不実の桜

 ―一九四四年一〇月二四日―


 けらけらけらと虫が嗤う。気の違ったかのように鳥が鳴く。その上では航空機が互いを追い合っている。遠くからは砲声。破裂音が鳴り響く。

 私は今、フィリピンの密林の中に居る。空で、海で、陸で、同じ国の人間たちが戦う中で私は一人、煙の燻る零戦の中に居た。

 戦闘機パイロットである私はつい数時間前まで海の上を飛んでいた。その中で米軍の航空機と遭遇し、空中戦になった。

 戦闘は実にお粗末なものだった。出撃の時点でエンジン不調で出撃できない機体や途中で引き返す機体が出て、その状態で敵とぶつかりあった。俺は敵一つを撃墜したが、流れ弾がエンジンに命中。油が飛び出て風防が真っ黒になった。私は米軍機に集中攻撃されながら海の上すれすれまで逃げ込み、命からがら逃げ果てた。だと言うのに、燃料切れで零戦はとうとう力尽き、この密林の中へと飛び込むハメになったのだ。

 もはやこの機体は航空機の体をなしていない。翼は曲がり、プロペラはひしゃげ、エンジンからは油の焦げ付く臭いと共に灰色の煙が立ち上っている。

 思えば、私が戦闘機に乗って飛ぶ時、いつも我が海軍は敗北してきた。ミッドウェーも、マリアナも、俺が飛び立った後、その船はいつも沈んだ。加賀も、翔鶴も、そして今度は瑞鳳も沈むだろう。そのようにして、我が国の海軍はその実体を失うだろうと思われた。

 戦前なら信じられないことだった。世界に冠たる我らが聯合艦隊がボロボロになり、そしてやがて消えていくこの状況を、私は未だに認識し切れていなかった。ただ戦い撃墜し、撃墜され、そして帰ってくれば船が海底へと沈んでいるのだ。そこには命があり、誇りがあり、名誉があったはずなのに、私の中にあったそれらの感情は全て何処か有耶無耶になってしまった。それらは一体何処に行ってしまったのだろうか。あの船たちと共に海中へ没したのか。

 今はただこの場を生きねばならない。私は零戦の残骸から離れ、密林の中へと足を踏み出した。その瞬間、左脛がうずき、じんわりと熱くなっているのが分かった。脚を見るとそこには切り傷が出来ていて、服から血が滲み出ていた。被弾した際に出来た傷らしい。

 くそったれ。もう戦闘機になんか乗ってやるものか。畜生め。






 ―一九四四年十二月三日―


 密林を彷徨い続けてだいぶ時間がたった。正確な日時は分からない。密林の中は相変わらず生き物のものかどうか分からない奇妙な音が鳴り続けていた。

 私はあちらこちらに転がっている兵士の死体から銃器を拝借しながら、密林の中を歩んでいた。死体の殆どが日本兵のものだった。恐らく連合軍兵士の死体は味方らが回収しているのだろう。我らが日本軍にそんな余裕はない。死体どころか戦傷者を癒やし、養うことすら出来ないのに、死体に気を遣うことなど出来るわけがない。

 不時着してからこっち、ロクなものを食べていない。口にしたのは腐った獣肉や虫といったものばかりだ。

 誰でもいいから、友軍の兵士と出会いたかった。恐らく彼らも食料が欠乏しているのには変わりないだろうが、それでも密林の中を一人で彷徨い続けるのに比べればだいぶマシだ。

 やがて私は密林の中で、異質な音を聞いた。何かの生き物が草を踏みしめるような、そんな音だった。

 私は銃剣のついた銃を持ち、中腰の姿勢で静かに歩き出した。銃弾こそ込められていないが、この銃剣付き歩兵銃こそ今の私が持ち得る最強の武器だった。

 瞬間、音が鳴る。何らかの物体が私の顔の右横を通り過ぎた。右耳がきいんと鳴って、頬に熱が走る。私は即座にその場に伏せた。相手は誰だ。米兵か、どれほどの規模か。私は自身の履く黄ばんだ褌をどのようにして白旗として認識させようかと考えていたが、この思考はすぐに無駄だったことが分かる。

