彗星虫

 四畳半の薄暗い部屋。

 共同トイレ。風呂無しの木造建築が俺の住処だ。立派な現代人である俺がこのような部屋に何故住んでいるのかと問われれば、それは俺が貧乏人であるからに他ならない。俺の名前は楊盧木生次……うつぎ、せいじと読む。

 俺はしがない作家志望。元は演劇に興味があり、高校時代には演劇部の部長をやっていた。しかし、二枚目とは言い難いその面構えのために主役をはることもできず、演出や小道具、大道具のような裏方にまわるには、俺はエゴが強すぎた。

 大学では演劇を専攻していたので、幾つかの小説新人賞受賞を目指して、小説を書いている。世の中の作家と呼べる人間には、元は漫画家志望であったとか、俺と同じように演劇志望であったが事情あって小説を書いているということがままある。そうして立場を確立した先で、堂々自分の求めていた世界へと入り込むわけだ。例えば漫画原作をやるとか、映画に出てしまうとか、声優に挑戦してみたりする。

 無論。

 無論、そういうふうに成功してくれれば一番良いのだが、世の中そうカンタンではない。仕事と創作の両立は困難であるし、創作を優先すれば自然、仕事も軽いものを選ぶことになり、となれば収入も減る。社会的立場など望めようもない。一時猛烈に仕事をして金を貯めるなりし、日々の生活を爪に火をともすように暮らしてようやく成立する。永遠かと錯覚しそうになる、大いなる暖機運転の、その途上に俺は居る。

 実家にはしばらく戻っていない。しかし、実家は俺のことを今も存在だけは認識しているらしく、実家の畑や山で取れたものを定期的に送ってくれる。

 今も、実家から送りつけられてきた大量の栗を食べるための下ごしらえをしている。一度茹で、一つ一つ皮を剥いて……全部は食べ切れないので、幾らかは甘露煮にして、世話になっている友人に贈ってやろうと思う。

「ティピピピピピ……」

 音がする。

 機械の音では、ない。隣の部屋か? いやそれにしては音が近い。栗を剥く作業に支障をきたしかねないほどの音量で、その音が鳴り続ける。

「ティピピピピピ……」

 俺は作業を続ける……恐らく、警報の類ではないはずだ。大体、俺の部屋の電化製品のその殆どは、不使用時には電源そのものを抜いているので、動作しているものは携帯ぐらいなものだ。そして携帯は今俺の目の前にあり、栗ごはんのレシピを表示している。もしこの携帯から音がしているのであれば、俺は相当に間抜けだ。

「耳鳴りかもな」

 いい加減、三十路が見えてきた。ずっと座って文章を書いてふと、立ち上がると目眩がすることも増えた。

「ティピピピピピ……」

 本当か? 本当に耳鳴りか? そうじゃない気がする。耳鳴りであればもっとキィンと鳴るはずなんだ。ティピピピピピ……と鳴る耳鳴りがあるものか。

 俺はその音に集中を削がれながらも、栗の下ごしらえを終える。

 炊飯器には既に研いだ米が入っている。これに塩と栗とを入れ閉じ、ボタンを押す。

「ティピピピピピ……」

 相変わらず、あの音は今もやかましく鳴り続けている。

「この栗ご飯が炊ける頃には、音の主を始末してやろう」

 隣の部屋だったら問題だが、冷静になって考えればこの部屋はアパート一番隅にあって、隣の部屋は空室であった。いくらこのアパートがボロだからと言って、空き部屋一つ挟んでこの音量が聴こえてくるのはあり得ないだろう。もし仮に、この音が俺の部屋発であるとするなら、良い近所迷惑だ。早急に対処しなければならない。

 炊飯器が動き始めた。それと共に、俺は音源を探し始める。

「ティピピピピピ……」

 どうやらこの音は、天井辺りから来ているらしいことが分かると、俺は昼間にも関わらず部屋の電気をつけた。普段は電気代を節約するためにつけないのだが、近所迷惑だと言われるよりはいい。

 天井を見る。

 そこには、一匹の小さな虫が居た。

 緑色の、バッタのような……何とも言い難い形をしている、小さな虫。

 もしこの小さな虫が、このような大音量で鳴いているのであれば驚きだ。……しかし、これ以外に何か変わったところはない。音の方向もそこだ。この虫こそが、傍迷惑な音量を垂れ流すものの正体だろうと、俺は確信した。

