飛んでいた鳥の落ちる時

 序章


 リョコウバトと言う鳥が居た。

リョコウバトはその名の通り、時期が来ると越冬のために群れで移動をした。その様子を当時の人間は、まるで空をリョコウバトが覆い尽くさんばかりに飛び交っていたと言い、その時代を知っていた人間達は皆こう考えていた。まさかこの鳥が絶滅することなどあるまいと。

リョコウバトの肉は非常に美味であった。当時の人々はその手に銃を持ち、空を埋め尽くすリョコウバトめがけて、弾丸を打ち込んでいった。そうして、飛んでいた鳥は落ちていった。


 前章


 十一時十九分、新宿駅東口駅前広場。ここでは、人種性別を問わぬありとあらゆる人間が通り過ぎ、また或いは他の誰かを待っている。そのような群衆の中にあって私は一人、待ちぼうけを受けていた。

灯花は来ない。約束の時間はとうに過ぎているというのに、あの子はライン上で呆れるほど気楽な調子で

「ちょっと遅れる」

 という一言と共に、何かのキャラが謝る動作をするスタンプを送りつけてきた。

遅れることそのものについて、私は何か強い怒りを覚えたりするような性質ではない。ただ、この場所で女性が待ちぼうけを食うというのは、どうにも座りの悪い部分があった。

「ねえ、お姉さん」

 何処からともなく、誰が呼んだもないのにその男はあらわれた。白いシャツに青いジーパン、黒のキャップ。細い身体に腑抜けた笑顔。没個性的でありながら人に好かれるその風体は、何処と無く100円ショップの商品に似通った要素があるように思われた。チープでシンプル、その弱さにこそ自信を持つ態度……俺は廉価品だよと胸を張る様子。

「君だよ。暇してるの?」

 自分の口の端がピクリと、引きつるように動いたのが分かった。悪い癖だ。

私は言った。

「ナンパ、お断り」

 男は後頭をかき、如何にも困ったという様子で声を出す。彼はまるで自分が被害者であるかのように気取る。

「そんなさあ……冷たい態度取らなくったっていいじゃない。お友達になりたいなあって、そう思っただけなんだよ」

「ここ、すぐそこが交番だって自覚ある?」

 男の眉がほんの少しだけ動いた。私は頬が、この男は眉が、理性よりも心に影響されやすいらしい。

男と私は目と目で見合った。喉元に滞るような気怠い空気が辺りを漂う。瞬間、背後から拍子抜けするほど軽い声がした。

「ごめん水樹。待った?」

 私は灯花の腕を掴んで、脇目も振らずに広場を駆け抜けた。


* * *


 私と灯花が入ったのは、こういった繁華街にはありがちな、中途半端なイタリアンだった。

隙間も路地も出来ないぐらいにぎちぎちに詰められたビルの一階をさらに狭苦しく加工して、席の少ないのをいいことに満員御礼とツイッターに書き散らしながら、実のところ全ての席が埋まることもそうそうないような、そんなお店だった。

その時は丁度昼の一番の書き入れ時で、空いているのは外の席のみだった。普段であればその時点で論外なのだが、この時は取り敢えず何処かに座りたい気持ちでいたので、それを了承した。

