積まれた本

 俺の住むアパートには、変な奴が一人居る。

そのアパートは築年月一九〇九年……俺の愛する作家・太宰治が生まれた年に出来たという恐ろしい物件で、既にもう築一〇〇年以上の時が経過している木造のオンボロアパートだ。

 部屋の数こそ六つはあるが、住んでいるのが俺とその変な奴だけで、管理人も滅多に来ないものだから、時折廃墟と勘違いしてホームレスが居着いてしまうこともあった。部屋構成は和室の畳四畳半。あるのはキッチンと小さな押入れだけ。風呂なし、共同トイレのワンルームだ。

 俺がここに住んでいる理由は至極明快で、家賃が管理費込み二万一千円という安さに惹かれたというだけだ。今の俺は作家を目指して早十年、一向にデビューすら出来そうもないうだつの上がらぬ作家志望だ。週に五回、楽で大して儲からないバイトをし、日がな小説のアイデアを練っては、百均で買ったメモ帳にそれを書き連ねて、他の時間は食事等を除けばだいたい、未だOSがWindowsXPのままの古いノートPCに文章を打ち込んでいる。冷静になって考えてみると、俺も大概、人のことを言えない変人かもしれない。


 * * *


 このアパートに住むもう一人の住人。

服装はいつも同じ、灰色の薄汚れた長袖のTシャツに、ボロボロのジーパンで、髪はなく、頭はスキンヘッドになっている。

顔立ちは若いとも老いているとも言えない絶妙な、しかし印象に残らない顔をしていて、けれどその目だけは何故かしっかりと芯が通っているような感じのする、なんとも不思議な雰囲気を持つ男だ。

 またこの変人は、昼間外に出ることがない。

驚くべきことに、トイレにすら行かないのだ。現に俺は、昼間このアパートで共同トイレでそいつと鉢合ったことが一度もない。それどころか、出すものの元となる食べ物や食材を買うところすら見たことがないのだ。

 そいつが外に出るパターンは三つある。

一つは夜七時頃に外に出て、大量の本を買って部屋に持ち込む時。

二つは深夜に外に出て、日が明けた頃にこれまた大量の本を持って帰ってくる。

そして最後。夜七時頃、大量の本を持って外に出る時だ。

この三つ以外に、そいつが外に出るところを、俺は見たことがない。

あまりにもその生活が異様なので、バイトのない日にそいつの行動パターンをメモしたのだが、本当にそいつはそれ以外に一切外に出ることがない。

 また、電気も使わない。

小説が進まなくてやきもきしていた時、俺は昼間一日中そいつの部屋の電気メーターを見つめていた時があったのだが、あの古めかしいクルクルと回るタイプの電気メーターは昼の間、一ミリたりとも動くことはなかった。夜中トイレに行く時にチラっと覗いたことも何度かあったが、その時も同じく電気メーターは動いていなかった。


 * * *


 何故俺がこんなに、たかが一住人に過ぎないあいつのことを調べ尽くしていたのかと言えば、これも理由は単純なのだ。

俺はそいつがホームレスか何かで、あの部屋に居着いているだけなんじゃないのかと疑っていたのだ。

 さっき言った通り、このアパートにはたまに、廃墟と勘違いしたホームレスが居着いていることがある。上の住人も実際はそのたぐいで、家賃を払っているわけでもなく、ただ無断で和室の四畳半を間借りしているだけなのではないかと思っていた。もしそうであれば、このアパートに本当の意味で住んでいるのは俺だけなのだから、もう少し家賃を負けてくれと頼み込むつもりだった(何とセコい話であろうか!)。

 しかし、齢八〇を超える腰の曲がった管理人曰く

「あそこの人はねえ。もう何年も、一度足りとも家賃を滞納せずに払い続けてる立派な住人だよ。こんな安い家賃すらたまに滞納するあんたみたいなのとはね、比べられないんだよ。分かってんのかい」

 とのことだ。ちなみに、俺が家賃を滞納したのは五年住んでいてたった三回だけだ。随分と酷い言われようじゃないかと思う。


 * * *


 今日は意を決し、その変人の部屋を訪れてみたいと思う。

あまりにもあの変人は不思議な生活をしているし、そもそも何を食っているのかすら分からない。俺はあの変人の正体が気になって仕方がなく、このままでは小説の執筆に支障が出ると判断した。