「どこにあったかな……ゴキジェット」

「ティピピピピピ……ピッ!」

 唐突に、虫の鳴き声が変わった。

「あんさん、あんさん!」

 声がした。……ん、声? 声がした? 俺は一体どうしてしまったんだ。

「おい、あんさん。ゴキジェットは勘弁したってくれや!」

 声がする。さっきまで鳴っていたティピピピピピ……という音は消え、今度は声がする。

「おい、あんた。聞こえとるんやろ?」

 俺は幻聴をきいているのか。もしかすれば、さっきまで鳴り続けていた音も、この声も、全部幻聴なのではないか? そう考えると恐ろしくてたまらない。小説を書いて適当な仕事をして、あとは食って寝るだけの生活をし続けたがために、とうとう幻聴がきこえるところにまで人として堕ちてしまったというのか……?

「おい、このアンポンタン! 返事ぐらいしいやボケ! あんたがゴキジェット使ったらな、末代まで祟っちゃるからな?」

「幻聴、静まれ。カウンセリングを受けるような金は、俺にはないんだよ」

「なんや、やっぱ聞こえとるんやないか」

「聞こえない」

「聞こえとるんやないか!」

 仕方ないやっちゃのー……そう声の主が言う。すると、天井に張り付いていた例の虫が徐々に徐々に、下ってくる。ちょうど、蓑虫がそうするように、見えないぐらい細い糸にぶら下がってくるような感じで、俺の目の前にまで来る。

「おい、このスカタン!」

 声がした。その虫から、声がした。

「虫が喋った!」

 この馬鹿野郎! 虫は叫ぶ。

「ワイは虫の姿をしているがな。ゴキジェットかけられていいような身分ちゃうねんで」

「でも、かけられたら死ぬんだろ?」

 俺は今、虫と会話している。しようとしている。驚天動地だ。

「死にゃあせんが、気持ち悪いねん。あんただってああいうの使った後の臭いかいだら、ちっと気持ち悪くなるやろ?」

「そりゃ、そうだけど……でもさっきからうるさいんだよ。ティピピピピピって」

「ああ、あれか。あれはな……救難信号なんや。あれを出さんとワイは故郷へ帰れんねんな」

「救難信号?」

「そ。ワイの故郷は外宇宙にあるからなあ」

 いよいよ深刻だ。これでは本当に分裂病の発する妄想そのものだ。宇宙と来たか!