「こういうのってさ」

 前菜を食べ終え、いそいそと食器が片されていく中、私は言った。

「なんて言うんだっけ。オープンテラスとか言うけど、何かそれっぽくないような」

「何でもいいんじゃないの」

 灯花は感慨もなく、淡々とそう呟いた。

「まあ……とにかく、外の席だね。こういうのが路上に面していると、何か自分が見世物になっているような感じがしない?」

 路上の往来を望みながら、私は灯花へそう問いかける。

「見世物でも、いい気がするけどなあ」

「何だか無関心だなあ、灯花は」

 私が言うと、灯花は耳辺りに手を添えた。何か考え事をする時、彼女はそうする癖がある。

「お腹すいてるから、今はとにかくご飯かな」

 それが彼女の結論だった。

灯花は昔から万事が往時この調子であった。例えば前日に有名芸能人の結婚があっても。

「あら。そうなんだあ」

 また、前夜に大きめな地震があったとしても。

「ああ、そうだったんだあ」

 そう、その調子。そんな風な応答で、何事もやんわりと笑って知らなかったと言うその態度を嫌う生徒は多かったが、私はそうでもなかった。

私は彼女と小中校の十二年間に渡り、偶然にも同じクラスの中で生活をして、その途上でようやく気付いたことだったが、これは彼女なりの処世術なのであった。どんな場にも何か薄暗い話題を持ち込んだり、或いは派閥を作ってそのトップに立とうとする奴ばかりで、それに対してこの態度は、彼女を味方につけても意味がないと悟らせるのに十分な説得力があったのである。もっとも、この発見について彼女に大っぴらに事実確認をしたわけでもない。どうせそうしたところで彼女は

「ええ、そんな気なんてないよ」

 と言うに決まっているからである。

やがて、互いのメイン料理が出されてくる。私は魚料理で、灯花は肉料理だった。

「きたきた」

 灯花は笑顔でフォークとナイフを持った。好きな食べ物を前にした子供のようであった。

私の料理はカジキのソテーで、灯花はチキンのトマトソース添えだった。

 灯花が憂いなく鶏肉にナイフを入れだした時に、私はぼそりと呟いた。

「私もお肉にすればよかったかなあ」

 切り取った肉を食べて、目を細めて笑みを浮かべた後、彼女は答えた。

「後悔、先に立たずよ」

「まあ、その通りだよね」

 カジキの身を切り、一緒に炒められたケイパーをそっと上に載せて食べる。案外、悪くはなかった。けれども何故か私は、彼女が切り取っている鶏の存在が気になるのであった。

「ああ、分かった」

「どうしたのお?」

「あのさ。『旅行鳩』を思い出したんだ。多分そういうことなんだと思う。何か引っ掛かるような気がしたの」

 とぼけるように、彼女はいつもの言葉を言い放つ。

「なんだっけえ、それ」

 そう言って彼女は笑った。


* * *


 小学校の入学式の時。私が泣いてしまったことを、両親はよく話に出す。けれども、その理由を知っているのは私だけだった。

一言で表せば、それは目であった。私はその時まで、親たちが口々に話す薔薇色の学校生活に思いを馳せていたはずであったのに、いざその時となると、その精神は真っ暗な井戸の底に放り込まれてしまった。

入学式の日。親の手から離れて私は教室の扉を開いた。そこには数十人の生徒が居て、それらの目が一斉にこちらを見た。別におかしなことじゃない、なのに私はそれが無性に怖くて、泣いてしまった。その時の感覚を、私は今も覚えているし、持っている。勿論目に涙を浮かべることはない。けれど、それでも私にとって沢山の人の目というのは、恐怖の対象のままだった。

高校の入学式の日。私が灯花と友達になった日。あの日の私もまた、沢山の目の前に立たされた。

儀式を終えた後、私は全員に配られたクラス名簿の名前を見た。その中にあった灯花の名前に、私はちょっとした引っ掛かりを覚えた。確か私はこの子と同じ学校に居た。小中合わせて九年で、高校まで同じとなればこれで十年間同じ場所に居るということで、これはつまり当時の私の人生の三分の二を共に過ごしているということになる。

私はその日のうちに彼女に声をかけた。彼女は今と大して変わらない、混じりっ気のない表情を浮かべていた。

「なあに。どうしたの」

 私は言った。

「ねえ。多分あなたって、中学。あそこだったでしょ。この高校すぐ近くの」

 私が学校の名前を口にすると、彼女は首肯した。

「やっぱり。私ね、あなたと小中と同じ学校にいたの」

 すると彼女は、今とまるで変わらない、あの決まり文句を吐いたのだった。それはつまり

「あら、そうだったの。知らなかった」

 という言葉で、その言い方まで同じだった。

「私、水樹っていうの。よろしく」

その日から、私と灯花は友人同士となった。私達は校内で大体同じ場所に居て、部活動も同じものを選んだ。文芸部だった。もっとも意識的にそうしていたのは私の方だけだったかもしれないのだが、灯花はそれを嫌がらなかったし、私もそれ以上の何かを証して貰おうとは思わなかった。