「くたばれ!」

 相手の叫び声。それはまさしく日本軍兵士のものだった。

 私は叫び返した。

「馬鹿野郎! 俺は日本人だ!」

 その言葉と同時に、もう一発銃弾が私の頭上を掠め、飛んでいった。相手に自分の声が届いたのかも分からなかった。











 ―一九四五年一月一七日―


 私が不時着したのはどうやらルソン島だったらしい。私が密林を彷徨い、同じ日本軍の兵士たちと出会った頃には、既に私が飛び立った母艦が、そして日本海軍がほぼ消滅したことを知った。

 なけなしの空母を、戦艦を投入して行われたレイテ沖での海戦は我々の敗北に終わっていた。瑞鳳も沈んだ。

 それを知った時、私は彼らとある話をした。

「加賀、翔鶴、瑞鳳……この船の共通点は分かるか」

 金村は答えた。

「全部空母だな」

 その言葉に付け加える形で、吉井は言った。

「全部沈んでますね」

 二人は、このルソン島の密林の中で初めて出会った日本軍人だった。そして彼らは同時に一つの罪を犯していて、私もその点については同様で、いわば我々は共犯者の集まりであった。

 私は言った。

「全部、私が乗ってた船だよ」

 それを聞いた二人は、焼いた蜘蛛を食べた時のような苦い表情をその顔に浮かべた。

「げえ。縁起でもねえなあ……この島も沈むのか?」

 金村のその言葉を笑いながら、吉井は言った。

「島が沈むわけないでしょうに」

「陥落したら沈んだのと同じじゃねえか」

「違いない」

 私はそう言って笑った。今度は、二人は笑わなかった。

 彼ら二人は逃亡兵だった。二人とも米軍との戦闘中に突撃を命じられ、その場から逃げてきたのだ。死ぬのが分かってて突っ込んでいく様子は悲惨を通り越して、ある種の喜劇のようにすら思えたと二人は語った。それ以降、二人はずっと日本兵からも、米兵からも逃げ回ってきた。

 私は、ルソン島にある飛行場の様子を彼らから聞かされた。

「とうとう俺達の軍は超えちゃいけない一線を超えたようだ」

「それはどういうことだ」

「爆弾くっつけた航空機をそのまま突っ込ませる作戦を実行したらしい。その第一号がフィリピンの航空隊だったそうでな」

「おいおい。搭乗員はどうするんだよ」

「そのまま突っ込むんだよ」

「なんだよそれは」

 馬鹿馬鹿しいと思った。ただでさえ航空機も搭乗員も居ないのに何故そんな作戦をやらなきゃならないんだ。

 その感情を素直に伝えると、金村もまた同じように言った。

「だから俺も逃げてきたんだよ。陸じゃあそういうのがもう日常茶飯事だ。俺達の命を消耗品としか思っちゃいない」

 それを耳にした吉井は怒った。

「馬鹿。消耗品なわけないだろ」

「いいや。あいつらからすりゃそんなもんさ」

 金村は尚もそう言い続ける。

「俺は、俺はな。日本の将来のために生きてきたんだ」

 吉井のその返答を聞いて、金村はシニカルな微笑を浮かべた。

「役に立ってんじゃんよ。さっさと米軍の陣地にでも突っ込んでくりゃ満点だろうさ」

 吉井は冷静に、そのうちに怒りを込めながら、言葉を返していく。

「突撃したその先に何がある。死があって、陣地が手に入ればまだいいが、将官どもは何と言う? 武人の誉れだとしか言わない。馬鹿ばっかりだ。お前も私も、徴兵されてきただけのただの日本人だ。俺は、俺はなあ。こんなとこで死ぬために生きてきたんじゃないんだよ」