「ちょこ~っとの辛抱なんよ。あと三時間もすればお迎えが来る」

「おい。それはつまり……三時間もああやって鳴き続けるってこと?!」

「そうなるなあ」

「冗談じゃねえぞ。クソうるさいんだよお前。近所迷惑だ。やるなら草むらとかでやれよ。コオロギだって家に置けばうるさくて、大抵のやつは眠れなくなるんだぞ」

 実体験だった。あの時にゴキジェットで殺したコオロギに対する罪悪感を、俺は未だに覚えている。

「じゃあ何か。草むらで救難信号出し続けたとしてな。どうすんねんスズメに突かれでもしたら。ワイ死んでまうわ」

「おう、死ね死ね。死んでしまえ」

「死んだら末代まで呪うゆうとるで」

「どうせ俺が末代だ、バーカ」

「かーっ!」

 俺はゴキジェットの在処を考える。きっと箪笥の近くにあるはずだ。本来の主敵はその付近に表れるものだからだ。

「だからあんた、待ちなさいつってるじゃないの」

「待ってどうなる。この害虫め」

「害虫じゃないんよ。寧ろ……益虫なんよ。お前ら人間の基準で言えばな」

「どちらにせよ、幻聴のキーがお前にあるのであれば、俺はお前を殺さないことにはこの幻聴の嵐から抜け出すことができないわけだ」

「まだ幻聴疑っとるんか?」

「当たり前だろ!」

「……ワイはな。彗星虫っちゅうねん」

「ほら、虫じゃないか」

「話は最後まで聞けと親から教わらんかったのかい、あんたは」

 こほん。咳をする……虫が咳を? もういい。全部がどうでもよくなってきた……。

「ほら、流れ星が出て消えるまでの間に願い事を三回唱えたら、その願いは叶うって言いますやろ。あれができる……ワイには」

「は?」

 意味が分からなかった。大体、流れ星ならば彗星虫ではなく、流星虫だろう。

「ワイが今こうやって天井から垂れとるやろ。この今のワイがな、光って左右に揺れているその間にもしあんたが願い事を心の中で唱えたら……その夢が叶うんや」

「……」

「なんや。まだ信じてくれんのか……おっかしいなあ。人の言葉は完璧にコピーできとるはずなんやけど、意味が通じとらんのか?」

「あのね。どこでその、えー。君の名前」

「彗星虫!」

「そう、彗星虫。君がどこで人の言葉を覚えたのかは知らないんだけど、君の話すその言い回しは関西弁と言ってね。言っちゃうと」

「言っちゃうと?」

「胡散臭いんだよ! 詐欺師のいう言葉みたいにしか聞こえないんだよ。お前のその言い回しはさあ!」

「……さよか」

「ええ、左様でございますよ!」

「ちょっと、試してみんか?」

「何を?」

「その。なんかないんか? 叶えたい夢とか。大富豪になりたい、とかそういうの」

「あるよ」

 作家になるのが今の俺の夢だ。それも売れっ子作家だ。それが今の俺の、夢。

「ホンマか?」

「本当、本当」

「じゃあ、試してみればええやないかい。ワイはこの仕事慣れとるからな。バッチリ良い夢みせてやるで……?」

「じゃ、どうすりゃいいのよ?」

「まず電気を消してくれ」

 俺は言われた通りに電気を消した。

「やん。ムーディな雰囲気」

「殺すぞ」

「気ぃ短いやっちゃのお、あんた……」

 まあええわ。そう言うと、この虫の言う通りに虫が光を放ち始めた。暗闇の中に、彗星虫が光って揺れる。

「ティピピピピピ……」

 そして、あの音が鳴る。

「ティピピピピピ……ティピピピピピ……ティピピピピピ……」


* * *


 はっとする。

「ここは、どこだ?」

 俺は部屋に居る。あの四畳半ではない。実家でもない……洋室だ。

 大量の本がある。大体は俺の好きな作家のものだが、その中に幾らか、普段からよく見慣れた名前が書かれた本を見出す。

 楊盧木生次。

 そう、俺の名前が書かれた本。それも文庫本になっている。俺の作風から考えればこれは、単行本が文庫化したということになるのだから、つまり俺は……結構、売れている作家の一人なのだということが分かった。

 俺は身辺に何があるかを確認する。アイデアノート、複数台ある携帯、ちょっといい……俺が欲しいと思って、結局断念した実用的な財布。良い値段する腕時計……腹が立つほど俺の趣味に沿った物々。

 財布の中身を見る……そこそこ入っている。これなら、チェーンの飲食店でちょい飲みぐらいしても、次の日の心配をしないで済む。

 携帯が鳴る。登録されていない電話番号。

 俺はそれに出た。

「どちら様ですか」

「先生!」

 先生とは誰のことだ、と考える。考えてすぐに理解する。俺のことだ。

「先生。まだ私の番号、登録してくれていないんですね? 私ですよ。あなたの編集です」

「ああ、なるほど。編集さんね」

「何をそんな、初めて知ったみたいな口ぶりで!」

 実際に、初めて知ったのだから仕方あるまい……と思ったが、言わないでおいた。

「それより先生。新作は、まだなんですか?」

「え?」

「え、じゃないですよ! 締切何回破ったと思っているんですか? 原稿がなきゃどうにもならないのはお互い様でしょう!」

 さあ、早く新作を。編集を名乗る者は繰り返し、繰り返しそう言った。

「そうですか。出さないと言うんですか。それなら私にも考えがあります。今から先生の家にお伺いします。缶詰です。もはや人道も何もないのです。先生の家でも箱根の旅館でもどこでもいいです。缶詰になって新作を書き上げて貰います。私は本気ですよ。お分かりですね?」

 では。そう言って電話は途切れる。

「大変だ」

 逃げねば。誰に言われるでもなく俺はそう考え、家から出た。

 近所の中華チェーンでビールセットを頼む。昼間からのちょっとした贅沢だ……編集も、家に入れなければ諦めるだろう。深夜になるまでこうやって適当に時間を潰してさえいればいいのだ。幸い、金はある。