* * *


「文芸部で出した本の名前。忘れちゃったの」

 私がそう言うと、灯花の手と手が結ばれた。

「ああ! 作ったね。懐かしいなあ」

 既に鶏はなくなっていた。灯花は行儀良くナイフとフォークを揃えて置く。私も同じようにしてみたが、何故かそれは無秩序な列を成して、綺麗な形にならなかった。

「でも、本当に懐かしいなあ、旅行鳩。考えたのは、水樹だったよね。本当なんか、物凄く昔のことみたいで、ちょっと前のことだっていう実感があまり湧かないな」

「確かにね。色んな物事が一気に押し寄せてきて、留まるところがなくて」

「そうだ。水樹は覚えてる? 中学の時のことなんだけど」

 私達の間に、コースのデザートが運ばれてきた。苺ソースのかかったパンナコッタだった。

「中学? あんまり覚えてないな。何かあったっけ」

 私がそう返すと、灯花は珍しく感情を顕にし、こう言った。

「忘れちゃったの! 私が覚えてるのに」

「確かに、珍しいかも」

 私は笑った。

「自殺した子が居たの。長い黒髪の、すごく綺麗な子が」

「そんなことあったっけ。もしあったとしたら、覚えていそうなものなのに」

「本当。印象的というか、あれはもう何か、お伽噺みたいで、何だか私、あの場所にずっと心が捨て置かれてるような気持ちになることがあるの」

 灯花は小さなスプーンでデザートを掬い、それを口にした。小さな子供のような笑みを浮かべて一言、美味しいと言った。

「でもさ。確か、私達が通ってたあの中学校、廃校になったんじゃなかったっけ」

「え……ああ、確かに。そう聞いたような気がするけど、今の今まで忘れてた」

「寧ろ、そのほうが灯花らしいよね」

「なんか馬鹿にされてる感じ」

 私もデザートを少し食べてみた。成る程確かに、甘い物好きな灯花が好きそうな味だった。

「でも、そしたらあの校舎は」

「もう壊されていたりして」

「それはちょっと困るなあ。だって私、あそこで立ち止まっちゃって、振り返った先にあの学校があるような気がして」

「何だか文学的な言い回し」

「だって元文芸部だもの」

 灯花がそう言って、私達は笑いあった。

「そうだ。それなら、水樹……この後、学校行こうよ。廃校になった中学の、あの校舎に」

「ええ、今から?」

 言いながら私は時計を見た。今から行けば、暗くなる前に着くだろう。

「そう。今から!」

 そうしてこの日の行き先は決まった。


* * *


 文芸部の部屋は校舎の端の位置にあった。元は用務員の休憩室であったというその部屋は、午前中には薄暗く、逆に午後になると西日が部屋全体に差し込んで、一気に温度が上がってくる。

それでも私達二人は、放課後になるといつもこの部屋に来て本を読む。それ以外にすることもなかったし、先述のような条件があってもこの部屋は実に使い勝手のいい場所だった。

文芸部の部員は私達二人だけで、そこに教師が一人ついて、三人で運営されていた。この教師というのがまた個性的で、三十手前の若い男性で、私達のことをこう呼んだ。

「今日も来たんだな。小鳥たち」

 私は教師のその言い方からひよこを連想していた。ひよひよと鳴く沢山のひよこ。それが雄と雌で選別されていって……そんな情景だ。

この教師はその若さに相応しい精神を持っていて、ただ話しているだけでもその浪漫主義者ぶりが伝わってくるような人物だった。彼は私達生徒の中に青春の美しさが常に内包されていると心の底から信じ込んでおり、どのようなことがあってもそれを訂正しようとしない。それに加えて常に清潔感のある服装で居たので、彼は若い女性教師とか、或いは逆に大人びた空気を持った女子生徒と何らかの関係を結んでいるのではないかと疑われることも多々あった。

私はと言えば、その教師について何かそのような空気があるようにも思えず、ただこの廃部寸前の小さな部を維持してくれている人であると言う以上の感想を持たなかった。文芸部室には水道が通っていて、その教師は部屋に冷蔵庫や電気ケトル、ティーパックなどをこっそりと持ち込んでいたので、私達はそれについて黙っている代わりに(という体で)彼の持ち込んだお茶を好き勝手に飲んでいた。そこには家庭科の授業で作ったクッキーとか、或いは彼が職員室で誰かから渡されたお土産みたいなものが並んだりもした。

