立ち枯れ

 田原よし子は美しい女性だ。

そして、かつては完璧な女性だった……その文言は悲しみに満ち満ちている。

そう。

かつて、彼女は完璧だった。美しいのは今も変わらないけれど、もはや彼女は完璧ではない。

彼女。

田原家は明治維新後、勅令により還俗し華族となった奈良華族の家柄である。公家出身の僧侶であった初代当主が還俗し、田原の姓を名乗った。その息子、田原喜孝の一人目の娘が、田原よし子であった。

彼女。

田原よし子は才女であった。

田原家の長女として貴種に相応しい教育を施され、それに彼女は十全に応えて見せた。

幼少のうちから学問に通じ、また仏教の講釈を理解してみせた彼女は、学習院初等科に入学すれば、文武双方において優良な成績を修めた。

彼女。

田原よし子はその美しさで知られている。

その美貌は幼少のうちから見出し得るものであり、歳を経る毎にその美しさは加速度的に増していくもののように見えた。

彼女は全てを持っていた。才覚を持ち、美貌を持ち、将来の展望は明るく、奈良華族であり実績と家格に劣るこの田原家に大きな益をもたらすものだと思われていた。

神は全てを彼女に与えた。

しかし後に、神は彼女から全てを奪い取った。

彼女。田原よし子はある時、激しい咳の後に喀血した。

彼女はそれを隠そうとした。

そうした病症は明確に、不治の病である結核を想起させるものであったから。

しかし、これは早期に露見した。

田原家の使用人であり、彼女の付き人であった私……つねが、当主様に喀血の事実を伝えたからである。


* * *


 私。

田原家の使用人、つねはとある農家の四人目の娘だった。

両親は働き手となり、後には家を継ぐことになる男の子を求めていたのだろう。

だろう、と言うのは私がこの田原家に丁稚奉公に出されたのが幼少の頃で、親の顔すら曖昧だからだ。

私の、田原家使用人としての能力は、決して褒められたものではない。料理を手伝えば塩と砂糖を間違えて、包丁を取り扱えば指を切り、掃除をすれば物を壊す。

私は他の使用人からも疎まれ、いじめられる立場にあったが、正直に言ってしまえばそれは仕方のないことだと思っている。

現実として、私は使えない使用人だった。

そうなれば必然、田原よし子の付き人である私は、田原よし子から強く、強く罵倒され続けた。

「使えない子ね」

「どうしてあなたが田原家に居るのかしら」

「生きていて辛いことはありませんこと?」

 そうした罵倒に対し、私は一つひとつ、甘受しながら短く、短く。

「すいません」

 と答える他になかった。それ以上の感情は芽生えようもない。

だから。

彼女が喀血したのを見た時、私の中には薄暗い感情が湧き出てきた。

その時私は田原よし子に命じられ、お使いに出るところであった。

しかし、肝心のお金を忘れてしまったので、取りに戻った矢先、彼女はその美しい手のひらに血を滴らせていたのである。

田原よし子は言った。

「何も見なかったことになさい」

 私は答えた。

「お嬢様の言うが如く、なさいます」

 それから一ヶ月待って、私は田原よし子が喀血したことを、田原家の主人に伝えた。

 そうして。

彼女。田原家の才女。将来を有望視される一人の女性は、結核と診断され、将来の全てを失った。


* * *


 結核を患った彼女は、程なくして学習院を退学し、相模湖近くにあるサナトリウムに入った。

私は、全てを失った田原よし子の付き人として、彼女と共にサナトリウムへと送られた。

この処置に対し、私は何も感じ取らなかった。田原家で私が疎まれていることはよく理解できたし、常日頃から嫌がらせを受ける田原家の息苦しい邸内と、このサナトリウムであれば、私自身が結核にかかる恐れがあるということを除けば、そう悪いものとも思わなかった。

結核は不治の病だ。

その処置、治療も確立されておらず、取られる手法も医学的根拠があるものもあれば、何やらまじないじみたものもあった。

かつて。

学習院に通っていた頃の田原よし子は活発な少女であり、運動全般においても優秀であったが、結核に罹患して以後は激しい運動を禁じられ、必然彼女はその活力を失っていった。

病気が彼女から活力を奪っているのか?

