異教のマリア

 序章


 一九一六年三月十日。

 オーストリア=ハンガリー帝国領ゴリツィアの程近く、イゾンツォ川のほとりで、男が一人、取り残されていた。

 彼は既に死につつあった。その顔は蒼白で、手足の感覚も失われ始めている。

 不思議な心地だった。あらゆる苦痛から解き放たれ、戦場の砲声はもはや遠く、彼は感じ取る全ての事象が、既に遠い場所へ行ってしまったかのように思えた。

 彼は力なく目を瞑った。すると当然、彼の視界は暗闇に包まれる。そして彼の眼前には、人が眠る直前の微睡みの中で見る夜闇に浮かぶ夢の影に非常によく似た、かつての麗しい記憶の映像が蘇り出すのであった。


 本章


「神よ、皇帝フランツを守り給え。われらが良き皇帝フランツを……」

 荘厳なるパイプオルガンの調べと共に、その歌は始まった。

「皇帝に長寿あれ、幸運の輝かしき栄光のうちに……」

 この小さな村のどの家屋よりも大きい教会の大聖堂の中、十字架にかけられ血を流すイエス・キリストの像を前にして、その音は重く響き渡る。

「皇帝も行くところ、月桂樹の一枝も栄誉の花輪に繋がれり……」

 そうして私の両親は、その両手を強く握り締め、目を瞑り、必死の様相で神へ祈りを捧げる。そう、それはまるで国歌と同じように、こう祈り続ける。

「神よ。我らが皇帝フランツ・ヨーゼフ陛下を、そして……」

 その言葉は、このように続く。

「我らがオーストリア帝国を、守り給え」


* * *


 オーストリア帝国……正式名称はオーストリア=ハンガリー帝国。かつては神聖ローマ帝国を名乗り、中欧を支配した大帝国であったこの国も、度重なる敗戦と諸民族の蠢動によって内側から蝕まれ、かつての栄華とは似ても似つかぬ有様となった。

 もはや時代が、この国家に、この帝国に適さなくなったのである。この国の長大な領土は民族の檻と呼称されるようになり、それぞれの民族が民族自決と独立を夢見て争い続けている。

 私が生を受けたのは、そんな国の端に位置する地域、チロル州にある小さな農村であった。この場所もまた、オーストリアの主要民族とは違う民族が住んでいる。

 私を含むこの村の住人は、その殆どがイタリア民族であった。私達はイタリア語を話し、北部イタリア人と同じ生活様式で日々を営んでいる。けれども私達はオーストリア帝国の国民なのだ。

 民族自決はもはや世界の大いなる潮流なのだ。プロイセンがオーストリアとフランスを下しドイツ帝国を作り、サルディニアがリソジルメントによってイタリア人国家を作り上げたように、時代のうねりが国家を飲み込んでいるのだ。

 かつて、ほんの少しの間だけ、この村に滞在した男から私はイタリア民族主義と自由主義、そしてマルクス主義について学んだ。

 彼はカルボナリ党員であった。彼の言葉は理知的で、ともすれば傲慢とも取れるような言葉遣いではあったが、その言葉には同時に熱が籠もっていた。彼の中には冷ややかなる知性と民族自決の熱が同居し、複雑なバランスを成していたのだ。

 彼は言った。

「イタリアは長くバラバラの、別種の国家として互いに睨み合ってきた。そしてその状況を他の列強が利用し続けてきたのだ。それは例えばオーストリアであり、フランスであったりした。けれどもどうだ。イタリアはオーストリアを下し、フランスを下し、とうとう統一をなさんとしている。これは民族の意志なのだ。ドイツがビスマルクの元ドイツ帝国をなし、イタリア王国が同時に成ったように、これは時代が定め給うた未来なんだ」

 その言葉はまるで私が聖書で見た預言者のようであった。

 やがて彼はすぐに村を去った。その後に秘密警察の者が来て、過激な革命家がこの村に来たと知らせた。その者の言う人相は彼に相違なかった。

 彼の熱はそのまま私の中に生き残った。故に私はこの土地もまた、イタリア国家によって治められるべきだと考えていた。けれども世界の潮流とは裏腹に、素朴で日々の生活のことのみを考えている、カトリックの清貧の思想を体現する郷土の人々は、そんなことなど思いつきもしない。

 故に彼らは、帝国がセルビアへ宣戦布告することを当然のことのように考え、それがやがて、他の国を巻き込んだ途方もなく大きな戦争に繋がろうという瞬間にも、ただただ純粋にオーストリア皇帝の無事と、オーストリア帝国の勝利を願った。失明とは肉体によってでなく、その精神によって齎されることもあるのだ。

 だが、彼らは善良なる市民であった。それは私が保証する。彼らには欲がなく、彼らはただ清く、そして慎ましやかに生活を営んでいるに過ぎない。時代の大いなる潮流と彼ら善良なる市民にどのような関係があるというのだろうか。彼らはただ『生きているだけ』だというのに!