私と灯花の二人は、三年間ずっと文芸部に所属し続けた。しかしある時、彼が珍しく真剣な調子でこう話をした。

「活動実績のない部は廃部にすると言われたんだ」

 その時確か灯花は紅茶を啜っていて、何も言わずにいて、私が代わりに言葉を返した。

「でも私達、何かで賞を取るようなセンス、ないですよ」

 すると彼は口の端に笑みを浮かべ、こう答えた。

「そんなのはきっと誰も期待してないよ。ようはそのさ。職員室の奴らは……」

 その言い回しは如何にも彼らしいもので、こういった態度が生徒たちに好かれているのだろうと私は理解した。

「僕らが何もしてないと思っているんだよ」

 それは事実そうなので、私は特別否定しようとも思わなかった。

「だからね……部誌を出そう。次の文化祭に合わせて。そうすればいい。後は僕が何とかする。どうだい、やる気はあるかな?」

「私はいいけれど……灯花」

「勿論。断る理由なんてないじゃない。やらなきゃならない理由はあってもね」

 そうして私達二人は……いや三人は、協力して部誌を出すことに決めた。


* * *


 私達二人は新宿を出て中学へ向かった。既に校舎には立入禁止を示すテープが張られており、私はそれを跨ぐのに躊躇したが、灯花は何ら躊躇することなくテープを飛び越えた。

「私達卒業生が何を気を遣う必要があるの。OBを通さない学校なんて何処にもないじゃないの」

 既に廃校になっている以上、ここは学校でも何でもないのだけれど、それを理解した上で私は彼女に付き合うことにした。

私達が踏み入れた段階で、校舎が何に使われるのか定まっていないようで、中にはかつて私達が使用していた靴箱や用具入れ、机椅子等がそのまま捨て置かれており、床には雪のような厚さの埃が降り積もっていた。教室のカーテンは閉じられていて、まだ昼間の三時だというのに、中は怪しいほどに暗い。

その様子から私達は、各々の持つスマートフォンのライトを手に、ゆっくりと廃校舎の中を歩き出した。

私は何とはなしに、思ったことを口にした。

「これってなんか、肝試しみたいだね」

 私の前を歩いていた灯花が振り返り、言った。

「確かに! 言われてみればその通りだわ」

 そうして灯花は隣に歩み出て、私の腕をがしっと掴んだ。

「肝試しなら、私が先行していったら意味がないじゃない。二人一緒に行きましょ!」

 目的の摩り替わった母校見学は、新しい目的に見合った場所を重点的に周るようになった。

例えば理科室。例えばトイレ。そんなような、何か怪談映えしそうな場所ばかりを周って、最後に私達は屋上へ行くことにした。

屋上に至る階段では橙色の西日が差して、私達が巻き上げたであろう埃が宙に浮かんでいるのが見て取れた。

やがて私達の面前に、屋上へと通じる重々しい扉があらわれる。経年劣化によって錆びついたそれは扉というよりは一種の壁の形態を取っていて、私達二人はノブを捻りながら、押し込み強盗のように無理やり屋上へと押し入った。

その世界は、夕日色に染め上げられていた。錆びついた手すりや、地平線へ沈む夕日、そこを通り抜ける一陣の風から、私は世界破滅の夢想をした。ここにはまるで、生命など存在しなくてもよいと誰かが告げているような、そのような空気が漂っていた。そして、校庭を望むことのできる場所には献花がなされていて、それは暗に灯花の記憶が正しいことを証明していた。