 このアパートは二階建てで、それぞれの階に三つずつ部屋がある。俺の部屋は下の階の丁度真ん中にあり、例の変人の部屋は上の階の真ん中……つまり、俺の部屋の真上にある。そのため、夜中外に出る時や大量の本を持ち込んだ時に、ミシリ、ミシリ。トン、トン、トンと音がする。随分と古いアパートなので、防音性は皆無に等しい。ある時などは、隣の部屋に住み着いたホームレスたちが酒盛りしていた時のその会話が、筒抜けになって聞こえていた時もあった。

 俺があの変人に会うために、アパート内の階段を登ると、今にも床が抜けそうな、メキリ、メキリという音が鳴って、心底俺を怖がらせてくれた。築一〇〇年を越えて建っているのだから、あの関東大震災も切り抜けてきたはずだが、現代の耐震基準をしっかりと満たしているとは到底思えない。

 例の変人の部屋には、表札に名前が書かれていない。最近はプライバシーの保護なんかの関係もあって、表札に名前を入れずに生活している人も多いことを考えれば別に不思議なことではないが、名前がないというだけで、調べる手段が随分と限られてしまう。そう考えると、表札に名前を入れないというのは賢明なことなのかもしれない。かくいう俺も、表札に名前を書いていない。これは単に、名前を入れるのを面倒臭がっただけではあるが。

 音の鳴る階段を上がり、件の変人が住む部屋の前についた途端、俺は怖気づいた。当たり前だが、俺のやっていることは社会的に見れば変人どころか半ば犯罪である。うだつの上がらぬ作家志望、三〇越えのフリーターともなれば、誰も同情せずに、容赦なく俺を留置所へと叩き込むだろう。事と場合によっては刑務所だ。

刑務所に入るのだって、作家を目指すには良い経験かもしれないが、俺は肝心なところで小心者なのだ。ただでさえ親を泣かせて今の生活を続けているというのに、その上息子が犯罪者になったら、彼らは服毒自殺でもしかねない。それは正直、心が痛む。

 このアパートは未だにインターホンすらつけていないので、人を呼ぶ時はドアを直接ノックしなければならないのだが、ノックするというのは、インターフォンを押すよりも心理的障壁が高いのか、ドアを叩く勇気はまるで湧いてこなかった。

 小心者の俺は戯れに、ドアノブを回してみた。そこに理由は何もない。ただ、ノックする勇気が湧かないから、何となくそうしたというだけの話だ。

しかし、そのドアノブはまるで俺を嘲笑うかのように、するりと半回転した。例の変人は、ドアの鍵をかけていなかったのだ。

或いは、壊れている。このボロアパートのドアの鍵は本当によく壊れていて、それが廃墟と間違われる原因の一つとなっている。ホームレスが居着いてしまったのも、鍵が壊れた部屋だったはずだ。

 何と不用心なことであろうか。廃墟と見紛うボロアパートとは言え、一応は人の住む物件なのだ。気の間違いでもおこした誰かが泥棒や強盗にでも入るかもしれないというのに(もし俺が泥棒だったとして、この物件を狙う可能性は万に一つもないとは思ったが)。

 俺は心の中で、こう呟いた。

「全く、不用心じゃないですか。鍵がしまってないですよ! 鍵ぐらいはしましょうよ。もしかして、鍵壊れてんですか!」

 そうだ。俺はあの変人を付け狙うストーカーなんかじゃなく、あくまで鍵をかけない、もしくは壊れたままにしているその不用心さを注意し尚且つ心配している風に言えばいいのだ。そうすれば、何もおかしいことはない。この時の俺の脳内では、最低一回はドアノブに触らないと、鍵がかかっているかどうか判別がつけられないという、初歩的な部分に気がつけていなかった。もしこれがミステリの犯人だったらお笑いものである。