「カシャ」

 音がした。

「カシャ!」

 また、音がした。

 周りを見る、客は俺以外にもう一人しか居ない。

「まさか」

 そのもう一人の客の肩を、俺は叩いた。

「おい、あんた」

「ひっ」

 相手と俺の目が合う。

「あんた。俺の写真を撮っただろ?」

 俺がそう言うと、そいつは唐突に謝り始めた。

「すいません、すいません!」

「……謝るぐらいなら、なんで写真なんか撮ったんだ?」

「いえ、私は先生の……楊盧木作品の大ファンで、そんな先生がこんな場末の中華でビールセットなんか頼んでいるものだから、あまりに意外で」

「おい、その写真って」

 俺はそのファンを名乗る客から携帯を奪い取るが、ロックがかかっていて開けない。

「私の宝物にします!」

「冗談じゃねえぞ。消せ!」

「嫌です!」

 そこまで言われてしまうと、寧ろ相手の方が可哀想な気がしてきてしまって、強制しようとも思えなくなってしまう。

 しかし、作家・楊盧木生次とは、一体どれほどの売れっ子なのだろう。たかが町中華でビールセットを頼んだだけで意外と思われる。神格化されるにも程があるんじゃないのか?

「ところで、今年のノーベル文学賞は残念でしたね」

 そのファンが、とんでもないことを言い始める。

「ノーベル文学賞!?」

 俺は素っ頓狂な声を上げて驚いた。

「だって先生。毎年毎年候補に上がっては、取れないもんでマスコミが騒ぐじゃないですか。先生のファンたちも毎年集まって、ノーベル文学賞の発表を見ているぐらいで……」

「……いや。いやいやいや?」

 売れ過ぎだろう! 楊盧木生次!

 駄目だ。

 俺は考えた。自分の立場がどうなっているかも分からないで、外に出るのは無謀だった。もしこれが彗星虫の見せる夢だと言うのであれば、あの虫はやはり害虫で、加減を知らない馬鹿だということが分かる。ゴキジェットはやはり必要だったんだ。

「俺は帰るぞ!」

 そう叫ぶと、店員は言う。

「あの、注文の品はもう出ているのですが」

「はい、これ!」

 そう返して俺は店員に金を押し付け、店を出た。

しかし、実際問題として……家に戻るわけにもいかない。編集に捕まれば缶詰にされる。俺自身はそんな経験したことないが、過去の文学者が缶詰と称されて何をされたのかぐらいは知っている。

 結局俺は一人、自販機で購入した発泡酒を持ち、人気のない公園でそれを飲んでいた。

「なんということだ……」

 なんて、夢のない!

 せっかく作家に。それもノーベル文学賞の候補に上がるような大作家になったと言うのに、来る日も来る日も編集に追われ、町中華でメシを食えば写真を撮られるような、そんな生活をしなければならないのか……。

 俺に近寄る一つの陰がある。

 俺は言った。

「俺のファンか?」

 我ながら、生意気なことを言うものである。しかし、相手はそれを意に介さない。

「いいえ。私はただ、あなたの……楊盧木生次のサインが必要なんです」

「じゃあ、なんだ。結局のところお前も俺のファンじゃないか」

「う~ん、そうではないんですよ」

「じゃ、なんでこんな公園まで俺のことを追いかけるんだ?」

「むしろ、どちらかと言えば私はあなたの。楊盧木生次の敵、なんですよね」

「どういうことだ?」

「お忘れですか? 私は離婚調停のために雇われた弁護士ですよ」

「……は?」

「和解が成立しているのに、あなたが一向にサインを書こうとしないのが良くないんです。こんなの本来、弁護士の役目じゃないはずなんですが……」

 そう言って男は一枚の紙を取り出す。とんでもない金額の慰謝料を払い、離婚を成立させるといった旨が書かれた、その文書。

「さ、これにサインをお願いします。楊盧木生次先生」

 相手の名前は……楊盧木粱子。


* * *


「ティピピピピピ……」

 あの音だ。あの、彗星虫が放つ救難信号らしいあの、うるさい音……。

「ティピピピピピ……」

 俺は、宙に浮かぶ彗星虫を、ちょうど蚊を叩くような感じでパチンと殺そうとする。

「あぶなっ!」

 そう声がした。彗星虫は頭上に居る。

「ああ、なんや。夢から覚めたんか。どうやった? ワイの夢。完成度高いやろ?」

「……何だったんだ。さっきのは」

「物分りの悪いやっちゃの……あれがあんたの夢ですわ。売れっ子の大作家になりたかったんやな、あんたは」

「お前、良い夢見せるって言ったよな?」

「言いましたなあ」

「じゃああれは一体何なんだ。編集に追いかけ回され、ファンに追いかけ回され、挙句の果てに離婚調停だ? 人間様を馬鹿にするのも大概にしろよ」

「『たかが人間風情が』偉いこと仰る……まあ、でも最近のお人はみんなそんな感じやな。慣れっこと言えばそうやけど、ワイかて悲しゅうてなあ……慣れたくはないもんですわ」