 その後も、延々と二人は言い合っていた。お互い、ロクな死に方は出来ないだろうという諦めが根底にある。けれど吉井はそれでもここに居る自分の価値を信じていて、金村はそれを持っていないのだ。それが彼らの間に齟齬を生み出しているのだと私は考えた。

「そろそろやめにしないか。腹が減るだけじゃないか」

 そう言うと、二人の矛先は私の方に向いてきた。

「じゃあよ。お前はどうなんだよ。兵士ってのはあいつらにとってどんなものかって」

 金村の言葉に私は答えた。

「お前から聞くには、つい最近搭乗員も消耗品になったらしい」

「そんなわけない」

 吉井はあくまでそう言い張った。

「じゃあ吉井は、内地で一体何をしたかったんだよ」

 思えば私は吉井や金村が今まで一体何をしてきて、何を思ってこのルソン島まで辿り着いたのかを知らなかった。

 吉井はその問いに対し、簡潔に言葉を返した。

「米を作ってたのさ」

「じゃ、つまり農家ってことか」

「違うよ。大学で、米の品種改良をやってたんだ。病気に強くて、農地に負担のかからない、より美味い米を生み出すために研究してたのさ」

「大学で研究やるようなインテリゲンチャがなんでこんな場所に居るんだ」

 私が言うと、吉井の表情は曇った。

「学徒出陣で、農学部は徴兵さ。兵器に関係している学部以外は皆徴兵されたよ。文学も芸術も哲学も経済学も、戦争には必要ないんだよ」

 それを聞いた金村は、多少ひねた言い方でもって問うた。

「それでなんで、自分が酷い取り扱いをされてないって言い切れるんだよ。俺もお前も、お上からすりゃ使い捨てなんだぜ」

 うわ言のように繰り返されるそのフレーズに、吉井は飽きもせず淡々と言葉を返していく。

「酷いさ。酷い取り扱いだよ……でも、酷いからこそ信じていたいんだ。彼らだって人の気持ちぐらい理解できるって」

「そんなわけないだろ?」

「いいや、そうに違いないさ。でないと、この三人が味わうような気持ちを、あいつらは感じてないってことになる。俺達はこんなに苦しいのに、あいつらは苦しくないなんて、その事実こそが余程理不尽だとは思わないか。消耗品っていうのは、つまりそういうことになるじゃないか」

 金村はその言葉を聞いて尚、反駁し続けた。

「お前はそうかもしれない。同じだと思い込めるかもしれない。日本人だからな。きっと何処にも混じり気のない純粋な日本人だからな」

 私は金村の言葉に引っかかりを覚えた。

「おかしいな。お前は日本人じゃないのか」

 金村は淡々と、答えを返していく。

「まあ、日本人っていやあそうなんだが、違うんだよな。俺は在日二世だからな」

 あっけらかんと、その事実は吐き出された。

「本当はさ。金貯めて何か店でもやろうと思ってたんだ。俺は他のと違って、わりと日本のことを嫌いじゃなくてさ。生まれ故郷だものな。でも、そんな将来の皮算用もこのルソン島でみんなパアさ。あいつらは俺をゴミかなんかとしか思っちゃいねえ。なら徴兵しなきゃいいのに、ああやって無闇矢鱈に突っ込ませて、馬鹿みてえじゃねえか」

 ハッと息を吐いて、金村はそう語った。吉井も何も答えない。彼らの間には一つの理解が生まれた。それは即ち、二人とも何かしらになるという未来の絵図があり、それぞれのうちにあったその一枚の絵を散々に踏みにじられたのだという実感だった。もはや前提は崩れている。どう足掻いたってその絵図は、元通りには決してならないのだった。











 ―一九四五年四月三日―


 戦線はどんどんと北側へと押し出され、それに合わせるように私達は密林の中を逃げ回り続けた。

 手元にあるのは銃剣の付いた銃だけで、死体から弾丸を剥ぎ取ることさえ出来なくなりつつあった。もう誰も、武器なんてロクに持ってはいないのだ。我が軍はただその肉体だけを持って敵の銃弾を押し留める他なかった。