「ほら、花。やっぱり私の思った通り」

 そう言いながら灯花は花を手に取り、それを夕日に向かって放り投げた。花は宙へ浮かび、やがてそれはバラバラになって校庭へと落ちていく。

「何してるの!」

 私の言葉を聞いてか聞かずか、彼女はけらけらけらと笑い出した。

「ああ、物凄くすっきりした!」

 そうして灯花は、まるでバレエのようにくるくるとその場で回る。やがて目を回し、彼女は尻餅をついた。

「ねえ、灯花……大丈夫?」

 私が問い掛けると、彼女は曖昧な表情で私を見た。

「水樹。私はね……今捨てちゃったんだよ」

「……花を? それとも、別の?」

 すると、彼女はいつも通りの言葉を吐く。

「分かんない!」

 そういってまた彼女は、軽快に笑い出した。


* * *


 部誌を出すに辺り、灯花と私はある問題に突き当たった。部誌の題名をどうするか、ということだった。

「先輩たちが作ったものを真似すればいいんじゃないですか」

 私が教師に向かって言うと、彼は如何にも困り果てたといった様子で言葉を返した。

「実はね。最後に部誌を出したのがもう随分前のことのようでね、残ってないんだよ。だから先輩たちがどんな題で部誌を出したかも分からないんだ」

 そうして私達はまず第一に、部誌の題名を決めるところから始めた。そうは言っても私も灯花も、何かを表現する能力が卓越しているわけでも、コピーライターのように特定のキャッチーなキーワードを思いつくセンスがあるわけでもない。私達は早々に行き詰まった。

その上で、部誌の題名が決まった時には案外すんなりと行ってしまった。二人でただ何となく、部室からバードウォッチングでもしてみようと思って借りてきた鳥類図鑑の、絶滅種の欄にあった綺羅びやかな鳥の写真を見た。

その鳥は、リョコウバトと言った。


* * *


 廃校舎探索の後、私達は近くの居酒屋でお酒を飲んだ。その際、灯花は勢いよく酒を飲み、そして強かに酔った。私はふらつく彼女を支えながら、電車へと乗り込む。

「ねえ水樹」

 酔いが回り、頬を赤く染めた灯花は私にしなだれかかり、粘着質に物を言う。

「今日さあ。楽しかったよねえ。ねえ?」

「うん、そうだね。そうね」

 そう答えながら私は彼女の肩を掴む。

灯花は小さい。とても女の子らしい。それでいてとらえどころがなくてふわふわとしている。

「私ね……水樹。私、水樹には、嫌われたくないなあって思うんだ」

「どうしたの。唐突にそんなこと」

「何となく。えへへへ」

 そうして彼女は半ば眠りに落ちていく。その様子を見ながら何故か私は、昔のことを思い出した。

灯花は、あの教師と関係を持っていた。


 後章


 その日は丁度秋分の日も近付こうと言うような頃合いで、肌寒い空気が徐々に夏を侵し始めていて、私は夏服を着てきたことを後悔した。その日は日直の仕事があって、私は普段よりも遅い時間に部室へ向かった。きっと今頃部室では灯花とあの教師が二人で、文化祭のことを相談し合っているのだろうと私は考えていた。

人通りの少ない校舎の端。夕色の光が廊下を照らす。空に浮かんだ埃がそのまま喉にひっついてしまうような空気。文芸部室の前に至るまで、気味が悪いほどに静かだった。そうしたところから私は扉を開くのを躊躇った。

中から声がした。

「駄目だろう」

 教師の言葉。それに対し灯花ははっきりとこう答えた。

「駄目なのはあなたの話でしょ。ねえ、そうじゃないの」

 灯花はそう言った。私は扉の隙間から部室を覗き見た。灯花は教師の首元のネクタイを掴んでいる。

「ここを何処だと思っているんだ」

 その声には当惑の色があった。それからは教師の、というよりも歳相応の男性のような感覚がある。それに相対する灯花の顔には、或る不敵な、挑戦的な笑みが浮かんでいた。彼女にはまるで怖いものなど何もないと言わんばかりに、ただじっと教師の顔を見つめていた。

 やがて教師は、観念したかのように、気重な感じで彼女の両肩にその手をのせた。二人の顔は近付いて行く。そうして二人の唇と唇が交わった。瞬間、私は息を飲んだ。張り詰めた空気を口から吸い込んで、それが身体の中で膨らんでいくような感じがした。