「そりゃ、あんなもん見させられたら誰でもそうなる」

「ところがそうでもないんですわ……まあ、物は感じ方次第ですさかいに」

「何が言いたい?」

「夢っちゅうもんがブレとるんやないですか。なんかごまかしがあったり、自分で自分に嘘ついとったり……人間ちゅうもんは、その過程は複雑極まりないのに、驚くほどシンプルに自分を肯定してしまうところがあって、つまりあんたもそうなんちゃいまっか? とワイは聞いとるんやな」

 例えば。彗星虫は言う。

「あんたの夢だと思っとったもんが、実は何か本当の目的のための代償として出てきたもので、あんたがそれを夢や! と信じ込んでしまっているとか」

 俺は驚いた。彗星虫の言う通りだ。俺は元々演劇志望で、もっと言えば映画スターになりたかった。しかし、それが叶わないから、俺は作家を目指している。

「なるほど。お前の言い分は理解した」

「そうでっか、そうでっか。そりゃええことですわ。じゃあ」

「じゃあ、もう一回やってくれよ」

「……何を?」

「決まってるだろ。俺を夢へといざなってくれよ。またさっきみたいにさ」

 俺は素直にそう言った。

 彗星虫は、叫んだ。

「あんた、アホと違うか? 動物だって、一度火傷なりすれば覚えるもんでっせ」

「そう。覚えた……なるほど俺は自分に嘘をついていた。ならば今度は、自分に嘘をつかずに夢を叶えればいいんだ」

「気乗りはせえへんなあ」

「それならば俺は、君を殺す。幸い、ゴキジェットの在処を思い出した」

「あああああ、もう! 分かった。やります、やりゃあええんでしょうが!」

 彗星虫はそう言って、光りだす。

「ティピピピピピ……ティピピピピピ……ティピピピピピ……」

 左右に揺れる彗星虫。流れ星のように、暗い部屋の中で輝いて、そして……。


* * *


 はっとする。

 またさっきの夢と同じように、自分がどこに居るのかを確認する。

「ん、あれ……おかしいな?」

 部屋の作りが何か、妙だ。

 豪奢な部屋だった。やたらと柔らかなベッドに、沢山の服、服、服。巨大な冷蔵庫。ワイン保管用の設備……言ってしまえばこれらは全く、俺の趣味に合わない。何か、自分自身が小説で書く時に出てくる、物の価値が分からない成金の部屋のようだった。

「楊盧木さん!」

 扉の向こうから声がする。

その声に聞き覚えがある。嫌な予感しかしない。

「また睡眠薬一気飲みでもしたんですか。開けますよ」

 人が入ってくる。聞き覚えがあるのに、その姿を見るのは初めてのような気がした。

「……あんたは?」

「いい加減、私の顔を覚えてくださいよ。私はあなたの……楊盧木生次の付き人ですよ」

 そう言ってそいつは頭を乱雑に掻きむしる。その髪の毛が落ちるのをみて俺は少しゾっとした。

「今日のスケジュールは、午前にテレビの撮影。午後に映画撮影。夕食は次の番組企画のためにTV局のプロデューサーと会食……」

「おいおい。なんだその過密スケジュールは」

「何言ってるんですか。今日は暇な方じゃないですか。お昼を移動せずに食べることができるかもしれません……そうだ、例の中華料理店に行きましょうか。行きたいって言ってましたよね……予約、取れるかな?」

「そうじゃないんだ」

「は?」

「そうじゃないんだよ。俺が求めているのは、そういうのじゃ、ないんだよ」

「何を言っているんですか。あ、まさかまた変な薬を飲んだんですね? 世間にバレたら地位も名誉も人生も、何ならうちの事務所も大変なことになるから、あれほどやめろと言ったのに、あなたっていう人は!」

「違うんだ、違うんだ」

「何が?」

「くそっ!」

 俺は付き人を名乗るそいつを本気でぶん殴った。そいつは大げさなぐらいに吹き飛んで、頑丈そうな成金趣味の箪笥に背中をぶつけ、転がり回る。

俺は走り出した。ここではないどこかへ向かって、走り出した。

「治療費、経費で落としますからね!」

 後ろからそんな叫びが聞こえる。俺はそれを意に介することなく『不思議なほど慣れた手付きで』家から脱出した。

 そうして外に出ると、状態はあの時よりも……作家になった時よりも、ずっと悪かった。

ただ歩いているだけで何故、写真を撮られなければならない?