 そうしていくうちに一人また、仲間が増えた。

 そいつの名前は景浦と言い、死体と見分けのつかないような痩せぎすの男だった。彼は食料を探すために所属部隊から離れてしまったがために、戦線の移動に伴い、部隊を見失ってしまったのだと言う。

 私達は、彼から日本軍の状態について聞き出したが、それは我々の想像する範囲のことが、相変わらずのように行われていただけだった。

「メシもない。弾もない。あるのは欠陥品の手榴弾と夥しい数の負傷者。そしてその上に立つのもフラフラの将官どもさ。臓腑がはみ出ていようが包帯一つも事欠くから、そこらへんから拾ってきた鍋蓋ではみ出る内臓を抑えつけてる奴もいた。もっともそいつは、三日後には死んじまってたよ」

 まるで私達は地獄からまかり間違って帰ってきた復活者の言葉を聞かされているかのようだった。その悲惨さにはもはや現実味は失われ、地獄の悪鬼と彼らに裁かれる罪人たちのような絵図が脳裏に浮かんでくる。けれど我々は、その地獄絵図をこそ現実として受け入れ、そして想定していたのだ。滑稽なことに、この空想は嫌なぐらいに現実なのだ。現実そのものなのだ。

 彼と合流したその日の夜。先程の話を聞いた後、私達は彼を仲間に入れ、ずっと身内話をし続けていた。私が戦闘機の搭乗員であったことや、金村、吉井の二人がが心のなかで描いていた絵図について話をした。

 それを聞いた景浦も、ひゅうひゅうと喉が擦れるような息をしながら、自身の話をし始める。

「俺さあ……野球、やってたんだよ」

 その言葉に、吉井が口を出した。

「それって大学野球かい」

 景浦はいいや、と言って頭を振る。

「俺がやってたのは職業野球さ。企業が野球チームを持って、そこに雇われながら野球をするんだ。まだあまりメジャーじゃあないけどさ」

 金村は笑った。

「玉遊びで金が貰えんのかい]

 景浦は怒ることもなく、淡々と言葉を返す。

「その通りさ。お遊びで金が貰えるんだよ。アメリカだって同じように職業野球があるんだぜ」

 景浦の額には、目に見える大きな汗が浮かび上がっていた。

 彼は恐らく、何らかの病気に罹っている。そして病魔を押し留める手段は今ここに存在しない。吉井も金村も、景浦本人もその事実をよく理解していた。

「……玉遊びなんて、言われなれてるさ。後半なんて軍隊の連中が球場の鉄金属を勝手にバラして持っていこうとする中で野球の試合をしてた。軍も同じ考えだったんだろうなあ」

 そう言うと、金村はバツの悪そうな表情で景浦に詫びた。彼は自身の考えが、軍隊のお偉方とそう変わらないことに気が付いたのだろう。

「ごめんな。馬鹿にしちまってよ」

「そんなことはどうでもいいのさ」

 そう言って彼は自身に対する侮辱と謝罪に意を介することもなく、ただただ楽しげに、内地での思い出を語り続けた。

「兵庫にある甲子園球場っていう、馬鹿みたいにでかい野球場があるんだ。そこによ、満杯になるぐらいの人が入って、全員で応援歌をうたいながら応援してくれるんだ。俺はその中でバットを持って、じっと投手を睨むんだ」

「満員と言うと、何人ぐらいですかね」

「さあなあ……でも、馬鹿みたいにでかくて、会社は五万人入るって言ってたから、やっぱりそれぐらいは入ったんじゃないかなあ」

「五万人だあ? 嘘つくんじゃねえよ」

 五万人と言うと、陸軍の師団二個よりも多い。確かに、想像のしづらいあまりに巨大な数字だと言える。

「俺だって詳しいことは知らねえさ。でも、それぐらい沢山の人が、同じことに向かって、同じことを考えるんだよ。これって、すごいことだと思うんだよな」

 私が想像した光景は、一種の魔術的なものだった。一人一人が違うものを持った万を超える沢山の人間たちが同じ物事に向かい、そこに激しい感情こそあれど、無関心な者は誰一人として存在しない。その熱気の空想の先には、集団の中にいて、自身の身に危険が及ばないという、当たり前だったはずの世界があった。彼らにはその時、自身の頭上に爆弾が落ちてきたり、見えないところから銃弾が飛んできたりするような、そんな世界は存在しなかったのだ。想像にすら、浮かばなかったのだ。

