになっていた。

 彼が女っ気のない、趣味一本筋な人間であったのも僕にとっては都合が良かった。仮に彼がそういった俗な異性の話をするような人間であったなら僕はこれほど彼と親密な仲を形成するようにはならなかっただろう。何故なら、そういう普通の人間は得てして恋愛を社会の尺度からしか覗き込むことをせず、例えば僕と彼女の関係を聞いたとするなら、それを不健全だとか、君は騙されているとか、くだらないことばかり言った挙句、人生の先輩であるかのように得意顔を晒しながら、結局のところなんにもしてくれないからだ。結局彼らは他人のために忠告するのではなく、忠告をする自分に酔うために忠告をするのだ。

 ある日僕は、彼に連れられて居酒屋に行った。彼が言うには、この店では他の場所では出さないような珍しい魚を扱っているそうだ。

 店は駅前のちょっと入り組んだ路地の中にあった。街灯の光さえも窮屈そうに上辺だけを照らすような狭い路地の中に使い古された暖簾の掲げられた純和風の入り口だけがあり、戸を開いて中に入ると、夫婦らしい老年の男女二人が料理を慌ただしく作っていて、僕らの方に少しだけ目をやると、響かない程度の声で

「いらっしゃい」

 と言った。

 店内には座敷とカウンター席とがあり、どちらも木と畳を使った趣のある外観をしていて、その全てが店の歴史を表す年輪かのような、細かな傷が刻まれていた。

 彼は慣れた様子で座敷に重く座り込み、手書きのメニューを手に取った。

「ここ、高いんじゃないのか」

「そうでもない。まあ、均一価格のチェーンみたいな安さじゃないけど、きっと後悔はしないさ。一つ目はビールでいいか」

 注文の後、すぐにビールと突き出しが出てくる。冷えたジョッキで乾杯し合うと、彼はいつもと同じ調子でこう言った。

「君、多分やばいよ」

「何の話だ」

「面白くない話だ。具体的に言うと会社の話さ」

「そりゃ面白くない。何せ、話すことなんて分かり切っているからね。多分上が僕の首をなるべく穏便に切り落とそうって言うような、そういう相談でもしていたんだろう」

「まあ、そういうことだね。君ももうちょっと、身の振り方について考えるべきだよ」

 彼のその物言いに思わず僕は笑ってしまった。

「よりにもよって君がそれを言うのか。君だって社内じゃ煙たがられているだろう」

「確かに、それは事実だ。けれど君と俺とには決定的な違いがある」

「それはなんだい」

「君は追い出されようとしている。けれど俺はそうじゃない。

 そこを分けたのは何かと言えば、君と俺との性質の違いだよ。俺は確かに浮いている。だがそれでも必要とされるだけの技能がある。ぎりぎり不愉快でない程度の無害な人物であり続けている。

 その点で君はどうだろう。恐らく会社の上の奴らにとって君はどんな存在なんだろうね」

「そんなことを気にする必要性が一体どこにあるって言うんだ」

 僕が言うと、彼はにやりと笑った。

「そうさ、そこだよ。君と俺を分けるのはそこなんだよ。きっと君は、食うのに困ったことがないだろう」

「食うのに困るって、この時代に有り得るのかよ」

「最低でも俺はそうだったからね。腹が減ってしょうがなくて、雑草詰んだりザリガニとったりするような、そういう子供も現代にはまだ存在するのさ。そんな生活をしてきたから勿論周りと話が合うはずもない。ゲーム機もテレビもパソコンも家にはなかったよ。だから俺はどう足掻いたって普通の立場にはなれないが、それでも生に対する執着だけは人一倍ある。君には、それがないんだよ」

「僕だって、死にたくはないさ」

「それはただの一般論にすぎないね。一言だけで完結してしまう。君は自身の保守について致命的に無頓着なんだ。どうやって食い繋いでいこうとか、そういう不安が心中に全くない。

 例えば君が今の会社をクビになったなら、一体何処で何をして生活をするんだ。君は多分そういうことを一切考えていないような気がするし、きっと考えなくても生きていけるんだろうと思う。

 君の話す芸術は、そういう温室みたいなところで育まれてきたものだ。俺はそういうことに詳しくないから、間違ったことを言っているかもしれないが、きっと芸術ってのはそういう場所から湧き出てくるものじゃないんじゃないか。

 あえて今聞こうと思うんだ。君は一体、何のために芸術をやっているんだい?」

「勿論、僕の思う美しいものを表現するためだよ」

「その美しいものというのは、具体的にはなんだ。もっと踏み込んだ言い方をするなら、それは君にしか表現し得ないものなのか?」

 淡々と言葉を返す彼に対して僕は語気を強め、こう返した。

「当たり前だろ。そうでないなら、誰が芸術なんか、芸術なんかやるもんか」

 僕の頭の中では、彼女の姿が浮かび上がってきていた。彼女こそ僕の目指すべき、表現するべき芸術の形態なのだ。そのために僕は芸術を続けているのだ。

 僕の言葉を聞いて彼は呆れるでもなく平常を保ちながら言った。

「君がそう言うのなら、俺は君に何もすることは出来ない。何故ならそれは単なるお節介にしかならないからね。

 もし気分を害したというなら申し訳ない。君にとっての俺がどのような存在なのかは分からないが、俺にとっては数少ない友人だから、大事なんだよ。それだけは分かって欲しい」