 心の壁が一瞬でとれた直後、俺はその部屋のドアをあけた。


 * * *


 そこでは、異様な光景が広がっていた。

俺の部屋と全く変わらないであろう四畳半の部屋に、様々な装丁、サイズの本が並べ……否、敷き詰められていた。それはまるでトランプの七並べのような感覚で、一見すると丁寧に、けれど何処か乱雑に、沢山の本が積まれていたのだ。

積まれた本の高さは大体三〇センチぐらいで、玄関から続く形で、人一人がなんとか寝返りをうてるぐらいのスペースが設けられていて、例のスキンヘッドの変人は、いつもと変わらぬ服装で、そのスペースの先端に胡座をかき、俺に背中を向けて、一冊の本を静かに読んでいた。

 あまりに異様なその光景に、俺がその場で立ち尽くし、絶句していると、例の変人は本を閉じて、一切の危機感を感じさせない、ゆっくりとした動きで、俺の方を見た。

「一体、何の用だね?」

 俺は焦った。工事現場であの赤いシグナルライトを振るバイトをしていた時、俺の真横を、かするような距離で車が勢い良く通り過ぎた瞬間と同じぐらい、焦っていた。

「あ、そ、その! 鍵、あいてますよ!」

 件の変人は、不思議そうな顔をして、言った。

「ああ、また鍵が壊れていたのか……ところで、何故君は私の部屋の鍵がかかっていないことに気付いたのだね」

 この時点でようやく俺は、自らの犯したミスに気が付いたのだ。お笑いものの真犯人、ここに生まれ、ここに死す。

「す、す、すいません! もう俺、あなたが何者なのか気になって気になって気になって、しょうがなかったのです! 俺はただ興味本位で、別にあなたのことを害するつもりなんて全くないんです!」

 俺が挙動不審をそのまま体現したような様子でもってそんな台詞を吐いた。

「大体、その積まれた大量の本は何なんですか! 怪しい、怪しいですよ!」

 怪しいのはお前だ、と言いたいし、この言い分自体言いがかりに等しいものだったが、この変人は俺の言葉を真面目に受け止めたらしく、こんな言葉を呟いた。

「ううむ。話すと長い。しかも、信じてもらえるかも分からない。どこから話せばいいものか」

「話してくださいよ。俺はあんたが何者なのか、気になってしょうがないんですから」

「そうだな……まずはここからだな」

 次に彼は、衝撃的な言葉を口にしたのだ。

「私は不老不死なのだよ」

 それを聞いた俺は、頭の中が真っ白になってしまった。


 * * *


「信じてくれないかい? 私はただの、恐らく世界でたった一人の、不死者なのだよ。かれこれもう、一一〇〇年ぐらいは生きてきた」

 それを聞いて、ようやく俺の脳が活動を再開した。

 俺は内心この変人のことを小馬鹿にしながら、こう言った。

「不老不死なんて有り得るわけないじゃないですか。小説じゃないんですから。もし本当に一〇〇〇年以上生きたと言うのなら、太宰治がどんな奴だったかとか、是非教えて欲しいっすねえ!」

「ああ、太宰か?」

 自称不老不死の変人は、まるで現代の読書家が自分の好きな、まだ生きている作家について語るような、そんな軽い調子で持って、太宰の名前を口にした。

「同人誌やってた頃は全く知らないんだけど、逆行だったかな? あれがね、新しく出来た芥川賞の候補になった時に初めて知ったよ。落選した時に川端が太宰の私生活に難癖つけて、それに対して必死に誌上で反撃していたのが面白かったね」

 彼はまるで、実際に誌上でその様子を見ていたような風に、太宰が有名になった経緯について話した。

「ですけどそれ、Wikipedia見れば分かることっすよね。不老不死の証明とは、言い難いんじゃないっすか?」

 実際、俺も太宰治のWikipediaページでそれらの事実を知ったのだ。その経緯さえ知っていれば、あとは演技力次第で今のように言い繕うことは十分可能だろう。俺自身が、彼の知る太宰について言ってみろといったのに、もし本当に彼が不老不死であったなら、随分と理不尽な態度をとっているとも思っていたが、この時点で俺は彼の不老不死を全く信じていなかったので、その可能性については全く考慮していなかった。