 俺はなんだ。イエティか? そんなに珍しいものなのか。誰かが常に俺のうわさ話をしている。小声で聞こえてくるのはこんな言葉。

「あれ、楊盧木生次じゃね?」

「あ、楊盧木生次だ」

「実物はあんな感じなんだ」

 こういう反応はまだマシで、ある時なぞは人気の少ないところまで女性に引っ張られ、こう言われた。

「さあ、今であればバレません。あなたの子供をください。認知されなくたって、いいんですから!」

 と迫られた。ふざけるな! 俺の人権は一体どこにあると言うのだ。

 俺はタクシーに乗って、適当な場所へ移動してもらう。クレジットカードを使って……そうだ。付き人が言っていた店に行こう。

 金持ちの集う街にある高級中華料理店『呂翁』に、俺は向かった。

 その店は『本来の俺であれば』一生行くことはないであろうと感じられるだけの風格を持ち合わせており、俺は個室へと通された。

 どうせクレジットカードが使えるんだ。俺は色々な高級中華を頼んで食べた。個室だったからか、例の付き人も来ない。しかし、別の人間が俺の下を訪れる。

「お客様」

「なんだ。人が来ても通すなと言ってあるだろう」

「いえ、しかし……弁護士だと相手の方は言っておられます」

「……弁護士?」

「この書類にサインさえ貰えれば、それで良いと仰られています」

 そう言って、店員は紙を出す。離婚調停、和解のための書類。相手の名前は……楊盧木粱子。

どこからか、音がする。何の音かは分からないが、聞き覚えのある音だった。

「ティピピピピピ……」


* * *


「ティピピピピピ……」

 あの音だ。うんざりする。あの音じゃないか……。

「おい」

「ティピピピピピ……」

「おい、こら!」

「なんや。もう覚めてしもうたんか?」

「お前は本当にロクでもない害虫だ。お前ら全員、地球から出ていけ。そして二度と戻ってくるな」

「言われんでもそのつもりでっせ。しかし、あんたも懲りんなあ」

「もうお前の、そういう手練手管にはうんざりだ。お前は夢ではなく、悪夢を見せるのがその本質なんじゃあないのか?」

「ハッハッハ!」

「何がおかしい?」

「夢に悪夢も吉夢もあるかいな。ああ、おかしい……本当にお前ら人間っつうのは、馬鹿で阿呆で間抜けで歯抜けやなあ」

「このクソムシめ」

「ま、本当に最近はこの手合が多いんで、ワイらもいい加減やめにしよか思うとるんですわ。だからずっと、救難信号出しとるんよなあ」

「俺は今、お前らを救難信号から二次遭難させてやりたい気持ちでいっぱいだよ」

「だってあんたら、夢は素晴らしい。夢は持つべきだ。夢、夢、夢言いはりますやんか。それがおかしいねん。夢は成立したらもう、それは夢じゃないねん。現実なんよ。夢は過去と未来にしかのうて、現在には現実しかないんや。なのにみんな互いに夢や夢や、物事成そうは素晴らしい。前途にあるものは素晴らしいものだと言い合うんやな。すると何か、夢とかいうものは実際に素晴らしいものだと思う。思い込めてしまう。しかし、違うんやなあ……夢っていうのは分相応にしか実現されんもんや。そうして夢なるものを、なんか楽しげ~なものにしようと思うならね、それなりに犠牲が必要になるんや。何の犠牲も抜きに皆が皆、やりたいようにできたらこの世の終わりでっせ」

 昔は良かった。彗星虫は言う。

「昔の人というのは素晴らしかった。夢が現実になったらね、その現実を遂行しますのよ。何故なら、自分が夢を成立させるにあたって周りや他人や、或いは世界にどれだけ負担をかけたのかを、自分に存在していた可能性がどれだけ犠牲になったのかを理解しているから、その犠牲のために現実となった夢をちゃあんと最後までやり通すんやな。ま、もっとも……そうでなきゃあ、歴史に名前なんて残らんかったのかもしれんがね」