そして、灯花は私を見た。唇と唇とを触れさせたままに、横目でもって私の立つ扉の方を、確かに見ていた。

心がそう思うよりも先に、身体が動いていた。灯花の居る部屋へ私は入り込む勇気を持てず、その場から逃げ出して、あの時に見た決定的な場面を記憶ごと消し去ろうと私は努力した。けれども、その記憶は消えるどころか私の中で確固たる存在を確立していきながら、私の記憶の中に揺曳した。


* * *


 真夏の電車の中。空気の押し潰されるような音と共に扉が開かれる。それと同時に沢山の人が車両へ踏み込み、中は人で埋め尽くされる。その集団の中にあって私は、地毛の茶髪を黒く染め、黒尽くめのスーツを着て、スマートフォンに表示される時刻と路線図とを交互に見つめていた。

黒は熱を吸収する色である。だというのに、私達就活生はこの夏の日にあって、その色の服を着ざるを得ない状況下に居る。この営みにはある種の呪術的な装いがあり、それはつまり、悪目立ちすることがないようにとか、或いは逆に他の同じ就活生の中でも抜きん出て見えるようにと言うような願い掛けばかりが堆積していて、その何処にも確証というものが存在しないのだった。故に、そこにつく助言も皆何処か観念的な響きを伴うものとなり、どれが本当でどれが嘘なのかさえ、言われる方も、そして恐らく言っている方も理解できはしないのだ。やがて私は今日面接を受ける会社に来る。灰色のそのビルは墓標のようにそびえ立って私を待ち構えている。

私は背筋を伸ばし、もはや手についたものとなった数々の所作をこなし、面接へと至った。そこまでの動作の数々は定型化しており、寧ろそこから逸脱することの方が恐ろしいことのように思えた。それを受ける相手もまたその所作を受け入れ、強く非難することはなく、どれだけそれらの所作を何の動揺もなくこなせるかが彼らにとっては重要であり、言うなればこの一連の動作は神社での二拝二拍手一拝のような、儀式的な気風を帯びていた。

私はビル内にある何処か湿っぽく静かな部屋へと通された。そこにはもう一人の就活生が居て、私はその人物が誰であるかをすぐに察知した。

「それでは、自己紹介をしてもらっていいかな。相原さんから」

 言われて、灯花は立ち上がった。

「はい。私は相原灯花と申します……」

 そこに居たのは灯花だった。私も灯花も動揺を表に出さず、ただ淡々と言葉を紡ぐ。それは例えば寺社のお経のような、ある言葉を繰り返す呪文のような感覚で、二人はその呪術の巧緻者なのであった。

そうして呪文は繰り返された。眉の動きから、その足先に至るまで、全てはその場のために捧げ尽くされていた。

やがてそれら一通りの祭礼は終わりを告げ、二人は部屋から抜け出した。けれども私達は二人が友人同士であると思えないぐらいにその間に漂う空気が冷え切っていて、私も灯花も何ら言葉を発することはなく、まるでお互いが他人同士であるかのように別れていった。

その会社は事務職の応募であったが、私は落ちた。灯花がどうかまでは、分からない。


* * *


 文化祭当日。初めから想定されていた通り、部誌はマトモに売れなかった。そして、それで何の問題もなかった。

私達二人はただじっと、普段よりも少し片付けられ綺麗になった部室の中で、本を読んだり、おもむろに部誌を広げてみたり、或いはじっと虚空を見つめるなどをして時間を潰していた。教師は若くて力があるのであちこちに引っ張り出されていって、部室にはろくに顔を出さなかった。

午後三時。他の出店が撤収準備を始める頃合いになり、校内に騒がしさが出た時、横たわる沈黙を破り、灯花はまるで呟くように、こう言い放った。

「私、水樹に隠してること、ある」

 灯花はきっと、教師と自身との関係についての話をしているのだろうと思った。しかしそれなら何故、あの時彼女は私の方を見たのだろうか。彼女は私の存在に気付いていたのではなかったか。それそのものが私の記憶違いか、或いは思い込みであったのだろうか。

私は答えた。

「誰にだって、そういうことの一つぐらい、あると思うよ」

 私がそう言葉を口にする時、私は怖くて彼女の方を見ることが出来なかった。だから、私がそう答えた時に、彼女が……灯花がどのような表情をとったのか、私には分からない。ただ一言、彼女はこう返した。