それとも、治療方針そのものが彼女から活力を奪っているのか?

それはもはや永遠の謎かけである。


* * *


 サナトリウムに入ってからの彼女は、それでも……否。さらに美しくなっていった。

かつての、完璧な才女であった頃の田原よし子は、その完璧な、非の打ち所のなさ故にその美貌が霞んで見えることがあったのに対し、今や彼女はその美貌以外に何の資産も持ち合わせていないのである。

その美しい白い肌。

憂いを帯びたその瞳。

細く艷やかなその黒い髪。

それら全ては今や、彼女の身に起きた不幸を際立たせる道具として、今や彼女の全身は、彼女の不幸に奉仕しているのだ。

その美しさに追いつこうとするかのように、彼女の性格は丸くなり、陰鬱な優しさに包まれていくようになった。

今や彼女は私を責めない。

それどころか、田原家の邸宅に居た頃には絶対に出ることのなかったお礼の言葉さえ口にするようになった。

彼女はまるで苦行僧のようであった。

かつての。

完璧だった頃の彼女。

田原家に幸福を呼び込むと確信されていたあの頃の彼女から棘というものが抜け落ち、今や彼女はその雪を耐え忍ぶ華のような美しさだけでそこに存在していたのである。


* * *


 サナトリウムには、度々彼女の親族があらわれた。

田原家の親戚連は、かつての才女である彼女がサナトリウムに閉じ込められているという事実に深く同情した。

そのためか、幾度か縁談の話を持ち込むことがあったが、彼女はそれら全てを断った。

「結核病みの女に妻が務まるはずもありません」

 そうした『良いお話』よりも、彼女はリンゴや梨といった果物がお土産で持ち込まれることの方を喜んだ。

私は田原家の家に居た頃、あまりに不器用でできることがないと言うので、果物の皮むきばかり練習させられたことがあり、それ以来、果物の皮を剥くのだけは得意になった。

「つねさん」

 一日一回以上、私はこの言葉を耳にする。その度に、何か居心地の悪い感じがしたのだ。

あの家に居た頃の彼女は、私のことをさん付けで呼ぶことなど、絶対になかった。

「どうされましたか、お嬢様」

 私は毎回そう答える。その度に、彼女は苦笑し、こう言うのである。

「お嬢様はもう終わりって言ったじゃない」

 よし子さん。そう呼んでくれと彼女は言う。

「リンゴを剥いてくださいませんか?」

 そう言われると、私は土産に持ち込まれたバスケットの中にあるリンゴを手に取り、ナイフで皮を剥き始める。

様々な果物が入ったバスケット。

田原家の親戚達が持ち込むこのお土産は、仏壇に捧げられる食べ物にもよく似ていて、無機質で、まるで人が食べることを想定していないかのような、そんな雰囲気を持ち合わせているような気がした。