「つまり、何が言いたいんだ」

「夢や夢や言いますが、現実はもう夢の中なんと違いますか。既にあんたは夢の中におって、そんで今、分相応に夢を実現しつつあるっちゅうこった」

 つまりな。彗星虫は言う。

「分相応の夢こそが、あんたにとっての一番なんや。そのやりたいことに払う犠牲が過大にすぎると思うんであれば、それはあんたには分不相応なもんだったっちゅうことでんな」

「……彗星虫」

「あ、え……おいおい」

 彗星虫は、俺の前で初めて本当の意味で動揺して見せた。虫だから表情は分からないが、多分相手は怯えているか、驚いているのだろう。

「あんさん、それはいけません。二度火傷しても火の熱さを忘れるっちゅうのは、脳みそしっかり持っとる生き物の理に反するものでっせ。あんた、正気になりなさいや」

「仏の顔も三度まで、と言うだろ。つまり、三回目までならセーフなんだよ。俺は、お前の言う夢の本質というものを理解したぞ」

 つまり、だ。

「分相応な夢を見るぶんには構わないわけだ。そしてお前はその夢を成立させる、何らかの力を持っている。これが事実だ。さあ、お前の力を見せろ、彗星虫! 俺は今度こそ『美しい夢』をみるぞ!」

「あああああああああ!」

 これだから、これだから! 彗星虫は叫ぶ。

「もう、これだから現代人は嫌なんや。何も学ばず、何も忘れず! そんな矛盾を受け入れるくせに、現実だけは頑として受け入れようとせん。だからワイはお前らにはほとほと愛想が尽きたんじゃい!」

 知らんぞ、知らんぞ。彗星虫はそう言いながら、また光りだす。綺羅びやかに、流れ星が四畳半を舞う。

「ティピピピピピ……ティピピピピピ……ティピピピピピ……」


* * *


 俺は夢の中に居る。確信した。

 俺が居るのは、香川にあった俺の母校。高校時代を過ごしたその学校の部室。

 夕暮れの光りが差し込み、埃が天の川のように映し出されるその情景。

 演劇部室。俺の全ての始まり。夢の開始地点。

「楊盧木くん?」

 女子が、いる。

「黄瀬さん」

 俺はそう言った。

「なに、改まっちゃって」

 彼女。黄瀬さん。俺の初恋相手。

 東京から香川に越してきた、頭の良い女の子。標準語をしゃべるので、クラスで浮いていた女の子。チェーホフが好きで『かもめ』をやりたいと言った、あの子。

 高校卒業と同時に引っ越してしまった、俺の青春のその幻影……。

「次は何をやろうか」

「どうしようか」

「何でもいいよ。劇を、やろう」

 俺は真剣にそう言った。

「でも私、劇に詳しいわけじゃないから……どうしようか。『ワーニャ伯父さん』とか」

 当時の俺だったら、チェーホフなんてロクに知らなかったから答えようがなかったろう。しかし今の俺ならば、答えられる

「サルトルの『出口なし』をやろう」

「なに、それ?」

「ああ、いや。ベケットの『ゴドーを待ちながら』でもいい」

「ああ、それ知ってる! ゴドーっていう人を待つんだけど、ゴドーは絶対に来ないんだよね?」

「そう。そういう劇だ。どうだろう?」

「いいじゃん。やろっか?」

「やろう」

「でも、他の部員は誰も居ないよね」

 演劇部は兼部を許可していたので、俺と黄瀬さん以外は皆普段、別の部活動をやっていた。そのため、俺は黄瀬さんと二人きりでよく部室に居て、二人で本を読み合ったりしていた。考えてみれば、俺が黄瀬さんに恋愛感情を抱いたのも、当然のことだったのであろう……と、今ならば思う。