「ごめんね」

 その言葉にはどのような意味があったのであろうか。私には分からない。


* * *


 深夜のファミリーレストラン。既に客もまばらになっていて、いくつかの席は締め切られている。私はその中で一人珈琲の匂いを嗅ぎながら、黙々と卒論の資料を読み漁っている。きっとこれが、学生として私が行う、一番最後の学生らしい行いなのだろうなと思うと、ほんの少しの感慨があるような気もしたが、それはともかくとして、この課題が種類を問わない汎ゆる大学生にとっての頭痛の種であるというのもまた事実だった。

私は息抜きと称して、スマートフォンでいくつかのサイトを巡る。そこには様々な面白話とか、或いは考えさせられるお話みたいなのが載っていて、私はそれらに目を通しながら、何も考えずにぼうっと空を見つめていた。

すると、唐突に灯花から一つメッセージが飛んでくる。

「今どこにいるの?」

「○○駅近くのファミレス」

「行っていい?」

「いいよ」

 こうして私は卒論の作業を切り上げ、灯花の到来を待つことになる。

果たして灯花は数十分もしないうちに私の居る場所へとやってきた。重々しい荷物と共にファミレスへ入る彼女は、他人から見れば旅行者のようにも見て取れるような感じがした。

「どうしたの、その荷物」

 私が聞くと、灯花は軽い笑みと共に言葉を返した。

「卒論の資料、厳選しきれてないの」

「なんだ……まあ灯花も、卒論やらなきゃいけない時期だよね」

「水樹も? ま、それもそうよねえ」

 なんて軽く答えながら、灯花は店員を呼び出し、注文する。タンドリーチキンとピラフのプレートと、セットドリンクバー。

「灯花、ご飯食べてなかったんだね」

「うん。そうなの……お腹すいちゃった」

 灯花は席を立って、自分のぶんの飲み物を持ち寄る。

そうして二人で、他愛もない話をした。大学のゼミやその周りで起きた出来事。そして、就職活動の結果について。

「就職先、決まった?」

 灯花に質問すると、彼女は言った。

「あんまり有名じゃない会社の、営業さん」

「へえ、決まったんだ……どう。良さそう?」

「多分、悪くはないと思うかなあ」

「ははは、適当」

「だって分かりっ子ないんだもの」

「そんなもんだよね」

「そんなもの、そんなもの」

 そう言い合って、私達は朗らかに笑った。そこには寂しさというようなものとは無縁で、何か開き直った明るさがあった。

やがて、灯花の目前に注文の品が届けられる。彼女はナイフとフォークを持って、鳥にナイフを入れた。そうして無邪気な、子供のような表情で、切り取ったそれを頬張った。

「美味しい!」

 その様子を見ると、私の方まで何か嬉しい気持ちになってしまって、近くて遠い場所にある大きな区切りを前に何か悩み事を見出そうとしていた自分が阿呆らしくなってしまった。

「ねえねえ、灯花」

「どうしたの?」

「高校の時に出した『旅行鳩』に書いた誌の出来、どうだった?」

「そんなの、決まってるじゃない。どっちの書いた奴も、だめだめよ」

 そう言って、灯花は笑った。私も笑った。

鳥は手元で、器用に切り刻まれていく。

それを見て私は、あの部誌を出した後に見たリョコウバトの絶滅の原因について思いを馳せた。

 かつて空を覆い尽くさんばかりに飛んでいたリョコウバトは、その食肉が美味であるために、猟師たちの手で撃ち落とされ続けた。あれだけの数が居た鳥なのだから、絶滅するなんてことはないだろうと高をくくって、皆が皆何も考えずにただ、空を飛ぶリョコウバトに向かって銃を撃ち続けた。

その鳥が落ちる時。人々は何を考えたのだろうか。ただ、飛んでいた鳥が落ちる様に、何の感慨も抱かずに、さもそれが当然の摂理であるかのように、ただ日常の中に居て、その様子をじっと見つめていたのだろうか。私には分からない。けれどもきっと、鳥はその痛みを忘れずに居るだろうと、漠然と、そう考えていた。


 了

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