「俺のライバルは沢村っていう投手でな。こいつはすげえ速い球にわけがわからんぐらい変化するドロップを使ってくるんだ。俺が所属していた大阪タイガースはそいつのせいで何回も負けて、だが最後は沢村に勝って優勝したんだよ……」

 景浦はそこまで話すと、下を向いて泣き始めた。全員が似たような状態だった。息をぐっと飲んで、唇を噛み締め、泣き始めた。

 四人の脳裏には、日本が映っていた。そこに誇りがあるわけでもない、天国でもないただの一つの、東洋の島国でしかない。だがそこには、日常があった。将来があり、夢があり、生命があり、生活があった。

 我々はあの狭くも広い日本という塀の中で生きてきたのだ。それは道行くところにある桜の木のように、それが当然であるかのようにしてきて、あの国から引っこ抜かれてこのルソン島に来て、初めて自分があの国に根を下ろして生きてきたことを理解したのだ。

 我々は不実の桜だ、と私は思った。それぞれが皆花を結び、実を落とし、未来へ繋がるはずだったものが、別の場所に連れ出されて争いという火によって燃やし尽くされ、とうとう実を結ばず燃えていく桜の若木だった。花も実も結ばぬ我々はとうとうこのルソン島で死に絶えるのだろうか。

「還ろう。日本に」

 誰かがそう言った。誰が言ったかは分からない。けれど確かに、誰かがそう言った。

 誰もそれを笑わなかった。何故なら、例え空想に等しいものであってもそれは、真摯な願いであったからだ。

 その夜、我々は決心した。日本へ還ろう、と。












 ―一九四五年五月―


 私達四人はこのフィリピンの島から遠く日本へと還る方法を模索し始めた。

 既に自軍は頼りにならない。行きの輸送船すら大半は敵の船に沈められたのに、帰りの船があるとは考えられなかった。なので、私達はその手で移動手段を作り出すか、敵軍から奪い取るかのどちらかを選択しなければならなかった。

 そのうち前者については早々に否定されることとなる。仮に私達が筏を作ったとしても、海流や天気といった不安要素があまりにも多過ぎるし、一度海上に出れば食料の確保もままならなくなる。ただでさえ困窮している私達が海に出れば、数日のうちに餓死するであろうことは想像に容易い。

 そこで皆は考え始めた。そもそも私は戦闘機の搭乗員だった。細かな違いはあろうが、何とかして敵の飛行場から航空機を奪い取って、台湾辺りの日本領に不時着さえすれば、日本へと戻れるのではないか。

 恐らく敵は既にフィリピンのクラークにある飛行場を占領しているだろうと思われた。私達は今まで来た道を逆方向に、つまり南側へと歩を進め、クラークの飛行場のどれかを見つけ出し、襲撃して敵の航空機を奪い取るという方向で結論を出した。

 方角については吉井が太陽の位置から想定し、作戦の要となる私には優先的に食べ物が渡された。

 そうした目標を持ち始めてからある程度の日数が経過すると、三人にはそれぞれ変化が出始めた。

 まず吉井は、今まで見たことがないほど元気になった。目標の決定や方角の予測、道中の食べられる植物に至るまで、私達が進むための汎ゆる知識は彼によって齎された。吉井は、自身が今まで培ってきた知識は無駄じゃなかったと言い、日々痩せ細っていきながらも、一筋の光明を見つけることが出来たようだ。