 最初はセルビアを下すのみで済むはずだったこの戦争がロシアを、ドイツを、そしてイギリス、フランス、トルコ帝国を巻き込んだ大戦争となった頃に、この片田舎の村にもウィーンの熱気が伝わってきて、村民たちは愛国心以前にある古い郷土愛を持って団結を訴えた。そして彼らはあの大聖堂に集まり、熱に浮かされるそのままに熱弁を奮い、最後にはオーストリア国歌『神よ皇帝フランツを守り給え』を斉唱することで会を終えた。

 帰る道。既に日は落ち、お互いの顔の輪郭さえもぼやけて見えるような夜闇の中で、父は言った。

「お前も、男子として生まれたからにゃあ」

 何か、息を飲むような間を置いた後に、言葉は続く。

「御身を祖国に捧げる覚悟をせにゃならん。そうだろう、なあ」

 その言葉に、母は無言で頷いた。私は何も答えることが出来ず、ただ俯いて、闇に沈んだ小麦畑の方をじっと見ていた。


* * *


 世界が戦争の熱気に飲み込まれる最中、私の住む村にロマの一団が現れた。

 全ヨーロッパに住まう流浪の民であるロマ達は、死ぬまで旅をし続ける。

 そんなロマの中には、大っぴらに出来ない職業でもって日々の糧を得る者達もおり、全ての地縁から切り離されていることもあってか、彼らはその土地の定住者から忌み嫌われることが多い。ましてや、特別保守的な私の村で彼らは通常以上に軽蔑の目が向けられ、彼らもまたそれを自覚して、村の外れに居を構えていた。父母はまるで彼らをネズミの旅団か何かのように罵り、すぐにそれが立ち去ることを願った。

 しかし私は彼らのことが気になって仕方がなかった。それは無論、正のニュアンスでもって、である。それは仲間外れにされた者同士がくっつき合うような同情心、共感があるというのが自分でも理解出来た。彼らのことを知りたい、という感情は、私の父母が彼らを罵るごとに増していった。

 やがて私は誰に言われるでもなく、自らの足で彼らの居住地へ赴いた。彼らは村から少し歩いたところにある小高い丘の草原に座し、我々定住の民を気遣うようにひっそりと、静かに暮らしている。

 私が彼らの住処へ近付いた時、丁度そこの大人たちは何処かに出払っていて、少女一人だけがただそこに取り残されていた。その少女は私の見たことのない何か独特な、けれども情熱的な音調を持ったダンスを踊っていた。

 熱に侵されたような、蜘蛛のような脚さばき。扇情的なその腰使いは、保守的な人間には娼婦的とも取れるものであった。

 しかしそれは確かに、私を魅了したのであった。扇情的なそのダンスは同じく女性的な肉体を持った女性にこそ相応しいものであり、そして彼女は少女であるが故にその要件を満たすことが出来ず、それが寧ろ少女のダンスに何か妖精的な、まるでそれが扇情的であるということを自覚せずに行われている一種の児戯のような、そんな趣を与えていた。