「じゃ、これでどうだろう」

 そう言うと、彼はポケットからコンパクトナイフを取り出した。

まさか。まさかこいつは本当に、やるつもりなのか。俺の想像があっているなら、そういった行為をすれば間違いなく人は死ぬはずだった。

「仕事柄、使う機会が多くてね。もっとも、こういう風に使ったことはないんだけどね」

 そう言うと彼は、自らの頸動脈にナイフをあて、それを切った。

俺は思わず、自分の手で自らの目を覆った。普通であれば、そこには惨劇の後が広がっているはずだからだ。

「おいおい。いつまで目を覆っているんだ。目を開け給えよ」

 何かの間違いか、彼は平気な感じでそんなことを言っているし、血が吹き出すような音も、確かになかった。

俺は目を覆っていた手のひらの隙間から、彼の様子を見た。確かに彼は未だ生きている。切られた首筋からは血が一滴も出ておらず、にも関わらず切り口は赤かった。しかし、その切り傷も、見る見るうちに塞がっていったのだ。

「これで、信じてくれる気になったかな?」

 俺は何も言わずに、彼の持っているナイフを奪い、自分の指先をちょっとだけ切ってみた。

「あだっ!」

 ナイフは、紛れも無い本物だった。

「本当なんだけれどなあ。何なら、首も調べてみるかい?」

 俺は、彼の首元をぺたぺたと触ったが、どうも、今の自殺未遂には種も仕掛けもないらしいことが分かった。

「……本当に、不老不死なの?」

「だから、言っているだろう。私は不老不死なんだよ」

 彼は別段誇らしげにするでもなく、淡々と、当たり前のことのように、そう言ったのだ。


 * * *


 彼はどうやら、本物の不老不死だったらしい。

彼は汗もかかず、血も流さず、また、排泄物も出さない。食事も必要ないし、水分すら取る必要はない。

 いつも着ている服は、同じものを二つ用意して、交互に使っているらしい。汗も書かないので、物理的な汚れ以外はとらなくていいので、洗濯の回数が少ないのだ。それらの服をずっと長く使っているせいで、随分とボロくなっているが、どちらも多少ボロくても見た目に違和感がないものを選んでいるようだ。

「私はこの通り、本を読むのが趣味なんだ。昼間はずっと本を読んで、夜中は外を歩いて本を探したり、読み終わった本を売ったりしている。資源回収の日に本を拝借したりもしているので、いわゆるせどり屋に近いな」

 先程取り出したコンパクトナイフは、その際に使うものらしい。

「しかしなんでまた、本なんて読もうと思うんですか? 不老不死なら、やれることなんていくらでもあるでしょう」

 作家を目指す身である俺が言うのも難ではあるが、もし自分が不老不死だったなら、小説を書こうなんて思わなかったんじゃないかと思う。

「小説でよく出てくる、月並みな話ではあるが、大体のことをし尽くしてしまってね。この世のあらゆる美食、あらゆる娯楽、そして逆に、あらゆる苦難も体験してきたが、繰り返しそういうことをやっていると、つまらなくなってしまったんだ。そんな中で私は、本を読もうと思ったんだ。これも思いつきに過ぎない。本を読むのは娯楽の中でも手軽なものの一つだ。今更繰り返すこともないだろうと思っていた。だがね……」

 一拍置いて、彼は言葉を繋げる。

「本だけは、本だけは違ったんだ。あらゆる経験をした後にまた本を読むと、また違う視点が生まれ、違う想像が出来た。前はくだらないと思ったことに感心したり、前は面白いと思った部分にケチをつけたくなったりもした。二〇〇年ぶりにね、泣いたりもしたんだよ。感動してしまった。感動で、心が震えたんだ」

 二〇〇年涙を流さないでいる。その間の彼の心情を察するのに、俺の生涯はあまりにも短すぎた。

「それから私は、色んな場所を転々として、色々な本を買い、それを読んでいる。何百回も読んだ本もある。初めての本もある。そのどれもが、回数を重ねるごとに変わっていくんだ。本は変わらなくても、私が変われば、本は面白くもなるし、つまらなくもなるんだ。その変化が、あまりに面白かった。