 逆に、金村は苛立ちが前面に出てくるようになった。何かで躓いたりするたびにその口から小さく罵声が出、自身に何か悪いことが起きると顔を真赤にするようになった。その矛先が仲間に向かわないことについて私は随分と感心したが、彼がいつ破裂するのかも分からなかった。

 最後に、景浦。彼はその病魔に侵され、ある時高熱を出した。彼の病はマラリアであった。薬さえあれば治しようのあるこの病気も今の私達にはどうすることも出来ず、ただただ彼は隣のある死をじっと見つめ続けていた。彼曰く、マラリアにかかった者は三度高熱を出すという。そして、三度目の発熱時に羅患者は死に至る。自分はそうやって死んだ奴を何人も見た。何度も何度も、そう言った。

 我々三人は、破綻寸前のところを歩き続けていた。三人の身体は既に亡者とそう変わらない状態になっていて、ただ日本への郷愁の念だけが、折れかかった大黒柱のように、かろうじて心の底を支えている。

「まったく、この密林はいつまで続くんだ」

 その日も金村は、いつも通りにぶつぶつと文句を言っていた。

「このルソン島にも村落はあるはずなんですけれどね」

 吉井は冷静だった。疲労の極地にありながら、その頭脳の冴えは衰えを見せない。

「じゃあよお。村にでも匿ってもらえばいいんじゃねえかなあ」

「それは駄目だろう。ゲリラの拠点だったらどうするんだ。それに今更、私達を匿ったところで彼らに利益はないだろう。その場で私刑を受けるか、敵の捕虜になるか。そのどちらかだ」

 私が言うと、金村はとうとう黙り込んだ。

 その瞬間だった。

 銃声が響き、空間を貫いた。それと同時に、金村の足の先から膝、胴体が弛緩し、崩れ落ちた。

 私はその情景をその目に収めた。銃声が鳴り、金村は倒れた。それらの事実から連想されることから、私は目をそらそうとした。その目で見ていながら、心だけはそれを見つめないようにしていた。

 吉井と影浦は即座にその場に伏せた。私もそれに倣う。

「私達はまだ、戦争の中に居たんです」

 吉井は言った。彼の背中にある銃は、剣のついた筒でしかない。我々は刃物だけを持って、銃を持つ敵と戦わされているのだ。

 景浦は、胡乱な目で、銃声の鳴った方向を見つめていた。彼は既に銃を手に取っていた。

「お前たちだけで行け」

「景浦。お前だけでどうするって言うんだよ」

「俺はもう二度発熱した。もう死んでいるのと同じだ。この銃にまだ弾が残っているのも、きっとそういうさだめだったんだ」

 私は戸惑った。しかし、吉井は違った。

「匍匐前進で逃げます。出来る限り、この場から離れるべきです」

 彼は既に、全ての事象を受け入れていた。何も言わずとも彼はそうして逃げ延びるだろうと思われた。

 私と吉井は、景浦と金村の二人を置いて逃げ出した。二人が草むらと接しながら前進する間中、銃声はずっと鳴り響き続けていた。











 ―一九四五年八月―


 あれからどれほどの時間が経っただろうか。私達二人は、金村のように不意をつかれないよう、ずっと中腰か匍匐で、密林の中を進んだ。途中からは立つ力さえもなくなり、匍匐のみとなった。

 上空からは航空機のプロペラ音が鳴り響き、アメリカ軍のものであろう銀色の双発機が密林の上を悠々と飛んでいた。

 吉井は痩せこけ、人間というよりは白骨に近かった。人間の骨の上に薄皮一枚貼り付けたような、そんな様相であった。

 機影が濃くなると共に、敵の飛行場へ近づいてゆくのが分かる。終わりが見え、蜘蛛の糸の如き細い希望が、ようやく日本へ繋がろうとしていた。

 そうした時に、吉井は言った。

「私はここまででいい」

 そうして吉井は仰向けになり、密林の隙間から光る小さな空を見つめた。

「どうしたんだ。飛行場はもうすぐそこだぞ」

 私は吉井と共に行こうと、そう思っていた。だが、彼はこう答えた。

「もう満足なんだ。きっと彼らもそうだったように、満足しているんだ。ただ必死に生きている、その証が欲しかったんです。無駄でない、ほんの少しの肯定が欲しかったんですよ」