 私はそのダンスを、ただぼうっと眺めていた。打ちひしがれるわけでもなく、けれども決して無感情というわけでもなく、ただ私は彼女の踊りに目を奪われていた。

 やがてダンスが終わると、私の存在に気が付いたらしい少女はこちらを見、言った。

「あら、どなた?」

 それは何一つ違和感のないイタリア語だった。私は答えた。

「あそこの村に住んでいるんだ。アロンツォと言う。君は?」

「マリアよ。マリア・パガーニ。それが私の名前」

 パガーニと聞いた時、かつて私と交流のあったあのカルボナリ党員が党員でない者を呼称する時にパガーニ(異教徒)と言い表したことを思い出した。

「いけないわ。私、やらなきゃいけないことがあるの。もういいかしら?」

 私は言った。

「また会えるだろうか」

 彼女は微笑む。

「ええ、いつでも居るわ……きっとね」

 そうして彼女は踵を返し、カールがかったその黒い髪を揺らし、彼らの住居へと戻っていった。

 それが彼女と私の出会いだった。


* * *


 彼女の言う通り、私が同じ場所に出向くと、彼女は相変わらず例のダンスを踊っていた。しかし今度は向こうが私の存在に気付き、踊るのをやめてこちらを見た。

「続けてくれてもいいのに」

「まだ人に見せられるものじゃないわ。それに」

「それに?」

「家族以外とお話する機会なんてそうそうないもの。私達は嫌われ者だから」

 その言葉を否定したいと思っても、現実にそうであるが故に私は何も言えなかった。彼女たちが受ける差別の実態を私は知っている。私の郷里の人々が彼女たちをどのように見ているのか、私は嫌というほど理解している。

「私は……私は、違う」

 彼女の眉が動いたのが分かった。その綺麗な瞳が私の姿を映している。その言葉は、私が、ではなく、私の中に秘められた大いなる意志が私の口を通じて表出したもののように思えた。

「私は、あんな奴らとは違うんだ。同じでなるものか。私は絶対、あいつらみたいなことを言わない。断言する……」

 一種の告白めいたこの言葉は私の頭の中でリフレインした。特に『あんな奴らとは違う』という部分が耳から離れない。反復するようにその言葉は響き続ける。

彼女は言った。

「あなたって何か……随分、変わってるのね。普通じゃないわ」

「幻滅したかい」

「いいえ……でも、家族は大事にするべきよ。私達でもそうするように、あなた達もそうなのでしょう。きっと」

「ああ、その通りだ。でもそれが君達を差別することの正当化にはならないと、私は思っている」

「そう言ってくれるだけでも嬉しい」

 彼女は笑った。私もまた微笑んだ。ここでは物事の全てが上手く運ぶような、そんな気がしてならなかった。

 私と彼女はそれから、毎日のように会い、そして話をするようになった。

 彼女はまるでひよこのようだった。狭く閉じたロマの家族の中に居続けて、それ以外のことは何も知らずに生きてきて、それでいて世界の全てが気になってしょうがないという好奇心で満ちていた。

 私にとっても彼女は代えがたい話し相手になった。彼女とは色々な話をした。生まれ育ったこの村のことや、それよりも外の……遠くで起きた出来事について話をした。民族自決の悲願とその達成、偉大なる革命家、聞きかじりのマルクス主義……それら全てについて彼女は良い聞き手であり続けた。故に私は彼女の前に居る時だけ、まるで自分が『イタリア人』であるかのように錯覚したのだった。


* * *


 しかし全ての蜜月がそうであるように、破局は訪れた。

 ロマの住居へ通っていることが両親に知られてしまい、私は精神異常者がそうされるように、部屋の中に閉じ込められた。

 分かっていたことではあったが、私の考えは彼らには理解されなかった。彼ら曰く、ロマとはイスラムのスパイであり、アンチキリストであり、汚らわしい存在なのであった。そしてその考え方には如何なる反論も許されないのだ。

 数日の間、私は自室に閉じ込められた。その中で一つ、私の心にある変化が起きたことが分かった。

 私にとって彼女が如何に特別な存在であるかを再認識させられたのだ。私にとって彼女は、彼女の全てが愛おしく思えた。これはつまり、私に訪れた初めての恋なのであった。同じ郷里の村娘には全く浮かばなかったその感情が今こうして生まれ、私の中で肥大化していった。破裂の予感を秘めたそれは破裂することなく、際限なく巨大化し続けた。

 両親が私を自室から解き放った時、私の中にはある大きな矛盾が生まれていた。それはつまり、私が彼女と添い遂げようとするならば、郷里を、そして私の心の中にあるイタリア民族の統一の願望の障害になることは間違いなく、郷里を選び取れば同じく統一への情熱と、そして彼女とを失うことになる。そして私がイタリアへと駆け出せば、後には郷里と彼女とが取り残されるのであった。

 もはや何も手がつかない。私が何処から来て、そして何処へと向かうのか。私には分からなかった。

 私に必要なのは、決断であった。それは即ち、彼女か、郷里か、それともイタリアか、である……。


* * *


 時代が私の逡巡を許さなかった。イタリアは連合国の側に立ち、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告した。いずれ私の元にも召集令状が届くであろう。

 そうなった時、私は何かを決めたわけでもなく、ただ自失して、何処を向けばいいか分からないまま、彼女の元へ私は来た。

 降りしきる雨の中、彼女の寝る荷馬車はまるで城のように見えた。私は何であろうか、騎士か、それとも迷える子羊か……?