 私は呆れてしまったよ。何百年も生きて、様々な娯楽を経験した先の、最後に残っていた娯楽がまさか、自らの脳髄に存在しただなんて!」

「……灯台下暗し、っていう奴ですね」

「全く、その通りだ。今はいい時代だよ。図書館にいけばタダで本を借りられるし、古本を売買してればその利ざやで本を買える。本が発禁になったり、燃やされたり、非常に高価だった時代なんかより、よっぽどいい!」

 その話を聞いているうちに、俺は、知らぬ間に、涙を流していた。


 * * *


「一体どうしたんだい? さっきのナイフの傷が、痛んだのか!」

 確かに、オモチャのナイフだと信じ切っていた俺は、思ったよりも深く、自らの指に傷を作っていたが、原因はそれではなかった。

「俺、作家目指してんすよ。作家。小説書きたいんす。でも俺、途中からどうすれば面白いのか分かんなくなって、自分が面白くっても、他の誰かにとって面白いとは限らないなって。でもなんか、あなたの……すんません。名前、なんて言うんすか?」

「名前ね。昔の名前は今じゃ使えないからね。今は月野とか、岩笠とか名乗っているよ」

 彼は、声をしゃくりあげながら話す俺の言葉を、真剣に聞いてくれていた。

「んじゃ、月野さんにします。俺、月野さんの話聞いて思ったんす。俺、半端なんだなって。本の面白さって、人それぞれで、面白い時とつまんない時ってのが確かにあって、でも俺はなんか、売れる! とか、俺が面白いんだからこれでいいんだ! とか、そうやって独り合点して小説書いて、それってなんか違うって。半端なんだって。そう思ったんすよ」

 泣き続ける俺を見ながら、月野さんは真剣な表情で、俺にこう言った。

「半端なんかじゃないさ。限りある命の中で君は、永遠に生きる者たちを生み出し続けているんだ。それは素晴らしいことじゃないか。限りある命を使って、自ら何かを目指すなんて、最低でも私には、もう永遠に出来ないことなのだからね」

「そ……そう、っすかね?」

「そうだよ! 君は永遠に楽しめるものを作っているんだ。もっと誇りを持つといい。誰が、じゃないし、自分が、でもない。誰かが、誰かがそれらを楽しみ、楽しむ者がずっと存在したならそれは、永遠の命に等しいと思うよ。そしてそれは、私の持つ本当の不老不死なんかよりよっぽど感動的で、素晴らしいことじゃないかね!」

 月野さんは、雄弁だった。そしてその雄弁に、俺は何か、心を取り戻したような、そんな気がした。


 * * *


 その次の日。月野さんは居なくなっていた。

 管理人の爺さんに話を聞くと

「ああ? あの人ね。夜逃げしちまったんだよ。綺麗にもぬけの殻だったよ。でもね、家賃はしっかり、部屋の真ん中に置いてあったんだ。不思議だよねえ。金はあんのに、夜逃げしちまったんだ。最後まで律儀な人だったよ。

 ところであんた、今月の家賃はいつ払うんだい! もう支払日は過ぎてんだよ! これでもう六回目じゃないか!」

「四回目だぜ。じーさん」

「やかましゃー!」

 とのことだった。

 きっと、俺が彼の、月野さんの秘密を知ってしまったから。そのために、夜逃げをするはめになったのだろう。あの大量の本を持って、何処かへと。

そう思っている中で俺は、アパートにある俺の部屋の郵便受けに、一つの本が入っているのが分かった。

その本は、三島由紀夫の「天人五衰」で、最後のページにこう書かれていた。

「限りある命ならば、永遠に生きよう」


 * * *


 あの頃から今に至るまで、俺はずっと小説を書き続けている。心が折れそうな時もあったし、いっそやめてしまおうかと思ったこともあった。けれど今も、永遠に生きるものを、永遠に生かすために、小説を書き続けている。

挫けそうになった時にはいつも、あの時につけた指先の傷に触れるのだ。今ではもうざらついてしまっているが、その傷に触れるたび、俺はあの時の、積まれた本と、その中に居た不老不死の男のことを、思い出すのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る