「それが生きるのに勝ることなんてあるのか」

「そうさ。君を生かすことが出来るのだから」

 吉井は私を見た。その目には涙滴一つ零せるだけの水さえ浮かんでいなかった。

「誰でも良かったんですよ、きっと。ここで全員死ぬよりは、誰かが生きて帰ったと、そう思って逝きたかったんです。きっとそうですよ、だって私は今、そう思っているんですから」

 吉井はそう言って、息絶えた。

 私はその場からずるずると這い、米軍の陣地へ辿り着いた。そして彼らから私はこう告げられたのだ。戦争はもう終わったんだ、と。











 ―一九四六年四月―


 私はあの四人の中で、ただ一人生き残り、日本へと帰ることになった。

 帰りの船の中には敗残兵たちが詰め込まれ、彼らはただ悲しさも嬉しさも忘れてしまったかのように、呆然と太平洋の波を見つめ続けていた。そしてそれは、私も恐らく同じだっただろう。

 戦場の激しさと、大海原の静寂。この差が人一人にとってはあまりに大きすぎて、その寸法を自身の見識のうちに収め切れないのだ。

 この海にもはや敵は居ない。敗残兵である我々は潜水艦にも爆撃機にも怯えることなく、この海を渡ることが出来るのだ。その対比に私の心は草一つ生えぬ不毛の荒野のような風景のみを映し出した。

 港には復員兵たちを迎える人々が沢山居て、その後ろには米兵と腕を組んで歩く日本人女性の姿があった。その時私はようやく、我が国は戦に負けたのだということが分かった。

 私は数年ぶりに、郷里の村へと帰った。そこには地獄を見た者と見ていない者とのほんの僅かな、しかし絶大な隔絶が横たわっていた。

 父母と親戚に帰還を告げ、近所へ挨拶まわりをした後に、私は村の中を歩いた。辺鄙な場所にある村でも、そこかしこに爆撃のあとがあり、そこには黒ずみだけが醜く残されている。四月なのに、桜一つ見えぬこの風景は、今の日本の姿をそのままに映したもののように思えた。

 その中で私は、あるものを見つけた。それは、桜の木だった。近辺には爆撃のあとの黒ずみが残っており、桜の木にも燃え移ったのか、表皮が焼け焦げていた。しかし、その桜の木にはつぼみがあった。桜は、生きていたのだ。焼け焦げながらもその生命を繋いだ木に、私は言いようのない親近な感じを覚えた。

 私は、この桜の木と共に生きようと、そう決めた。いつかこの土地に根を下ろし、やがて次の桜を生み出す一つの木になってやろうと、そう考えたのだ。










 ―二〇一五年八月二一日―


 あの日からずっと私は生き続けた。三人の命をもって繋げられたその生が、無駄ではなかったと証明するために。

 私はどうだろうか。彼らに恥じぬ人生を送ってきただろうか。

 私達の子が、孫が、子々孫々のその先に至るまで、理不尽な死を押し付けられない世を作り出せただろうか。

 満開の桜を見つめていると、私同様よぼよぼになった妻が言った。

「あんた。孫が来ましたよ。目を覚ましてください」

 私は立ち上がり、玄関に向かった。そこには、息子とその妻。そして三人の孫達が居た。

「おお、つぼみじゃ。可愛らしいのう」

「親父。そればっかだなあ」

 そう言って、息子は笑った。

 孫達は思い思いの言葉をいって、靴を脱ぎ、古くなった家の中を走り回った。

 私は考えていた。彼らは一体、どのような花を咲かせるのだろうかと。

 例えそれが何分咲きであろうと、決して不実の桜とならないようにと、私は心の底から祈った。

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