 しかし、天啓を受けたかのように、彼女は私の存在に気が付いた。

「……ねえ、アロンツォ。あなたなの?」

 私は言った。

「そうだよ」

「そんなところにいたら、寒いでしょう。中に入って。大丈夫、誰も気にしないわ……」

 私は彼女の言葉に従った。

彼女の寝室は古ぼけていたが、雨を凌げるだけでも、それに、彼女が居るというだけでも私にとっては幸福だった。

「ねえ、アロンツォ。あなたはきっと家族の人に『来るな』と言われて、それでもここに来たんだわ。そうなんでしょう?」

「よく分かるね」

「私もね、きっと今夜来てくれるって、そう信じてたの。本当よ」

「疑うわけ、ないじゃないか」

 暗闇の中、彼女は微笑んだ。闇の中にあって彼女の顔は朧気であったが、それでも私にはそれが分かった。彼女は笑っていた。

「私達はね、もうすぐこの村を出るの」

 その言葉を聞いた時、私は不思議と驚くことがなかった。そのような予感がしていた。彼女が私についてある天啓を得ていたのと同じように、私もまた天啓を授かっていた。

「だから、そうなる前に一度あなたに会いたかった。だって私は、あなたを愛していたから」

 そうして彼女は言葉を続けた。

「私、あなたに抱かれたいの。そうすることで消えない印が私の身体につくことを望んでいるの。私は、だって、初めてだから」

 その言葉は雷のように私の身体を貫いた。私には一種の快感にも似た理解が身体に染み渡ったことを理解した。

 私に必要なもの、それは崇拝・信仰の対象であった。無神論を知り、神を持つ郷里の者とは違うのだという自覚が私を神から遠ざけていた。けれどもしかし私は、キリスト教から切り離された美しき異教のマリアを求め続けていたのだ。

 そして私は今こそ、それを見つけ出した。

 寝台に佇む彼女を前にして、私は片膝をついて、キリスト教信者がそうするのと同じように、両手をぎゅっと握って目を瞑り、懺悔をし始めた。

「……聞いて欲しい。他でもない君に。マリアに、聞いて欲しい」

「いいわ。あなたの告白を、私は聞きます」

「私は祖国を裏切り、郷里を捨て、イタリアに向かい、そしてイタリアの兵士として戦います。もし私がイタリア兵として郷里を焼けと言われたら、私は何の躊躇もすることなく、この郷里を焼き尽くすでしょう……」

 一拍置いて、私は言った。

「私の罪を、お赦しください」

 彼女は誰に強いられるでもなく、淡々と言った。

「あなたの罪を、赦します」

 そうして私の魂は救われた。


 終章


 一九一六年三月十日。

 オーストリア=ハンガリー帝国領ゴリツィアの程近く、イゾンツォ川のほとりで、男が一人、取り残されていた。

 甘き夢の後、あらゆる恐れは過去となり、彼の身を幸福が包み込んだ。

 彼は、か細い声で歌い出した。彼の祖国の歌を。イタリアで学んだ、イタリアの国歌を、彼は歌い始めた。

「イタリアの兄弟……イタリアは目覚めた」

 虫の羽音よりも小さなそれは誰の耳にも入ることはない。

「スキピオの兜を……その頭上に被りて」

 しかし彼は幸福であった。

「勝利の女神……ウィクトーリアは何処に?」

 脳裏にはマリアが、そして……彼の望んだ、統一された祖国イタリアの幻が浮かぶ。

「我ら、何世紀もの間、虐げられ……嘲られた」

 もはや血さえも流れない。そのような状態になっても、彼は歌うのをやめなかった。

「ときは告げられた。我ら統一のときが……」

 やがて彼がイタリア国歌第二番を歌い終えた頃、彼は死んだ。

 遠くには銃声と砲声が響き、そしてイタリアの緑、白、赤の国旗がはためていた……。


 終

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