「明日、話そう。部員のみんなに……大丈夫。きっと面白い劇になるよ」

「そうだね……今回も、楊盧木くんが脚本を書くんでしょう?」

「そうするつもりだ」

「ならきっと面白い劇になるよ。だって、楊盧木くんが書いた脚本が、私は好きだから」

 思い出した。

 俺はあの時、あの部室で確かにそう言われたのだ。そうして俺は、黄瀬さんに恋をしたのだ。初めて他人から何かを認められたような、そんな気がしたのだ。

「ねえ、黄瀬さん」

 俺は言った。彼女は答えた。

「どうしたの? 楊盧木くん」

「ゴドーはさ、来ると思う?」

 黄瀬さんは、答えた。

「来ない……んじゃ、ないかな?」

「俺のところには、来たよ」

 一拍置いて、俺は宣言した。

「黄瀬さん。君が俺にとっての、ゴドーだったんだ」

 二人の間に、沈黙が横たわる。彼女の目が泳ぐ。俺は、言う。

「俺は、黄瀬さんが好きなんだ」

 そこまで言ってやっと、彼女は口を開いた。

「……私も、そうだったよ」

 その日の帰り道。俺と黄瀬さんは手を繋いで帰った。俺は幸福だった……横断歩道の待ち時間さえ、愛おしく思えた。

赤信号の間、遠くから音がする。

「ティピピピピピ……」

 変な音だ、と思った。けれども、熱を帯びるその手の熱さに、俺は全てを忘れた。

 俺は彼女の家まで来た。

「実は今日、家に誰も居ないんだ」

「え」

「でも、ちょっと掃除させて欲しいな……少し待ってて」

 そう言われ、俺は彼女の家の前で待つ。

 また、あの音がする。

「ティピピピピピ……」

 俺はふと、彼女の家の門に貼られたネームプレートを見る。そこには、こう書かれていた。

『黄瀬王太郎』

『黄瀬流子』

『黄瀬粱子』

 俺は、気が付いた。

「黄瀬粱子……黄瀬、粱子?」

 粱子。俺はその名前を、今こうなるまで完全に失念していた。十年前の初恋の記憶は既に朧気で、輪郭を失いつつあった。

粱子。

粱子だ。

彗星虫の見せる夢の中で、最後にいつも俺の夢が覚めるきっかけを作った、あの相手の名前。粱子。黄瀬粱子……苗字が変われば、楊盧木粱子だ!


* * *


「ピー、ピー、ピー……」

 俺は目を覚ました。

 この音は、炊飯器の音だ。どうやら、栗ご飯が炊けたらしい。

「彗星虫!」

 俺は叫んだ。天井にもどこにも、例の虫は居なかった。

「……仕方がないな」

 取り敢えず、栗ご飯を食べよう。それ以外に今、やれることはない。

 栗ご飯の出来は中々だった。

 食事を終えた後、俺は友人に電話をかけた。栗を贈る算段をつけるためだ。

 友人はわりと早くに出た。

「楊盧木。久しぶりだな。何かあったか?」

「ああ、その……うん。何かがあったかと聞かれれば、人生一生分というか、三生分ぐらいあったような気もするな」

「はあ?」

「あ、いや。こっちの話……それよりもさ、家にまた栗が来たんだけど、食うか? 甘露煮にでもしようと思う」

「お、いいねえ。食べる食べる」

「住所は変わってないよな?」

「変わってないよ」

「それじゃあ、同じところに贈ればいいだけだな」

 そう言えば。俺は言う。

「お前、虫に詳しかったよな?」

「ん、ああ……そうだな。何を今更」

「今も詳しいか?」

「まあ、趣味で研究みたいなものを続けているからね。多分、それなりに」

「あのさ……無茶苦茶鳴き声がうるさい、バッタみたいな虫を知らないか?」

「バッタみたいな? バッタって、トノサマバッタか。あの仮面ライダーの元になった」

「仮面ライダーに似てないバッタに、似てるんだ」

「う~ん、なんだろうな……あ、もしかして」

「分かるか?」

「そりゃ、カンタンだよ」

「そうか。じゃあ、教えてくれ」

「違う違う。カンタンっていう虫なんだ。そういう名前の虫が丁度、そんな感じの見た目をしている」

「へえ、なるほど」

「……ところで楊盧木。お前、まだ作家目指してるのか」

「ああ、そうだよ」

「そうか……貯金は、大丈夫か?」

「まだまだ大丈夫」

「そりゃ良かった……いやねえ」

 彼は言う。

「ちょっとだけ、お前のことが羨ましいんだよ。俺も昆虫の研究とか、そういうことをもっとやりたいんだが、状況が中々許してくれないからな……」

「そうかい。まあ、老後の楽しみだと思う他ないんじゃないのか?」

「それもそうだな。いっそ、老後の夢とでも言ってやった方がいいのかもしれんな!」

 そう言って、彼は電話を切った。

 遠くから、音が聞こえる。何度も何度も、うんざりするほど聞いたようで、初めて聞くような気もする、そんな音……。

「ティピピピピピ……ティピピピピピ……ティピピピピピ……ティピピピピピ……」

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