* * *


 田原よし子はサナトリウムに入ってから、書物をより好むようになった。

文字を読めるようになったのが早いこともあり、彼女は田原家に居た頃から様々な書物を読み込んでいた。

彼女が果物の次に喜んだのは、そうした本の持ち込みであり、家のものに頼んでは何やら難しい本を郵送してもらっていた。

その中には共産主義に関する書物や、仏教以外の宗教に関するものもあり、そうしたものを目にする度に私は内心、驚いていた。

彼女が『資本論』を読んでいた時、私が本をじっと見つめ続けたことがある。その時に、彼女は言ったのだ。

「家に居る時には、このような本は読めませんでした。そういう意味では、ここもそう悪いところではありません」

 またある時は、私に聖書を朗読させたこともある。私が読めない文字に行き当たると、彼女は優しくそれらの読み方について指導してくれた。

聖書について一つ、記憶に残るお話が彼女と私との間にはある。これは、ルカによる福音書を読んでいた時のことである。

「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた」

 彼女は私の朗読を静かに、目を閉じて聴いていた。

「そこでイエスは答えて言われた、それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」

 彼女は、先に私が切り出したリンゴに手を付けた。

「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」

 そうして読み上げていくうちに、手にとったリンゴを彼女は食べた。

「私は三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」

 そう読み上げた時、彼女は閉じられたその瞳から、一筋の涙を零していた。


* * *


 或る夜のことである。

夜も深まった頃に、私のもとに彼女が来たのである。

「よし子さん?」

 私がそう言うと、彼女は静かに言った。

「抜け出してきたんです」

 その表情は見えなかった。けれどもきっと彼女は笑っていた。そのような気がした。

「どうされましたか。身体は、大丈夫なのですか」

 田原よし子はここ数日、酷く咳き込む日が続いていた。

「ええ。それより、つねさん……私を、外に連れて行ってはくれませんか?」

 つい昨日まで、苦しげにひゅうひゅうと音を立てて息をする声が聞こえていたのに、不思議なことに、今の彼女の息には苦しそうなところは一つもなかった。

「外は危のうございます」

 そう言うと、彼女は答えた。

「だから、あなたを頼りにここまで来たのです」

「ですが……」

「お願いします。夜のこの相模湖の森が、どのような表情をしているのか。私はそれが気になって仕方がないのです」

「私達は夜寝るように、森もまた寝静まっていることでしょう」

「私はその、森の寝姿を目にしたいのです」

 私は、彼女を連れて外に出た。


* * *


 森の中を幾度か散策したことがある。

しかしその時はいずれも昼だった。

夜になれば足元も見えないし、怪我をすれば助けに行くこともかなわない。

彼女もそれを理解していた。だから、私の下を訪ねたのだろう。

夜の森は寝静まっている。

私はそう嘯いてみせたが、実際はそうではなかった。

夜の森からは、様々な音がした。

遠くでは何かが倒れるような音がして、近くからは夜の虫が鳴く声がした。

「昼も夜も、森は息をしているのですね」

 彼女はそう言った。

「昼起きて、夜に寝る。そのようにしっかりと決めているのは、我々ぐらいのものかもしれません」

「そう、かもしれない」

 そう言って、彼女は一歩足を踏み出した。

直後、態勢を崩しそうになったのが私には分かった。

私はすぐさま彼女を支えて、自分の身に彼女を引き寄せた。

彼女と、目が合った。

美しいその瞳。その憂いに満ちた瞳の中に、私の顔が浮かんでいる。

彼女は言った。

「私、あなたに嫌われてるって、そう思っていたんです」

「そう、でしたか」

「でも私。もし仮にそうでも仕方がないって、そう思っていました」

「そんな」

「ですが、それでも。私はあなたに感謝しています。あなたが居なければ、私は今日まで生きていなかったでしょう」

「お嬢様」

「もう……よし子でいいって、言っているじゃないですか」

「いいえ、お嬢様。よく聞いてください……お嬢様。諦めるには、あなたはまだ若すぎるではありませんか」

 彼女は、ふと笑みを浮かべた。あまりに優しい、清純な、聖母の如きその笑み。

「あなたは、優しいのね」

 そう言って、彼女は目を閉じ、私の胸に顔を埋めた。


* * *


 その夜から数日しないうちに、彼女は夥しい量の血を吐いて、死んだ。

そうして田原の家に戻された私は、幾らかのお金を慰労金として渡された後、田原の家から追い出された。

新しく部屋を借り、次の働き口を探そうとしていた矢先、私はとある夜に大きく咳き込み、口から血を吐いた。

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