 そう話した後に、一拍置いて彼は言う。

「ところで、日本酒は平気かな。一緒に飲もうぜ。魚によく合う」

 彼が僕のよくしらない日本酒を頼むと、徳利一つにお猪口が二つ出てきた。僕らはお互いに酒を入れ合い、共に飲んだ。












 超克


 ある日僕は彼女に対して、僕自身を取り巻く現状について素直に告白した。

「僕、会社居られなくなるかも」

 なるべく深刻さが出ないよう、あくまで日常の些事の一つを話すように僕はそれを口に出した。そして彼女の返答もまた、僕の言い方によく似た、薄っぺらなものだった。

「ああ、そうなんだ」

 驚き一つ見せない彼女を見て、僕は思わず苦笑した。

「少しぐらい驚いたらどうだい?」

「だって別に、家を追い出されるじゃないでしょ。この部屋だって君じゃなく、君の親が支払っているし、実家太いんだったよね。じゃ、困ることもないかなあって」

「つまり君はなんだ。僕が仕事をやめたら、尻尾を巻いて実家に帰れとでも言うのか」

「それは困るよ。私の住むところがなくなっちゃう」

 そう言って笑う彼女の姿は普段と何も変わらず、全く以て美しい。しかし僕は、そのような彼女の物言いに何か言葉にできない引っかかりのようなものを感じ取った。それは水路を堰き止める一枚の板のように全体で見れば小さななものではあるが、その一点が崩れた時に全てが流れ出てしまうような重要な事柄のように思えた。

 僕は言った。

「君は、自分のことを美しいと思ったことはあるか」

「君はあたしのことを綺麗って言ってくれるよね」

 そこには目に見えない壁があるように思われた。僕と彼女との間には何もないように見えても、実際には致命的な断絶が存在するのだ。

「僕にとってはそうかもしれない。他の人もそう思うかもしれない」

 彼女は『他の人も』というフレーズを聞いて、明らかにその顔を綻ばせた。

「でも君にとって君の美とは、一体何なんだ。僕にはそれが分からないんだ」

 彼女は言った。致命的な一言を。

「道具よ」

 つまるところ、これが彼女と僕との間にある断絶だったのだ。

「物凄く便利な道具。私が女で、しかも綺麗というだけでみんな上手く行く。勿論、手入れは必要だけどね」

「それは本当に、美しさというものの本質なのか。美しいものとは常に何かで使える有用なものでなければならないのか?」

「だから、これはあくまで私の考え。だって私、ナルシじゃないもん。そこまで思い込んでいたら、ちょっと気持ち悪いよ」

 僕は、力を込めて言った。

「違う!」

 その一言は、彼女とそして自身への強烈な否定であった。既に僕はこう言った瞬間、全てを理解した。理解してしまっていたのだ。

 彼女は驚き、ほんの少しだけ身を引いた。それを意に介さず、僕はただ僕のせん妄じみた言葉を吐き出し続けた。

「君はそれじゃ、それじゃあただの、普通の人間じゃないか。人より見た目の良いというだけの、ただの普通の人間じゃないか。

 いいか。君は理解していないんだろうが、僕にとっての君は、美しい紫陽花の一つでなければならなかったんだ。そこにどんな現実的な観念を毒のように持っていようとも、君は美しい花でなければなかった。けれど、今君はそれをやめたんだ。僕にとって君は、美しくなければならなかったんだ。そうでなきゃ、僕は君を見て芸術を夢想することが出来ないんだ」

 彼女は言い返す。

「そんなの、あなたの自分勝手じゃない。なんで私があなたのために外っ面取り繕わなきゃいけないの。私は花じゃなくて、人間なのよ。分かってるの?」

「君の言っていることは正しい。その通りだ……でも、だからこそいけないんだ。君は僕を、僕が思う君を理解していなかった」

「さっきから、なんでそんな抽象的な言い方をするの」

「抽象的な、掴みどころのない話だからだよ。

 本当の醜い人間的な部分を話してしまえば破綻する。そして今君と僕とは破綻しかけている。例えば君が僕を利用してこの部屋に居座っていたとしても、ただ僕の理解者であるという風にして僕を弄んでいたとしても、少し前までなら、君がまだ花であった時ならば許せた。けれど、もう君は人間なんだ。君は花であるという建前を捨てて、人間になってしまったんだ」

 僕のその言葉を聞いて、彼女は明らかに狼狽えていた。彼女はきっと僕を、ただの芸術家気取りのボンボンぐらいにしか見ていなかったんだろう。そして、その考察は実に正しいものだった。僕も今こうして話すことで、初めてそれを理解出来た。

「僕にとっての芸術はきっと、もっとしょうもない何かだったんだ。今の僕には理解できないが、ちょっとしたボタンの掛け違いみたいなものだったんだよ。そこで君が現れて、僕の思う芸術を包み込んだ。けれどもう君は花じゃない」

 強く力を込めて、僕は言った。

「君は、人間だ」

 そう言った瞬間、僕の芸術は終わりを告げた。


 * * *


 この日、僕は自分で自分を超えた。それはまるで風船のような、形は存在していても中身のない伽藍堂なもので、その事実について僕はようやく気がつくことが出来たのだ。

 そこには何の報酬もなく、達成感さえも得られず、ただただ虚しさだけがあった。進むことが必ずしも自分の利益に繋がるとは限らないのだ。

 僕も彼女も、彼も、家族も皆、フラクタルな社会の一構成物に過ぎず、ただ社会という名のモザイクアートを形作っていたのだ。

 その中で僕は役割一つ見出すことが出来ず、ふわふわと空気の中を漂い続けてきたに過ぎない。僕が何者なのかを説明出来る確固たる単語など存在し得ない。

 だが、ただ一つだけ言えることがある。僕は、芸術家ではなかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る